第5話
「…………」
最上階のラウンジで、絢音は1人カウンターに頬杖をついて、一杯のカクテルを飲んでいた。
カクテルの名は…ギブソン。
花村のマスターが教えてくれたカクテル言葉は、「嫉妬」
美しい女性を描いた人気画家のチャールズ・ギブソンが、自分の描いた「ギブソンガール」に捧げた一杯といわれ、男性の喝采と女性の嫉妬がこのカクテルに注がれたと言う、マティーニをシェイクした、カクテルグラスの底に沈んだパールオニオンが美しいそのカクテルを見つめながら、ポツリと呟く。
「いいなぁ…」
もうじき、佐保子は藤次に抱かれ、正真正銘…彼を最初の男と言えるようになる。
応援すると言った手前表面には出してなかったが、絢音は、その事実が羨ましくもあり、憎らしくもあった。
セカンドバージンとは言え、自分は、どうあがいても藤次は2番目の男。
それは、覆せない事実。
それに、佐保子は自分に比べ、圧倒的に藤次の近くに居て、付き合いだって、おそらく長い。
藤次の愛を決して疑う訳ではないが、もし情を交わして、佐保子に心変わりしたらと思うと、とても素面ではいられなくて、盃を煽っていると、チョコレートのような色を湛えたカクテルが目の前に示されたので、絢音は瞬く。
「あの、オーダーしてませんが…」
その言葉に、若いバーテンダーはチラリと目配せし向かいのカウンターを示す。
「あちらのお客さまからです…」
「えっ…」
見るとそこには、藤次と同じ世代くらいの、羽振りの良さげな見た目の良い中年男性が、グラスを掲げて笑顔を浮かべているので、絢音はペコンとお辞儀をして、そのカクテルを口に運ぶ。
「甘い…」
クレームドカカオ、生クリーム、マラスキーノチェリーとデザートのようなカクテルにうっとりしていると、男が隣にやって来て、気安く語りかける。
「独り?」
「あ、いえ…い、妹夫婦と食事に。ここで待ち合わせしてるんです。仲良いから、邪魔しちゃ悪いかなって。」
「そんな風には、見えなかったけど?」
「えっ?」
戸惑う絢音に、男はクスリと悪戯っぽく笑う。
「僕の目には、大事な人を横取りされて、やけ酒してるように、見えたけど?」
「あ………」
狼狽する絢音の手を取り、男は彼女に囁きかける。
「嫉妬に狂う君の顔も、見惚れる程素敵だけど、見てみたいな。君の、情欲に溺れる顔を…」
「えっ…あの…」
肩を抱かれ、そのままキスをするのではないかとなった瞬間だった。
2人の間にグイッと、藤次が割り込んだのは。
「あ…」
顔を歪める絢音に、藤次はにっこりと笑いかける。
「「お姉さん」。火遊びはあきまへんよ?家で帰り待ったはる旦那はん、いてはるんでしょ?」
「え、ええ…」
適度に相槌を打つ絢音の手元に置かれた2つのカクテルを見て、藤次はフッと嗤う。
「お兄はん。お姉さんに見惚れたんは分かるけど、お姉さんには、心底惚れた旦那がおんねん。せやから、堪忍な。」
「ちょ、君…」
そうして絢音を連れて行こうとする藤次の肩を男は掴んだが、藤次はそれを難なく払い除け、ラウンジの…佐保子を待たせてる別の席へと誘う。
「あないやっすい口説き文句に引っ掛かるなや。このお子ちゃま。」
「だ、だって…ワタシ…」
そうして涙ぐむ絢音の肩を抱き寄せ、藤次は小さくため息をつく。
「嫉妬なんてもん飲み下すくらいなら、最初からこんな事持ちかけなや。どないする?今ならまだ、引き返せるえ?」
その言葉に、絢音はイエスと言いたかったが、佐保子の気持ちを考えると、やはり言えなくて、首を横に振ると、額に優しくキスが落とされる。
「誰と寝ても、俺はお前一筋や。愛しとる。せやから、他の男が見惚れるような真似は、しなや?」
「うん…ごめんなさい…」
…絢音が見知らぬ男に贈られたカクテルは、エンジェルキッス。
カクテル言葉は「貴方に見惚れて」
嫉妬に狂う姿さえ美しい妻の肩を抱いて、藤次はラウンジの奥…佐保子の元に向かった。
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