第2話 バイト

「あ、起きた。おはよう滝口さん。よく寝れた?」


「……おはよ」


 朝七時五分。橙が事務所のソファーでコーヒーを飲んでいると、居住部屋から夕夏が出てきた。


「ミアは?」


「まだベッドでごろごろしてる」


「寝起き悪いからなぁ。滝口さんはものの五分で準備を?」


「結構早く覚めちゃって。ゆっくり準備してたの。ところでとお兄」


「ん?」


「滝口じゃなくって、夕夏って呼んでよ」


「え、昨日の今日でそれは」


 橙はやんわりと断ろうとしたのだが、得も言われぬ気迫が空間を漂っていることに気が付き、


「わかったよ、夕夏さん」


「なんか違う!」


「ふわぁあ~~~~~~~~~~……おはようごじゃいましゅう……」


「ミア、事務所にクジラは持ち込まない」


 少々不満げな様子だったが、及第点とする夕夏だった。




「今日の夕夏さんの仕事は、役場に行って住民票を取ることと、アルバイトだ」


「ふんふん、住民票ね……ん、アルバイト?」


「そうです。物件探しだけしても面白くありませんからね。今日は物件探し兼、商店街の散策兼、お仕事のお手伝いをして頂きます」


「私、働いたことなんてないんだけど……」


「簡単なお使いですよ。どこどこに行って何かを受け取ったり渡したり」


「要は配達だよ。できる?」


「うん……たぶん」


 ミアの随分ゆっくりとした朝の準備が終わり、三人はトーストとコーヒーで簡単な朝食を摂って、事務所の前を箒で掃いたり、花壇に水をやったり朝のルーティーンを手際よくこなした。花壇に咲く玉虫色のパンジーには霜が降りており、早朝の寒さを実感する。刺さるように澄んだ快晴だった。


 そうこうしていると時刻は八時五十分。九時の始業までもう一度コーヒーを淹れ、三人は話をしていた。そんな中でミアが夕夏のアルバイトについて提案したのである。


「はい、じゃあこれ。地図と依頼者の住所」


 橙はそう言って夕夏に二点を渡した。少々緊張した面持ちで受け取り、目を通す。


「――なにこれ」


 そして、この商店街の異様さに度肝を抜かれるのだった。


 紅々町商店街は東西に伸びる二キロのメインストリートで構成されている。二キロという全長もかなりの規模だが、夕夏が大きな違和感を覚えたことが一つ。


「他に道はないの?」


 地図を見る限り、道らしい道はこの石畳以外見当たらなかった。


「ああ、ないよ」


「い、いや! 普通は路地裏とかお店とお店の間とか、なにかあるんじゃないの?」


「あるように見える?」


 言われて夕夏は目を凝らす。建物同士は完全に接着しているようにしか見えなかった。つまりは、橙の言う通りこの商店街は入り口のアーチを起点として伸びる一本の道しか存在していないということになるのだ。


「昨日の夜に夕夏さんが出てきた広場が一丁目で、奥に行くごとに数字が増えていく感じ。事務所があるここは六丁目で、商店街の一番奥になる」


 こんなテーマパークみたいな商店街、日本に存在していたら確実に有名になっているはずだ。それなのに夕夏は何も思い当たるところがなかった。当然だが橙やミアもこの状況を完全に受け入れてしまっている。


「ここは、どこなの? 私の知ってる日本なの?」


 地図を握る手が少し震える。すると橙はその手を握って、


「大丈夫。ここは怖いところじゃない。ちょっと変に思うこともあるかもしれないけど、すぐに慣れるから」


 優しく。優しくとしか言えない言葉だった。


「あ……」


 彼の言葉が夕夏の不安を、それこそ物理的に取り除いているような気がした。心がじんわりと温かくなっていくのを感じる。これはあの時にも感じた――。


「……理事長! いつまで握ってるんですか!」


「はいはい」


 ミアの金切り声によって、橙は夕夏から手を離した。


 それと同時に、壁掛け時計が鳴る。


「ほら、お仕事開始ですよ。他の方たちもそろそろ見える頃でしょうし」


「よぉし、今日も一日がんばりましょう」


「まったく、頼みますよ。理事長」


「そういうことだから夕夏さん、メモを頼りに行ってみてくれる? 特に時間の指定もないから気楽にね」


「……わかった。やってみるね」


 先ほどまでの陰鬱とした気持ちはどこにもなかった。夕夏は地図と別にもう一枚渡されたメモ用紙に目を通した。



【紅々町表平三丁目一番地一号 紅々町役場表平出張所】

【紅々町表平一丁目四番地五号 キャット飯店】



「また読めないし!」


 配達業務、スタート。


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