第4話 バイトのバイトのバイト
女性は依然として疑わしい目つきをしながら、仕方なくといった様子でガラス戸のカギを開け、
「どちらさん?」
チリンという音とともに低めの声で、夕夏にそう尋ねた。
「あ、ええと、上谷さんに言われて――」
「上谷?」
と、ここまで言ったところで夕夏はギョッとした。この三白眼の綺麗な女性は、普通の人間にならばまずないところに、とあるものがあったから。
「ま、また耳……」
シルクのように艶めく白髪から、耳が生えていたのだ。しかし人間の耳ではない。これはまさしく。
「ネコ……耳だ」
髪の毛と同じく白い毛並みの、ネコ耳だった。その右耳には鈴のピアス。耳が動くたびにチリンチリンと可愛げな音が鳴っている。
「あん?」
女性は今にも首筋に噛み付かんばかりの目つきで夕夏を見た。
「何でもありません!」
と、夕夏が思わず大きい声を出すと、
「ひゃっ!? うるっさいな! でかい声を出すんじゃない! ……ええと、上谷って言ったら組合の理事長さんとこだろ?」
女性は若干ふらつきながら、そう訊いた。
「そうですそうです! アルバイトを頼まれまして」
「アルバイト……ああ、もしかして昼飯の出前のことか」
「……出前?」
夕夏はなんだか思っていたものと違うなと感じ始めた。
「違うのか?」
「いえ、たぶんそうなんだと思います……」
「なんだそりゃ。まあいいや、じゃああんたに頼むことにするよ。名前は?」
「滝口夕夏です」
「ふうん、夕夏ね。なんか上谷のやつと似たような名前だ」
「そう、ですかね……ちなみにお姉さんのお名前は」
「ああ私か。私はソラ。このキャット飯店の店主だ」
無造作なショートヘアーに反して女性らしい肩の出た黒いワンピースにサンダルといったいで立ちのソラは腰に手を当てて言った。己に自信があるのだろう、不敵に笑む口元からはしきりに八重歯がちらついている。二十代くらいだろうか、夕夏は純粋に綺麗な大人のお姉さんだなと思った。
「ところで夕夏、その出前なんだがな、まだ時間じゃない」
「へ?」
「そもそもまだ店も開けてないだろ。とりあえず、十二時くらいになったらまた来てくれ」
「はあ」
時間は決められていないのではなかったのか。心の中で橙に文句を吐く夕夏だった。
「わかりました。それじゃあ出直してきます」
「そうだ、待った待った」
夕夏は一つ頭を下げ、キャット飯店から離れようとしたところでソラに止められた。
「せっかく来てもらったしな。一つ頼まれてくれない?」
「いいですけど、私ここの地理に詳しくなくって」
「その地図貸してみな」
ソラは夕夏の持っていた地図を目ざとく見つけ手に取ると、赤いペンで丸をつけた。
「ここ。三丁目の槙田精肉店ってところに行って肉を仕入れてきてほしいんだ。昼の営業には間に合うんだが、夜に団体の予約が入っててよ。足りなくなるだろうから余分に発注したんだよ。ウチの連中に行かせるつもりだったけどちょうどいいしな。できるか?」
「なるほど……」
「店の名前出せばわかるからさ、頼む!」
「三丁目、三丁目……」
夕夏は来た道を戻っていた。特に曲がることもないので、ただシンプルに戻っていた。相変わらず祭りでも開催しているのではないかと勘違いしてしまいそうな人だかりに、実はまだ十メートルも進んでいないのではないかと不安になってしまう。地図に目を通していないとうっかり通り過ぎてしまいそうだった。
肉さえ頼まれていなければ、空いた時間でキャット飯店に来るまでに見かけた店を回ってみたいと考えていた。友だちを売っている店とか、依頼者の睡眠を代行する店とか。
「――いかんいかん! 今はバイト! せっかくとお兄が頼ってくれてるんだから、たとえバイトのバイトでもちゃんとしないと!」
夕夏は誘惑に負けないよう、大げさに自分に喝を入れた。するとここで、なんとも香ばしい香りが彼女の鼻をついた。
「揚げ物の匂いだ」
ふんふん、と匂いを辿っていくと、一際大勢の人だかりに遭遇した。
「大丈夫大丈夫! そんな焦らなくても売り切れることはないよ~!」
奥の方から男の叫びにも似た声が聞こえた。一体何がそんなに人気なのだろう。夕夏は人ごみをかき分けて前へと進んだ。そして、ようやくこの店の正体に気づくのだった。
「へぇ、コロッケか……ん? 槙田精肉店……?」
「あ~、ママ! いまこのお姉ちゃんが割り込んできた! ズルだ!」
「へっ!? ごめんね違うの! 何が売ってるのか気になっちゃって、すぐどくから!」
夕夏は言うとそそくさと人ごみから外れた。コロッケを求める客でごった返しているこの店が、ソラに頼まれた槙田精肉店だったのである。
「うーむ。いま何時だろ」
近くにあった時計に目をやると、時刻は十時半。まだ時間に余裕はあるがいつまで経ってもこの行列が途切れることはないだろう。
堪らず夕夏は店内を見回した。店にはカウンターに立つ初老の男の他に、彼と同い年ぐらいの中年の女と若い男の二人が業務をこなしていた。夕夏はあの人たちに声を掛けるしかないと思った。
割り込んでいると思われないように、人ごみの大外から回り込みレジカウンター脇へ。そこから店の奥に向かって声を張った。
「――だあ~あああああもう忙しい! 聞いてねえぞ! なんで今日に限ってこんなにコロッケが売れんだよ!? タダで配ってんじゃねえのか!?」
「すいませーん! キャット飯店から来たんですけどー! お肉を頂きに来ましたー!」
「黙って口動かしな! いまのあんたはコロッケを揚げるだけの機械だよ!」
「母ちゃん、ウチは肉屋だ!!」
「あのーーーーっ!」
夕夏は全力で声を上げた。その甲斐あってか、ようやく女が気づき、
「なんだい!? とりあえずちゃんと並んでから話してくんな!」
「いえ、コロッケではなく、お肉の仕入れに来たんですけど! キャット飯店です!」
伝わってくれと必死だった。夕夏は十六年間生きていた中で、最も頑張ってコミュニケーションを取った。
「キャット……ああソラちゃんとこの! なんだいあの子、こんな可愛らしい女の子を雇ったのかい!」
「いや、今日だけの臨時で!」
「そうかいそうかい! それでソラちゃんに代わって肉を取りに来たと」
「そうです! そうなんです!」
話が通じるって素晴らしいことなんだな、と夕夏はぐっと拳を作り感動した。
「でも、ごめんねぇお嬢ちゃん。この通りウチはいま戦争状態でね。コロッケを揚げること以外何もできないんだよ!」
「――え」
「そうだ母ちゃん! この人に【クローム】に届ける予定の肉頼めばいいんじゃね!?」
「え」
「それは名案……と言いたいところだけれど、さすがにそれはねぇ」
「でもよ母ちゃん、じゃないといつになっても届けらんないぞ!」
「そうだねぇ……」
女はこんな初対面の少女に頼み事などできないと否定はするものの、ちらちらと夕夏の方を見ては思案する表情を浮かべていた。それはもう、空気を読めと言わんばかりに。
「…………行きましょうか?」
先に折れたのは夕夏の方だった。蚊の鳴くような声で提案を受け入れる。
「本当かい!? やってくれるならこんなに助かることはないよ!」
「嬢ちゃん、ありがとうな! 礼は必ずするからよ!」
夕夏は頼みごとを断れない性格だった。
女は急いでそのどこぞの店に配達する予定の肉を梱包していた。
「あはは、重そうだなぁ……」
それを眺めながら、変な笑いが込み上げてしまう夕夏だった。
橙に頼まれキャット飯店に行き、キャット飯店にも頼まれて槙田精肉店へ。挙句、槙田精肉店にも頼まれてまた別の店へ。
つまりは、バイトのバイトのバイトである。
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