第1章「好き」への一歩 5
『当車両は、前方車両で具合の悪いお客様の対応をしているため、こちらの駅で少々停車します。お客様にはご迷惑とご不便を――』
四時五十分。目的の駅は次だというのに、電車はおかまいなしに停車したまま。隣に立っていた高校生は英単語帳を片手に舌打ちをした。
そう言えば、考えてみると仁章と待ち合わせをしてきちんと時間に間に合ったことがない。数分だけど、いつも遅刻してしまっていた。時間通りに着いたのは初デートの時だったか。もはや覚えていない。届かなかった一、二分が重なって積もっていって――彼の怒りに触れてしまったのか。
プシューッ。音を立てた電車は乗降口を閉じて、ゆっくりと走り出す。約束された時間まであと五分も残っていなかった。
駅に着いて吐き出された人波にもまれながら、ホームの下にある改札口へ急ぐ。エスカレーターの列を縫い、階段を駆け足で下っていく。途中ぶつかったサラリーマンに肩越しに謝って、ICカードを取りだす。
改札を超えたその先の駅前広場、時計台の下、噴水の前。寺田仁章はそこにいた。
「ごめん、お待たせ」
駆け足で彼の元へ向かう。時計台は二分半の遅刻を知らせていた。
「そんな待ってないから、気にするな」
彼はそう言うとふっと笑った。どこか儚い笑みだった。
「それで、どこか行って話す?」
彼の隣に並ぶ。いつも見ていたこの景色。色褪せてしまう日が来るとは思いもしなかった。背後にある噴水は水を細かく霧状にして舞わせる。水は静かに音を立てて、リズミカルに上下した。
「いや、ここでにしよう」
仁章はひょいと反対側から紙袋を取り出した。
「ココアベリーズにチョコチップクッキー。大好きな組み合わせだろ?」
「ありがとう」
受け取ってドリンクとクッキーを袋から出す。彼は自分のドリンクカップを出すと、ストローで中身を飲んだ。もう半分もなくなってしまっている。
クッキーの袋を破った。ほのかな甘い香りがする。甘さの中にはしょっぱさがあって。いつもと変わらず美味しかったのに、何故か今日は辛いときに感じるような痛みがあった。
「まあ話っていうのは」
ストローがドリンクを全て飲み込んでしまって、アイスの中に溶けた水を吸う音を鳴らした。彼はそれを紙袋の中に入れると、溜息を洩らした。
「別れようってことで」
予想していた『話』。それでも少し息が詰まってしまえた。
「うん、気づいてた」
食べ終わったクッキーの袋を同じ紙袋の中に入れた。さっきまで彼が用意してくれたクッキーとドリンクが入っていたその袋は、ゴミ袋と化した。溜息が零れてしまえた。大切な宝箱に詰めた思い出も、そのうちゴミ溜めなんて呼ばれてしまう。そんな現実が見えてしまった気がして。
「そう、だったのか。ごめん」
「なんで謝るの?」
訊きながら何故か笑い声が漏れた。笑うような内容なんて全くないのに。
「いや、なんでって……」
広間の反対側では高校生のカップルが歩いている。彼が自転車を押して歩きながら、彼女と親し気に話して――手を振って分かれた。
焦点が外れて、視界がぼやけた。ピントを取り戻そうとして目を大きく見開いたけど、無力で。世界の断片が剥がれ落ちた。
「わがままだよな、分かってる。本当にごめん」
私の様子に気が付いた仁章は優しい声で言うと、私の方を向いた。その彼から逃げるように、私は顔を背けた。
「謝らないで。そんなことされると、まるで――」
これまでの全てが否定されてしまったような気がして。
「俺にはしなければいけないことが、贖罪がある。その必要性に気が付いたんだ」
贖罪――。彼が背負うその罪は、付き合う前にもたらされたものでその重みを取り払うことが私の彼にできる全てだった。
「あなたは何も悪くない」
「俺も今まではそう思ってた」
彼は立ちあがると、私の目前に来てかがんだ。その顔に浮かんでいる表情は疲れ切ってやつれて――苦渋と哀しみの混ざった顔だった。
「これから俺がしようとしていることは、ひどく時間がかかることだし、世間的に見れば少しも良いことじゃない。君には迷惑かけたくないし、それに」
幸せでいてほしいから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます