第9話 鍋パーティー

 橙から見た滝口夕夏の第一印象は、女の子。


 どこかの学校指定の紺色ブレザーと白いワイシャツに群青色のリボン。グレーのチェック柄スカート。濃紺のソックスにキャンバス生地のハイカットスニーカーを履いた姿はローファーよりは活発というイメージが湧く。


 人間の男性にしては比較的背の高い橙の肩くらいに彼女の頭頂部があるので、すらりとした印象。焦げ茶色の髪の毛はまっすぐ立った時に二の腕の中間まで伸びるロングヘアー。ハッキリとした目鼻立ちなので余計に清楚という二文字から遠くなっていく。


 そうした外見を踏まえた結果、橙は「あ、女の子だ」という認識に至った。


「君のことを知らない、というよりは覚えてないんだ」


 橙はいかにも申し訳なさそうな面持ちでそう言った。箸でつまんだつくねをふらふらと揺らしながら。


「橙さん、お行儀が悪いです」


 ミアは鶏肉とニンジンを軽くポン酢にくぐらせ、口に運びつつ小言を放った。


「……はぁ~~、おいしい」


 そしてほっぺたに手を当て、満面の笑み。


 三人は商店街入り口を足早に後にして、事務所の応接スペースで鍋を囲んでいた。


 ぐつぐつと音を立てる土鍋。二人きりの夕食のはずだったのだが、橙のたっての頼みで急遽一人追加。ミアは不満げな様子ながらも、渋々了承したのだった。


「覚えてない……?」


 夕夏は水炊きを前に箸を手に取らず、そう復唱した。


「うん。僕はどうしても君のことがわからない。でも君は僕のことをこれでもかってくらい知っている。きっとこれは嘘じゃない。君の取り乱し具合を見ればわかる」


「……うん」


「君にとって僕は、かなり特別な存在だったんだろうね。だから君のことを覚えていない僕が悪いんだと思う。橙なんてそこそこ珍しい名前、人違いとは思えないし」


「とお兄……」


「いえ、橙さんは全く悪くありません!」


 ミアは聞き捨てならぬ、といった具合に即座に口に入っていたものを飲み込むと声を荒げた。


「ミア、お行儀」


「橙さんがあなたのことを覚えていないのは、橙さんの記憶力に問題があるわけではないんです。この町に迷い込んできた方々は、徐々に昔の記憶が薄れていくんですよ」


「え」


「かく言う私もそうです。なぜ紅々に来たのかはもちろんのこと、それ以前にどのような生活を送っていたのさえ思い出せない。まったく難儀なことです」


「そしたら、私もいつか……?」


「個人差はあるようですので、滝口さんがどうなるかはこれからといった感じですね」


「そう、なんだ」


「やめよやめよ! とりあえずここに来ちゃったのは紛れもない事実なんだから、暗くなっても仕方がないよ」


 俯き加減の夕夏に、橙はこの空気を払しょくするように、


「――改めて、紅々町商店街にようこそ、滝口夕夏さん!」


 大きく手を広げて、先ほどよりもにっこりと笑った。


「ほら、滝口さんも食べないと、なくなっちゃいますよ」


「あ、自分でやるから」


「そんなの待っていられません」


 ミアは半ば強引に夕夏の取り皿を奪うと、手際よく水炊きを取り分けた。実に面倒見のよさそうな肉と野菜のバランスだった。


「……いただきます」


 空腹など覚えていないが、プレッシャーに負けとりあえずスープを飲んでみた。


「……おいしい」


「その顔はアレだな、うまかろうがまずかろうがおいしいと言うつもりだったけど、思いの外うまくて驚いたという顔だ」


「へっ!?」


「よかった、口に合ったようで。私が食材を放るお鍋は絶品と評判なんですよ」


「へ、へえ」


 どんな評判だ、と夕夏は苦し気に相槌を打った。


 その後は意外と箸が進んだ。水炊きにしてはバリエーションに富んだ鶏肉の部位。水菜、しめじ、えのき、ニンジンと長ネギに絹ごし豆腐。あまり料理はしない性分の為、これがどのようなスープなのかはわからないが、夕夏は確かにこれを口にした途端、数分前まで張りつめていた緊張の糸が幾分か緩んだと感じていた。ほっとするような、ちょっと泣いてしまいそうな。


「ねえ、とお兄」


「……あ、僕か。どうしたの?」


「これからもとお兄って呼んでもいいの?」


 橙は面食らったように目をぱちくりさせると、少し考える仕草を見せ、


「兄って感じでもないけどなぁ。まあ、言われ続けていれば何か思い出すかもしれないしね。いいよ」


「ほんと!? やった!」


「今とお兄って呼んでた時点で、譲るつもりはないように感じましたけどね」


「……とお兄、ずっと気になってたんだけど、この子はなんでこんな時間までいるの?そろそろ帰らないと、おうちの人が心配するんじゃ」


「この子? ああミアか」


「子どもじゃないです」


 声は荒げず、しかし思い切り頬を膨らまして反論するミアだった。


「信じられないかもしれないけど、ミアはこれでも十八歳だ。彼女はこの紅々町商店街のスタッフで、僕の秘書みたいなものだよ」


「――――」


 数秒、絶句。


「じゅ……じゅうはち!? 私よりも年上なの!?」


「文句がありそうですね……」


「で、なんでそのミア……さんがとお兄とご飯を食べるの? やっぱり秘書だから身の回りのお世話も?」


「一緒に住んでるからだよ。あそこのドアを開けると居住スペースになってるんだ」


 橙は何の気なしに言って指を差す。


「――は?」


「何を驚いてるんですか。別に住んでたっていいでしょうに」


 してやったり。そんな意地の悪そうな顔を浮かべるミアだった。


「ここはさっきの滝口さんみたいに、気づいたらああやって迷い込んでいる人たちで構成されててさ。これからどうしよう、お金もない、住む場所もない。そんな人達のサポートをすることが僕らの仕事の一つなんだ。ミアは僕よりも一年くらい早くここに来たらしい。年齢、居住歴ともにれっきとした先輩さ。どちらかというと、僕がミアの家に身を寄せているようなもんじゃないかな」


「うぐぐ……! ……ん?」


 ぐうの音も出ない十分な理由を突き付けられてしまった。しかしなんだろう、夕夏は今の橙の話に妙な感じを覚えた。しかしここに来てからの怒涛の展開に疲れてしまい、頭が働かなかった。


「ところで橙さん。彼女、今日は仕方なくここに泊めますけど、明日からどうするんですか?」


「そうだよなぁ。明日物件でも見て回ろうか」


「――もん」


「もん?」


 ミアは聞き取れなかった夕夏の言葉にきょとんと首を傾げた。夕夏の体は小刻みに震えていた。そして。


「私もとお兄と住むもんっ!」


「んなっ!?」


「それはさすがに、なあ」


「なんでミアさんはいいのに私はダメなの! ずるいでしょ!」


「いやだからこの場所はミアが先住民だから別に僕が決めてるわけじゃないって」


「断固拒否しますっ!」


「やだ!」


「決定権者は私ですよ!?」


 テーブルを挟んでいがみ合う二人。


「まあ明日すぐに物件が見つかるとも思えないし、とりあえず見つかるまではここのままでいいんじゃないか」


「橙さん、そんなこと言うとこの子一生見つけませんよ」


「うん、一生見つけない」


「めちゃめちゃ冷静に言うんだね」


 夕夏の確固たる決意に真顔になってしまう橙だった。

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