第8話 再会

「――え?」


 一体いつから、どのくらいここに立っていたのだろう。


 時間の感覚が掴めず、滝口夕夏は虚ろだった目をはっと見開いた。


 ぐるりと体を一周させて辺りを見回してみた。狭いのか、広いのかさえもわからない真っ暗闇の空間。音も、匂いも感じられない底なしの無機質。


 この場所に来ることになった経緯、ここまでの道のり、何もかもがわからない。

そんな闇のただ中にたった一つだけ視認できたものがあった。この場には明らかに不釣り合いな、簡素な木製扉である。


 これは外に繋がっているのだろうか。いや、もしかしたら自分が立っているこの場所こそが外で、扉の先はどこかの建物の中なのかもしれない。


 ――いずれにせよ。夕夏は思案する。


 この空間の中で、私の目に見えている物体はこの怪しげな扉のみ。下手に動いて戻ってこられなくなるよりは、明確に次に進める可能性のある選択をしたほうが良いのではないかと。


 決心したのか、夕夏は小さく喉を鳴らしてドアノブに手を掛けた。


 鍵は掛けられていなかった。扉を開けると、かすかにだが隙間から光を感じる。夕夏はなるようになれと一気に扉を開けた。


 そこは。


「……どこ。ここ」


 扉の先に待っていたのは見知らぬ街、のようだった。時刻はわからないが夜らしい。円形の広場、その中央に掲示板、そして何より目を引いたのは奥の方にあるアーチ。


「べに……何て読むんだろう」


 真っ赤なネオン管で書かれた文字。不規則な明滅を繰り返すさまに、夕夏はどこか不安な気持ちになった。読める文字を頼りにすると、どうやらここはどこかの商店街の入り口らしい。しかし、紅々町と書くこの地名にまったく覚えがない。自分が住む地域はもちろん、隣県、日本全国を探してもこのような地名に記憶はなかった。それがまた夕夏を不安にさせるのだった。


 その時だった。


「……人?」


 こつ、こつ、とこの石畳を歩く足音が聞こえた。よく聞けば一人ではないようだ。しかしいかんせん、まだこの空間に目が慣れきっていない。夕夏は目を凝らして音のする方へと目を向けた。


 人影が二つ、歩きながら何かを話している。一人は男。もう一人は……幼い女の子の声だった。


 自分に向かって歩いてきていると気づいたのはそれからすぐ。逃げても仕方がない。今は一つでも現状を把握することが大事だ。


 そうして夕夏の目の前に、二人はやってきた。


「ようこそ、紅々町商店街へ」


「自分が誰だかわかりますか? 出身は? 種族は?」



 ――――――。



 先ほどの読めない文字がベニベニと読むことだとか、自分が何者なのかとか。それこそここがどこなのかとか、そんなことは一瞬のうちにどうでもよくなっていた。


 限りなく夢に近いのであろうこの状況が、今ばかりは夢でないことを切に願ってしまった。目覚まし時計よ鳴らないでくれ。誰も私を起こしに来ないでくれと。


 ――瞳に映る景色は鮮やかに。


 ――ぼやけた輪郭は鮮明に。


 眼前で色とりどりの油性絵の具が弾け飛んだかのような、極彩色の鮮烈。


 溢れる涙が、煤けた景色を洗い流してくれているようだった。


 停止した秒針は、緩やかに動き出そうとしていた。


 それはなぜか。


「…………とお、にい?」


 男の声と姿が、夕夏が六年間追い求めていた行方不明の少年、上谷橙そのものだったのだから。


「とお兄だよね!? 生きてるならなんで連絡の一つもしてくれないの! 本当に、本当に心配したんだから……!」


 夕夏は堰を切ったように男に詰め寄った。しかし、一緒にいた少女に間に入られ、


「ちょっと待ちなさい……! 意識の混濁が見られるようですね。落ち着いて下さい、この方はあなたの言う『トーニー』さんではありませんよ」


「そんなことない! とお兄だよっ!」


「橙さん、この方はあなたのことを知っているようですが、心当たりはありますか?」


「ふうむ」


 橙は顎に拳を当てて、取り乱す夕夏を静かに観察する。


「ね! とお兄! 私! 二軒隣に住んでた夕夏だよ! 昔たくさん遊んだの、覚えてない!? 昔と比べて大きくなっちゃったけど……私は覚えてるんだから!」


 夕夏は必死に同意を求めた。覚えていて当然。夕夏からすれば、普通は私を見た瞬間に気づくでしょうといら立ちを覚えるくらいには当たり前のことだと思っていた。


「……」


 しかし男はそうはならず、夕夏をしげしげと見続ける。


 何かがおかしい。夕夏は心の底の部分が、ざわりと毛羽立ってくる感覚がした。何か自分にとって都合の悪いことを言われそうな、そんな予感が。


 そしてそれは現実となる。


「――ごめんね。わからない」


「……え」


 自分の立っている部分だけが、すっぽりと抜け落ちたような気がした。


 落ちていく私。落ちていく私。小さくなっていくとお兄。小さくなっていくとお兄。でもなんだろう。心臓の辺りが……心が温かくなってくるような、夕夏は何とも形容しがたい対照的な感情にも襲われた。


「しっかりしてください!」


 虚ろになっていく意識を、少女の声が引き留めた。


「え……?」


「今はあなたの今後のことの方が大事です。突然のことで混乱しているのはわかりますが、気を確かにしてください」


「今後……そうだ、私、気づいたら変なドアの前にいて、開けたらここに」


 言うことを聞かなくなっていた思考に鞭を打ち、夕夏は先ほどのことを振り返る。


「……ここは、どこなんですか」


「紅々町商店街です。ここはあなたのように迷い込んできてしまった方たちで成り立っている、そんな街です」


「あなたたちは?」


「そういう話は歩きながらしよう。もう暗いし、何よりお腹が減った」


 男はぐったりと腹を押さえながら言った。


「そういえばそうですね。とりあえず――」


 少女は姿勢を正すと行儀よく一礼をして、


「私はミア・マイヤー。ミアでいいですよ」


 大人びた笑みを浮かべて、そう言った。


「そしてこちらにおられるのが!」


「ミア、そういうのいいから」


 男は自慢げに語りだそうとするミアを制し、一つ咳払い。


「僕の名前は上谷橙」


 男はそのあとも何かを言っていたようだが彼女の耳は、以降の言葉を聞き取ろうとはしなかった。せっかく気持ちが落ち着き始めてきたのに、またもや思考が追い付かなくなる夕夏だった。

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