第1章「好き」への一歩 3

 芳沢とはサークルでも学科内でも顔を合わせ、毎日のように話すのに対し、橋本咲奈とは週に一度のサークル内でのみだった。会話も毎回ではなく、チャンスがあったら話しかける程度。進展というのはほぼ無かった。それでも、週に一度彼女の顔を見ることができ、声が聞こえるだけでよかった。どんなに課題で思い悩んでも、彼女を見るだけで心が晴れた。

 変化が訪れたのは、薫たちと会った二週間後。七月ももうすぐ終わる日のことだった。

 課題提出が一週間後に迫り、学校封鎖時間まで居残るようになった頃。その日も守衛さんが製図・制作室に見回りに来て、帰り始めた俺は芳沢を始めとする学科仲間と共に帰路に立っていた。

「錦、どれくらい進んだ?」

 リュックいっぱいに製図道具を詰め込んだ芳沢が訊いた。

「模型が終わったところ。まあ必要最低限のレベルだけどな」

「さぁすが。模型ここ数日だろ? 造り始めたの」

「あんまりやってる姿見た覚えないしなあ」

 なあ? と四人は同意しながら歩みを進める。

「お前らなあ、俺はせっせとやってるんだぜ? まるでヒトがぐうたらけみたいに」

「ぐうたらけとは言ってない。ただ誰も制作してるところを見てないから、ささっと何でもでる器用人間に見えるだけだ」

「だからそれが――」

「どうでもいいけど、夜食どこ行く?」

 食堂棟の脇を抜けて、図書館の前へ出る。丁度消灯した図書館からは、誰かが出てくるところだった。シルエットからして女性だ。

「夜食? 『きのか』はどうだ?」

「いや今日はとんかつって気分じゃねえよ。どちらかって言うと、もっとさっぱりとした」

「んじゃ『東昌亭とうしょうてい』は?」

「夕飯に蕎麦ってか?」

 さっきの女性は、俺たちとは反対方向へと歩いて行った。俺たちが向かっている正門と反対方向にある裏門は、この時間には既に閉まってしまっている。そして裏門の近くにあるものは、講師が使う駐車場くらいだった。

「ねえ、もしかして彼女」

 思わず歩みを止めて彼女が行く方向をじっと見る。

「ん? どうかしたのか、錦」

 俺の様子に気が付いた芳沢は、俺の視線の先を辿たどった。

「ありゃ、きっと裏門が閉まってるのを知らないんだな。講師がこんな時間までここにいるわけないし」

「俺ちょっと行ってくる」

 背後から、放っとけよという声が聞こえるけれど、気が付いた時には走っていた。何故か理由は分からないけれど、急がないといけない気がした。

 無駄に斜面の多い構内を走るのは、運動不足にはあまりよくないと彼女の後ろ二メートルになって気が付いた。走りを徐々に緩やかにして、彼女の斜め後ろから横に並んだ。大学の街灯が照らすその彼女は、予想外にも親しみのある顔だった。

「え? 橋本さん?」

 俺の声にびっくりしたのか、彼女はこちらに振り向くと、小さく叫んだ。

「ごめんごめん、俺――」

「錦、くん?」

 夜闇の中、歩みを止めた彼女の顔は蛍光灯の光を浴びて少しだけ赤らんで見えた。

「驚かせてごめんね。でも、裏門はこの時間閉まっちゃってるから、知らせようと思って」

「そうだったの。こちらこそ叫んじゃったりして、ごめんなさい」

 咲奈の瞳からうっすらと涙が零れ落ちる。彼女はそれをすっと拭うと、優しく微笑んだ。

 もしかしたら、涙が出るほど怖がらせちゃったのか?

 そんなひどいことをしただなんて、と頭は石で殴られたような痛みを覚える。とは言え、今はそんなショックを感じている場合ではない。

「とにかく、正門まで行こう。あっちならまだ開いてるから」

「分かったわ」

 彼女の隣にそっと移動し、少し落ち着いた足取りの彼女に歩調を合わせる。先週ようやく梅雨明け発表はされたものの、昼に降った雨のせいで湿気じめている空気。それはまるで、くぐもった湯気の中を歩くようで、それでいて真冬の雪解けの後のようなさっぱりとしたものがあった。

「もしかして初めて? こんな時間までいるの」

「ええ、初めてよ。びっくりしちゃった。深夜の学校ってここまで……不気味だなんて」

 幽霊でも出そう、と彼女はくすっと笑った。

「確かに。日中あれだけ人がいるのを知ってるから、尚更なんだろうね」

「高校で部活の時にもそんな話したんだよね。まだその時は十八時とかだったんだけど」

 その時のことを思い出してか、咲奈は懐かし気に笑んだ。そしてはっとした表情で俺に振り向いた。

「錦くんは? まさか、いつもこの時間なの?」

「まっさか。今日は課題提出のため。あと一週間だからね。四日後にはもっとうちの学生がウヨウヨしてるよ」

「そうなの。そんな大変なんだ」

「まあね。でもその代わり仲間は他よりできるし、学校にも居座れる」

 咲奈は、学校に居座れても、と笑った。

「それより、一人暮らし? これから学科仲間で夕食に行くんだけど、芳沢もいるし、一緒にどう?」

 自分の放った台詞があまりにも恥ずかしくって、彼女を見れず前だけを見ていた。

「お誘いありがとう。でも実家暮らしだから」

「え? じゃ終電大丈夫?」

 腕時計を確認する。もう十一時四十分を回っていた。

「零時五分が最後。だから、裏門から行けばなんとか間に合うかなって思ってたの。やっぱり表門からじゃキツいかな」

 正門の前にある駐輪場に着いた。芳沢たちは門の向こうで待っているらしく、複数人の影が見える。

「自転車だって二十分はかかるんだよ? そんなの無茶だって」

「でも、電話したけどタクシーも捕まらなかったし」

 彼女は小さくなって一つ溜息をついた。

「だったら、俺の――」

 ――――家に泊まる? そんな台詞、言える口は持っていなかった。

「自転車の後ろ乗って。駅まで送る」

 彼女は一瞬きょとんとした表情になったが、すぐに首を振った。

「ダメよ。違反で捕まっちゃうわ」

「捕まらなきゃ大丈夫。でしょ?」

 ニッと笑うと、自転車の鍵を素早く外し、荷台にタオルをかけてサドルにまたがる。

「ほら早く乗って」

 戸惑った表情をしたまま、彼女は後ろの荷台に跨った。

「しっかり掴まっててね」

 後ろから回った彼女の腕が、手がぎゅうっと優しく俺の下腹部で留まる。思わず頬の筋肉が緩んで、いやらしくも笑みが零れてしまう。

 この天国、永遠に続いてくれ。

「それじゃ、出るよ」

 ペダルを力いっぱいに踏む。ギアを下げているとは言うものの、やはり人間二人分の体重は普段からすると、少しだけ力を強いた。一漕ぎ、二漕ぎが済むと、三回目からは段々と緩んでいく。

「錦ー! 飯どうすんだよ!」

 目前二メートルとなった仲間たちから疑問の矢が放たれる。

「悪い! 今日はパス!」

 おやすみ、と手を振った時には、既に彼らを追い越していた。

 深まり始めた夜の公道は、車の台数も少なく、温かみを帯びた街灯の黄色くオレンジに染まった道をすいすいと走ることができた。幸い、駅へ向かう道は下り斜面のみで、スピードが減る要因になるものは、途中の信号くらいしかない。

「今日はどうしたの?」

 信号が黄色に変わる中、ブレーキを掛けながら後ろに座る咲奈に訊いた。

「え?」

「いや、初めて居残ったっていうから。何か難しい内容があったのかな? って思ってさ」

 赤くなった信号が辺りを照らす交差点。通行人も通る車の姿もない。確かにそれは不気味に思える。日中は人で溢れかえっているのを知っているから、なおさらなのかもしれない。けれど、今はこの人気のなさがかえって良かった。

「もうすぐ課題提出期間だから、英文学科だっけ? そっちもきついレポートとかあるのかな? って。うちの学科は他ほど難しいレポートも無いだろうし」

「ああ、そういうこと、ね。レポートはもう書けたの。明日にでももう一回読み直して、所々書き直すつもりなんだけど」

「早いんだね。どんな内容?」

 信号が青に変わる。電柱を蹴って、ペダルに足を乗せ、再び自転車を走らせた。

「『w・シェイクスピアの著した『ハムレット』の霊についてのレポート』よ。彼が見た父親の霊は、果たして本当の霊なのか、王子ハムレットを陥れようとする悪魔なのか、はたまた彼らが見た幻なのか。今回のポイントは、それぞれの主観に立ちながらも、自分の意見を客観的に的確な観点から述べること」

「それって、そんなに色んな解釈ができるの?」

 駅までの道、三分の一を通り過ぎる。芳沢が言っていた東昌亭は、臨時休業の看板が出ていた。

「人によって捉え方は違うわ。だからこそ、出てくる解釈も違うのよ。それに加えて『ハムレット』は、シェイクスピアの傑作でありながらそういった意味では問題作ともたまに言われるくらいだから」

「へえ、なんだか面白そうだね。その本もよかったら今度貸してくれる?」

 腹部に留まった咲奈の指先がぎゅっと、少しだけ強く結ばれた気がした。

「いいわよ。この間話した『夏の夜の夢』もすぐに返ってくるから」

 背中で哀し気な溜息が零れた。

「それを先に渡すね」

 彼女から聞こえたその声が少しだけ震えているように思えた。月はかげり、雲の中に身を潜めて、星々はそれにならうようにその輝きを弱め始めた。

 ようやく俺にもさっきの咲奈の涙を理解できた気がした。いくら不気味な雰囲気だからと言って、十九になろうという人が驚きのあまり涙するのは、少し信じ難かった。

「そっかあ」

 宙へと溶けていく言葉。今の俺に何ができるというのだろう。一、サークル仲間である俺にできることなんて限られていた。それでも、ただ少しだけその背中をさすってあげられるような、そんな言葉をかけたかった。

本当は、そんな風に悲しませるやつに一言言ってやりたいけれど。

「男ってバカだからさ、女からすると精神年齢も幼いわけで、何でもやってる時には正しいことだって信じちゃうんだよね。後から考えれば、どんなに愚かしいことでもさ」

 彼女の指先から、掌から伝わる力が少し、ほんの少し緩くなった。

「え?」

「いや、今こんな風に無理やり乗っけて走ってても、警察に見つかったり、危ない目に遭わせたりしたらってことを考えると、本当はやっぱり悪いことに変わりないしなって思ってさ。いくら善意であってもね」

 ちょっと強引すぎたしね、と軽く笑う。一方の彼女は、結んでいたはずの両手を解いて、さっきよりもしっかりと俺に捕まった。

「錦くん」

 回った腕がさらにぎゅうっと、抱きしめるように力んだ。

「え? 何?」

「ううん。ただ、バカなのは男も女も関係ないって言いたかっただけ」

「そう?」

 近づいてきた駅近くの街灯り。それに伴い少しだけ増えてきた車と人の行き交い。黄色やオレンジだけだった照明が、白にピンクにブルーと、どんどん増えていく。通りの焼き肉屋からは美味しそうな肉の焼ける匂いが溢れ、近くのコンビニからは、買い物を済ませた人が口笛を吹きながら出てきた。

 駅のロータリーに着くと、自転車を近くの駐輪場に止める。

「はい、着いたよ」

 腕時計を確認する。電車が出る丁度五分前だった。

「錦くん、ありがとう」

 自転車を降りると、彼女はにこっと笑って言った。その目の脇には斜めに流れた涙の傷跡が残っていた。

「本当にありがとう」

「いやいや気にしないで。それより、ここまで来たんだし、改札まで行くよ」

 咲奈はまたちょっと驚いたような戸惑いを見せたけれど、今度は微笑んで頷いた。

「課題提出、来週だってさっき言ってたね」

 改札へ向かうエスカレーターで、振り返った彼女は確認するように言った。

「うん。だから今週はサークル休むつもり」

「そっか。頑張ってね」

 にこっと微笑む彼女。胸は歓喜の叫びを上げるのに対し、体裁ていさいはいたって冷静だった

「ありがと。何なら、講評会見に来てよ。建築棟で二時からだから、まあ時間あればだけど」

「来週二時ね。じゃあカッコいい姿期待してるわ」

「任せといて」

 彼女に続いてエスカレーターを下りると、その隣に並んだ。深夜近くなったこともなり、店々にはシャッターが連なっていた。

「それじゃ、気を付けて帰ってね」

「ありがとう。おやすみ」

 咲奈は微笑を湛えると、鞄からICカードを取り出して改札機を通り抜けた。

「おやすみ」

 俺の返事が届いたのは、彼女が人混みにまぎれ、姿をけしてしまった後だった。


 

      ――――❀――――



 携帯電話の通話履歴を見つめる。彼の名前を読んで、頭の中に浸透させるように目を閉じた。

 母には一喝されたけれど、錦くんのおかげで今日は無事に家に帰ることができた。シャワーを浴びてベッドに横になったまま、携帯電話を手にする私は、一瞬、変な臭いがしなかったかと不安になる。もう一人の理性を伴った私は、そんなこと考えてどうするの、とふしだらな感情を叱ってくれた。

 携帯電話をパコンと畳む。表示された背面液晶には、前にデートした時一緒に見た景色が表示された。

「本気、なのかな」


 仁章よしあきから電話がかかってきたのは、四限の授業が終わった丁度その時だった。電話に出ると、彼は長らく黙っていた。

「どうか、したの?」

 沈黙が怖くなって、耐えられなくなってしまって。口をついで出た言葉に唾を飲み込んだ。一秒が一時間のようにゆったりと長ったらしく過ぎていく。答えが聞こえるまで私は唇をじっと噛んだ。電話口から洩れた溜息。聞こえてきたその息遣いは、彼の言わんとすることが簡単な内容ではないと伝える。

『君にしなくちゃならない話がある』

 掌が急に汗ばんで、頭からはさっと血の気が退く。絶対に聞きたくない話がこれから始まる。それでもどうにか冷静でいなければと、深く息を吸い込んだ。

「そうみたいね」

 発せられた声は氷のように冷たい。本当はそんなふうにしたくないのに。

『会って話すべきだと思うんだ』

 何かを決意したような厳しい口調。私に向けてというより、むしろ自分自身に向けて話しているかのような。 

「そう思うなら、そうなんでしょうね」

 ひどくぶっきらぼうな返事。彼の心がもうここにはないと。離れていってしまったのを感じたから。

『聞いているかい?』

「ええ、聞こえているわ」

 これだけの些細な違いにすら溜息を洩らしてしまう。私の心はもう、傷つくのを恐れて扉を閉めてしまった。

『なあ咲奈――』

「それで? いつにする」

 ベランダから見えたのはいつもと変わらない図書館とカフェテリア。それでもフィルターのかかった今日の私には、どこかくすんで見えた。

『明日夕方五時。いつもの場所で、どう?』

 明日の夕方五時。話なんて聞きたくない。でも、踏ん切りをつけるには聞かなくちゃならない。サークル、休みたくはないけど。

「分かった。それじゃ五時にね」

『気をつけてな。じゃ』

 切れた携帯電話を持ったまま、腕はそのままストンと下へ落ちた。

授業は終わったし、いつもなら帰るところだったけど、帰りたくなかった。


 明日が来てほしくなかった。真実を耳にしたくなかった。

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