第1章「好き」への一歩 6
はらり、頬を涙が伝った。絡まった糸は未だ口の中で溶けて苦みをもたらす。痛かった。苦しかった。それでも彼の姿が拭えない。
いっそ全ての思い出が消えてしまえば楽になれるのかな。楽になれたとしても、感じた幸せが消えてしまうのはもっと辛い気がした。
真っ暗な世界から這い上がるように、うつ伏せにしていた頭をそっと上げた。
視界に映るのは時計台でも噴水でもなくて、天井に届く程並べ積まれた本。伏していたのは、膝ではなくてテーブル。静かな空間にページを捲る音が木霊する。今私がいるのは大学の図書館だった。
「あ、橋本さん」
誰かに名前を呼ばれた気がして、ふとそちらへ視線を向ける。穏やかな微笑を湛えて向かってくるのは仁章――じゃなくて錦良也だった。
「先週、講評会の間ずっと待ってたんだよ?」
悪戯っぽく笑う彼。そう言えば、そんな約束をしていた。
「ごめんなさい。私、忘れてて」
「いやいや、謝らないでよ、冗談なんだから。……それに」
彼はテーブルの向こう側からじっと私を見つめた。なんだか恥ずかしくって、私はそっと視線をそらした。
「美味しいジェラート屋さん見つけたんだ。最初行った時は姉ちゃんがいたからよかったんだけど、男だけで行くのはなんか恥ずかしくて。一緒に行ってくれればそれでチャラ! まあ、よければだけど」
彼はニコッと笑った。
図書館を出ると、しゃわしゃわと鳴く
「あっつーい」
錦くんは手をうちわのようにしてパタパタと扇いだ。
「なんだか、年々暑くなってる気がする。そのうち溶けちゃうよ、俺」
真夏の日光が照り付ける大学構内の道路は、日差しの照り返しが強く景色が白ばんで見えた。
「でもこの暑さの中、毎日自転車漕いで来てるんでしょ?」
「そうなんだよ、毎日学校に着くころには汗でびっしょ。だからタオルが手放せない」
彼はそう言うと、笑ってリュックからハンドタオルを取り出した。
大学を出て横断歩道を渡る。桜の咲いていた街路樹は、もう既に青く茂っている。そのうち茶ばんで、全ての葉を落とすことだろう。そのころには、この干乾びた心も少しはマシになるのかな。
「――ってなってるんだけど、どう思う?」
「え?」
せっかく話をしてくれているのに、一言も聞いていなかった。突然持ち掛けられた問いに、錦くんを見る。彼はこの夏の暑ささえ吹き飛ばしてしまいそうな爽やかな笑みを湛えていた。
「ごめん、もう一回聞いても良い?」
なんだか少し申し訳なくなる。他方の彼は軽く頷いて再び口を開いた。
「サークルでの親睦を深めるために、今度泊まりがけで出かけようって話になってるんだ。それで、房総半島の方に行ってバーベキューでもしようって案が出てるんだけど、どう思う?」
「房総半島の方でってことは九十九里浜とかでってこと?」
「たぶん、そうなると思う」
車が一台、すぐ脇を通り過ぎる。彼はすっと歩道側を歩む私に寄ると、次のブロックを右に曲がった。
「遠いわけじゃなくて、すごく近いこともないし、一泊するにはちょうどいいだろうって話で。日にち以外は大体決まってるんだけど」
「良いと思う。距離的にも時期的にも。でも、泊まるなら早く日程決めないと、ホテルとか空きがなくなっちゃうし」
「それは誰かさんが二週間連続でサークルを
錦くんは冗談交じりに笑った。ジョークだとは分かっていても、自分で墓穴を掘ったことに少し嫌気がさす。
「まあ、この間休んだ俺と芳沢も今週知ったんだけどね。それに、ホテルは
まるで私の心情を察したかのような彼の口調。この間自転車で送ってもらった時にも感じたけれど、錦くんは男子にしては勘が冴えている。
「そう、ならよかった」
そっと頷いた彼は、少し遠くの方へ目を向けると、どこか一点を指さした。
「あそこ! あの青い屋根の家見える?」
下り坂となった斜面のガードレールの向こう。樹々に囲まれポツンとある空のように青い色彩が彼の指の先にあった。
「あ、あそこね」
「うん。遠くに見えるけど、あと二、三分で着くから」
彼はまた爽やかな笑みを湛えた。
坂を下り終えると、主道路を外れて竹林の前の小径を歩む。吹いてきた熱風は、竹に浄化されたように凛として、どこかすっとする風へと変化した。少し歩いたその道の先にあったのは、カラコロと音を奏でるカラフルな風鈴群。その音に導かれるように店へと歩んだ。
「え、本当にここでいいの?」
リーンと涼やかな音がする店の入り口は、まるで子どもの頃の家に久しぶりに帰ったかのような懐かしさがあった。どこかのお店、というより誰かのお家、という方が適している。
「大丈夫、大丈夫。ほら、看板あるでしょ?」
錦くんはそう言うと、砂利道の足元にある石板を指した。それは『じぇらーと月光』と彫られている。
「さ、中に入ろ」
彼は少しテンションが上がったのか、うきうきした様子でガラリ戸を開けた。
店内は少しひんやりとしていて、太陽のサンサンと降り注いでいた世界に慣れてしまった目はその視界を緑に染めてしまった。来たことがないのに懐かしさを感じる香りが漂う。錦くんがベルを鳴らしたらしく、軽い音が空間に木霊した。
「いらっしゃーい。あら、また来てくれたのね」
緑の色彩が弱くなり始めた世界で、店主と思しき女性がのれんの向こうからふわりと微笑んでやって来た。
「まあ、今日はお姉さんじゃないのね。カノジョ?」
彼女は悪戯っぽく笑った。その単語が私の今日の禁句だということは勿論知る由もない。けれど、その言葉はどこか鈍いナイフのように私という存在を薄く切りつけた。他方、錦くんは顔を真っ赤にして言葉にもなっていない単語を呟いている。どうやら、彼はあまりこの種の冗談には慣れていないらしい。
「あの、友達です」
私の答えを聞いて、店主はうなずいた。
「そうじゃないかと思ったわ。さ、メニューをどうぞ」
彼女が指したのは、ジェラートが入っているショーケースの上に貼られた小さな紙だった。
「この間と違うんですね」
さっきまでの慌てふためき様をすっかり消し、普段の表情に戻った錦くんは呟くように言った。
「その時々の果物とかを使ってやってるんでね、まあその分高いって文句も出るんだけど」
店主さんの笑いをよそに、彼はイチゴがないと残念そうに小声で呟いた。
「私はマンダリンで」
「はい、マンダリンひとつね。六七〇円になります」
私が会計を進める中、錦くんは悩み顔でうーんと首をひねっていた。
「優柔不断な男は嫌われるよ」
彼女はマンダリンのジェラートを私に渡すと、彼に向かって冗談交じりにいった。
「それじゃ、俺はスイカで」
ピクリと身体を震わせて、早口になった錦くんが言った。
「はい。スイカは七二〇円です」
くすくすと笑う店主さんから、薄く赤いジェラートを受け取ると、彼は嬉しそうに笑った。
お店を出て少し歩くと神社が見えた。
「ここ、俺のお気に入りの場所なんだ」
錦くんはちょこんと神社の裏手にある階段に座ってジェラートを口に含んだ。
ジジジジジジジと蝉の鳴く声が夏の暑さをさらに増幅させる。代わりに背後にある神社から涼しい風が抜けて、影になった私たちをクールダウンさせ、前方の竹林が視界を涼やかにした。
「房総半島って言ってたよね?」
舐めたジェラートが冷たく舌を溶かす。それだけで暑さが少し軽減された。
「うん、そっちに三井田先輩のなんかよく分からないけど、泊まれるところがあるんだって」
ジェラートのトップをパクりと食べた錦くんが答える。美味しかったのか顔が綻んだ。
「まあ、来週のサークルになったら、もっと詳細が決まるだろうし、色々教えてくれると思うよ」
「それじゃ、今度こそ休まないで出席しないとね。また錦くんに怒られちゃう」
冗談めかして言うと、彼は明るく笑った。
「そう言えば、錦くん千葉出身だったっけ?」
三ヶ月ほど前、サークルで出身地の話題になった時のことをふと思い出した。
「うん。それこそ房総半島の館山の方なんだ。千葉の先っぽの方だから、通いは辛くって出てきちゃったけどね」
もうだいぶ小さくなったジェラートをぺろりと舐める。青く静かな木陰でオレンジ色の色彩が輝いて見えた。
「館山か。私、子どもの頃そっちで過ごしてたんだ。父の仕事の影響でそんな長くはいなかったんだけど」
「やっぱり?」
ジェラートがすっかりなくなってしまったコーンを片手に、前を向いていた錦くんがパッと私を見つめた。
「
「あ、うん。確かそんな感じの名前だったと思う。坂を登ってすぐにある学校で、先の方に海が見えたのは覚えてるけど。もしかして、同じところだった?」
「うん。ジャングルジムの天辺から見える海がすっごい綺麗で、俺よくランドセル背負ったまま、その景色見に登ってたんだ。まあ、よく足を踏み外して落ちてもいたんだけど」
彼は前を向き直して、その後も何か話しているようだった。けれど、私の意識は徐々に遠のき、ずっと昔の記憶へと誘われた。
太陽の光が外を照らすせいで、いつも暗がりだった保健室。朝番担当で行くと、よく男の子がランドセルを背負ったまま、擦りむいた腕や足を洗っていた。いつ見ても痛そうなケガなのに、へっちゃらだよと笑っていた男の子。その姿が不意に今隣に座る錦くんと重なった。
「……もしかして、よく保健室に来てた?」
ピントが重なったように、記憶の中の少年が錦くんに覆い被さる。彼は少し懐かし気な表情をして、その特徴的な笑みを湛えた。
「うん、行ってたよ。いくら落ちても学習能力のない、ケガの絶えないやつだったから」
「じゃあよく会ってたかも。私、保健委員で朝はよく保健室にいたから」
彼は小さくなったコーンの残りを一口に平らげた。
「やっぱり? そんな気がしたんだよね。でも、卒業アルバムにも載ってなかったし、百パーセントの確信とはいかなかったけど」
九十九パーセントくらいかな? と軽く笑う錦くん。九十九パーセントという自信の高さに思わず笑ってしまった。
「私なんて全然気づかなかったくらいだよ」
「そりゃそうだよね。もしかして、とは思ってたんだけど、なかなか話す機会なかったし。下手にサークルの時にそんな話をしたら、芳沢とか西城が変に勘繰るだろうから」
ぶつぶつと言いながら、暑さのせいか彼は少し赤くなった。
「気を遣ってくれたのね、ありがとう」
自然と頬が緩やかになって微笑んだ。久しぶりだった。気持ちが晴れやかになると同時に少しだけ温かくなるこの感覚が。
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思い出の彼方へ 成瀬哀 @NaruseAi
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