第5話 エヴィボード

 槙田精肉店の言っていた【クローム】とは四丁目にある居酒屋【よんクローム】のことで、そこに配達するはずの肉がこのコロッケフィーバーのお陰でいつになっても外に出られないため、届けてほしいとのことだった。


 夕夏は肉の詰まった段ボールを前に顔がひきつる。こんな重そうなもの、運べるわけがないと思った。


「そんな顔するんじゃないよ。これを使ってお行き」


 女はそう言うと夕夏に桃色の四方一メートルほどのアクリル板のようなものを渡した。アクリル板の一辺は穴が開けられており、そこから紐が通っていた。


 夕夏はアクリル板をまじまじと眺めながら、


「……ええと、そう言われましても」


 夕夏からすれば嫌がらせとしか思えなかった。これを一体どのように使えば段ボールを簡単に運べるようになるのか。


「ただの板、にしか見えないのですが」


「やだあんた、『エヴィボード』の使い方を知らないの!?」


「……なにボードって?」


「母ちゃ~ん! いつまでくっちゃべってんだよ! 俺だけじゃパンクしちまうよ!」


「はいよすぐ行くから待ってな! いいかいお嬢ちゃん。この段ボールをエヴィボードに乗せてごらん」


「乗せるって……もしかしてそれを紐で引っ張れってことですか?」


 バカも休み休み言え、と口から言葉が出掛ける夕夏。この板にローラーでもついていれば話は違うのだが、どう見てもただの半透明の板。それを何とか引っ張っている自分を想像してさらに滑稽に思えてしまった。


「乗せたらその紐を持ってこう言いな、〝麗しいチカラ、浮遊〟」


「は、はあ……」


「そういうことでお嬢ちゃん、使うような真似して本当にごめんね! バイト代は弾むから!」


 女は言うと、キレの良いサムズアップをして戦場に戻っていった。


 取り残される夕夏。その傍らにはヘンテコな板。


「とりあえず乗せてみるしかないよね」


 夕夏はため息をつくと、腰を入れて段ボールを押しエヴィボードなる板の上に乗せた。板に乗った段ボール、そこから伸びる紐を握る夕夏。


「これじゃあ段ボールを散歩に連れ出してる異常者だよ……!」


 思わず顔を覆った。


「……だめだめ。よし、なんて言うんだっけ」


 夕夏は努めて気丈に振る舞う。あの女が言えと伝えたおまじないのような言葉。これもまた少々小っ恥ずかしいと思っていた。


「ええと、〝麗しいチカラ、浮遊〟……だっけ?」


 瞬間。


「――え? え! ええええ!?」


 ものの見事に、アクリル板が浮いたのだった。淡く桃色の光を放つエヴィボード。仕組みはわからないが、地面から十センチほど宙に浮いていることは確かだった。


 夕夏は試しに紐を引っ張った。段ボールは氷の上をすべるように、なんの摩擦抵抗もなく夕夏に吸い寄せられる。


 何が何だか何一つわからないままだったが、とにかくこれは革命だ。夕夏は思った。


 そうして四丁目にある肆クロームに向かったのが十時四十五分。 合金で建てられた肆クロームの店舗は、重厚感のある怪しげな光沢を放っていた。





「ありがとうございました~。またお願いします~」


 夕夏はしどろもどろとしながらも、あらかじめ書かれていた領収書と現金を交換し、精いっぱいの笑顔を作った。手に握られた見知らぬ人物の描かれた紙幣や、やけに大き目な貨幣に、いよいよ自分が違う世界に来てしまったことを痛感した。


「帰れるのかなぁ、私」


 段ボールがなくなり浮かなくなったエヴィボードを脇に抱えながら、そんなことを考える。


 槙田精肉店に戻ると、店の前の行列は一層長くなっていた。昼食の総菜を買い求める客でごった返しているのだろう。夕夏は邪魔にならぬよう、いそいそと先ほどの槙田親子に領収書とエヴィボードを返した。今度は会話をする余裕もないようで、あらかじめ用意されていたキャット飯店が注文していた肉を指さし、「それ持って行って! 今日はありがとうね! お礼は必ずするから!」と同じようなことを悲鳴のように言われ、その場を後にした。段ボールは肆クロームに届けたものほどの重さはなく、夕夏一人でも運ぶことができた。


 時刻は十一時二十分。まだキャット飯店に戻るのは早いだろうが、両手がふさがってしまっていて寄り道などできそうにない。仕方なく歩くしかなかった。


「もうお昼か~、ちょっとお腹空いてきたかも」


 そこかしこから空腹のツボを突くような、おいしそうな香りがした。焼き魚かと思うと、数メートル歩いただけでピザのような香りに変わったり、食事に飽きることはなさそうだなと思った。



「お嬢ちゃん」



 一瞬だったが、周囲の喧騒が吹き飛んだ。


 夕夏は誰かに呼ばれたような気がして立ち止まる。この通りを歩くお嬢ちゃんなどごまんといるはずなのだが、不思議とこの呼びかけは自分にされていると思ったのだ。



「お嬢ちゃん」



 また、音が消えた。


 夕夏は首を傾げる。もしかしたらこれは、自分にしか聞こえていないのではないか。だから反応する者が自分しかいないのではないか。聞こえるというよりは鼓膜の内側から鳴っているような、そんな違和感を覚えていた。


「誰?」


 夕夏は辺りを見回す。前方には既にキャット飯店の派手な看板が見えるところまで来ていた。


 そして夕夏は、この不審な声の主を見つけた。


「え、なんで……」


 夕夏は橙が言っていたことを思い出す。紅々町商店街は一本の道しか通っておらず、建物が隙間なく建っているため路地裏も存在しないことを。


 しかし、彼女の見た方向には、確かに小道があった。小さな子供が一人通り抜けられるような、そんな小道が。


 小道には背の高いフェンスが設置されており、通れないようになっていた。夕夏はきょとんとしながらも、フェンスに近づいて行った。

するとフェンスを隔てた向こう側に、何かがいた。



「お嬢ちゃん」



 それはボロ布と呼ぶに相応しい、黒の外套を身に纏った小さな老婆だった。

 

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