第1章「好き」への一歩 2
カンカララン。
ドアベルの音が店内に響き渡る。店に入ってマスターにコーヒーを頼むと、何の種類かと尋ねられた。
「種類……えーっと」
「坊や、メニューならそこにある」
彼が顎で示したカウンターテーブルには小さな黒板があった。埋めつくすように並んだメニューは、どこかで聞いたカタカナ単語とコーヒーの組み合わせばかりで、何のことだかさっぱりわからない。
「あ、アイリッシュコーヒーを一つ」
とりあえず分かったイギリスのコーヒー。注文を受けるなり、店主は俺をつま先から頭の天辺までじろっと見た。
「兄ちゃん、お前幾つだ、歳は」
「十九に一昨日なったよ」
「そうか、そりゃおめでとさん。でもな、それじゃアイリッシュは頼めないな」
マスターはくくっと笑った。けれど、俺には疑問詞が増すばかりだ。
「アイリッシュコーヒーは酒とのブレンドだ。分かったかい? この阿呆」
聞きなれた声に振り向いた。後ろに立っていたのは薫だった。
「マスター、シナモンコーヒー一つと、こいつにはアメリカーノを一つお願いします」
「承りました」
薫の注文を聞いて、彼はすぐに後ろを向くと二つのコーヒーカップを取り出した。
「薫って本当に物知りだよね。テレビのクイズ番組にでも出てみればいいのに」
「これは俺が物知りなんじゃなくて、錦、君が知らなさすぎるんだ」
まったく、とでも言いたげに腕組みをする彼とは、卒業以来四か月ぶりの再会となる。今まで何度も会おうと誘ったけれど、実験で忙しいとなかなか応じてくれなかった。
カップを受け取ると、店の奥の方の席に腰かけた。壁に無数にあるステンドグラスの窓から差す光とその美しい反射に惹かれた俺は、敢えて窓際の方に座った。
「それにしても、何で待ち合わせ場所が喫茶店なんだい? しかも、お互いに来たことがないなら、一層のこと駅ででも待ち合わせて合流してから来ればよかったのに」
薫は鞄を置くと、不服申し立てをした。
「なんか、かっこいいだろ? イケてる恰好して喫茶店で待ち合わせって」
「メロドラマの見過ぎだよ。だいたい、こういうちゃんとした店でコーヒーを飲んだことがあるのかい?」
「もちろん、ないよ」
彼はやれやれと首を振った。
「家で淹れたやつしか飲んだことない」
「だったら、君のはアメリカーノにして正解だったな」
シナモンコーヒーを一口含んで、彼は呟いた。
「アメリカーノって、アメリカのコーヒーってこと?」
「違う。アメリカーノはエスプレッソをお湯で薄めたコーヒーだ。だから、普通のやつより苦みは薄い」
ふーんと漏らして、一口飲んでみる。そして分かったこと。
「にっっっっっっっっっっがあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぃぃぃぃぃいいいいいいいいい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「まったく、言わんこっちゃない」
机の隅に追いやるように置いてあったシュガーポットを取って、素早くふたを開けた。中には大量の角砂糖が鎮座している。その内一つをトングで取ると、掌に乗せて口に放り、幾つかはカップの中に投げた。コーヒーの苦みで痺れていた口内に打って変わって角砂糖のざらっとした甘みが染み渡る。
「錦、そんなに入れたら糖尿病になるぞ」
「そんなの老いてから言ってくれ」
「大体、どうして苦い飲み物が苦手なくせに、コーヒーなんぞ頼んだんだ」
「うるさいな、俺は薫ほど舌がまだ死んでないんだ!」
「それは君、まだまだ子どもだってことかい?」
薫は笑った。くそ、巧い言い返しが思いつかない。
「お、お前が結果としてコーヒーを頼んだんだろ」
「それは良也がコーヒーを頼もうとしていたから。珍しくコーヒーを飲みたいのかと思っただけさ」
「だって、喫茶店でコーヒー以外に飲み物ってないだろ?」
「え? メニュー見なかったのかい?」
薫からの思わぬ反応。瞬時、脳内は一時停止して、さっきのメニュー表へと巻き戻る。そこに小さく書かれていたのは、「紅茶」の文字だった。
「なんだ、紅茶があったのか」
「よく文字を読んで意味を理解してから注文することだね」
まるで小学生の子どもを相手に話すように、薫は特別スマイルを浮かべた。
「それで? 何だい? 相談したいことって」
眼鏡の奥でまるで、何もかもお見通し、というように彼は笑う。自分から話したくて誘ったにも関わらず、勝手に頬は緊張の糸を纏う。
「あ、いや、それは、ほら、
カンカララン。
店内に響き渡るドアベルの音。振り向くと、遥棋が丁度店に足を踏み入れていた。
「ま、三人揃うのも時間の問題ってわけで」
薫はしたり気に笑った。
「洗いざらい話してもらうからね」
零れる溜息。なんだか面倒くさくなってきた。なんで彼らに相談しようと思ったのかすら、今となっては不思議に思える。
視界の奥にいたはずの遥棋が、いつの間にかこちらへ向かってくる。コーヒー片手に手を振ると、彼は薫の隣に座った。
「久しぶり~って言っても、良也とは一週間か」
遥棋は無愛想に言うと、薫に向き直った。
「中谷、卒業ぶりだな。四か月ぶりか?」
「そんなところかな。というより、どうして浪人の君が俺よりも錦と会ってる回数が多いんだい?」
「それは一部訂正しなきゃならないな。第一、僕は浪人生活を辞めたんだ」
「辞めた? 『終える』の間違いでなく?」
中谷薫は、怪訝そうに方眉を上げた。
「ハルは五月から勉強するのを辞めたんだ」
「それはつまり、君、ニートってことか」
「せめてフリーターって言っていただきたいね。僕は悟りの境地に至ったんだ」
そう言うと、遥棋は得意げに笑った。薫はあきれ顔で彼の続きを待った。
「交通事故に遭った後、ふと思ったことがあった。勉強をして大学に行って、一流企業に入って……それで人生の何になる? 社会の誰でもなれるような歯車になって、いつ捨てられてもいいようなパーツとして動くことがそんなに大切なことか?」
予想外の話のトーンに薫は面食らったように見えた。彼は俯くと、小さな声で同意した。
「僕はそれより、大切なことがあると思った。学び舎に留まった勉強だけじゃ成しえない、学ぶべきことはむしろ外にあるってね」
この唐突なる考えに耳を疑ったのは、大学の入学式直後のことだった。志望大学を落としてひどく落ち込んでいた三月からすると、まるで別人のように吹っ切れた彼は、すでに輝きとエネルギーに満ちているように見えた。その時の俺は、彼の言葉とその裏に潜む決心に今の薫と同等の驚きと動揺を持って応えた。
薫は暫くの間口を閉ざし、どこか遠く一点を見つめていた。その瞳はどこか悲しみと痛みを映しているように見えた。
「この間はまだ説得できてないって言ってたけど、家族と話はついた?」
「ああ、なんとか。まあその代わり逐一連絡は入れなきゃだけど。兄貴の口添えのおかげでなんとかいけることになったよ」
得意げに笑むと、遥棋はカップを口に運んだ。
ようやく衝撃の波から帰還したと見える薫は、ぎこちなく咳払いをしてから彼の方を向いた。
「どこに行くんだい? というか、何しに行くんだい?」
「まずは東南アジア。世界で何が起きているのかをこの目で見てみたいんだ」
「行って、見て? それでどうするっていうのさ。何か書物にでもするのかい? 出版社はなかなか取り合ってはくれないよ」
薫の非難がましい口調に遥棋は口を尖らせた。
「まるで親目線だな。べつに書籍化する気はないよ。どの国に何が必要なのかをきちんと見て、何が素晴らしくて損なわれちゃいけないのかを見て……。それから学業を学ぶ。その上でNGOとかの団体に加入するんだ」
「非営利団体ってやつか。ついこの間までチャランポランだった君がボランティア人間になろうとはね」
コーヒーカップをくるくると回し、一口含んだ薫は再び舞い出た追憶の彼方から帰還したかのように、見ていた遠く一点から遥棋へと目線を戻した。
「いつから行くんだい?」
「来月。大安に行く」
「大安吉日ってか」
こくりと頷く遥棋。薫はふっと笑った。
「友人Aである俺から、君の選択に意見する筋合いはないからね。自分の思うだけ存分に学んで来たまえ。ただし、あんまり無茶して命を粗末にしてくれるなよ」
「ああもちろん。それにちょっとやそっとのことでくたばるヘマはもうしないさ」
親指をぐっと立てると、遥棋はコーヒーを口にした。
「と、まあ前座の俺の話が済んだところで、良也」
彼はニコっと笑んだ。
「何か相談があるんだろ? さっさと話せよ」
ゴクン。
思わず生唾を飲み込んだ。いや、そもそも自分が話そうと思ってのことだから、緊張する必要も理由もないんだ。それなのに、妙に手は汗ばむし、ちょっと頬が強張る。
「なんだ? そんなに話しにくいことなのか?」
「まさか遥棋より重大な内容なのかい?」
急に真顔になった二人。
「いや、そんな大したことは――」
「じゃ留年か?」
「いや、退学なんじゃ」
今度は冗談交じりでニタニタと笑う。まったく、何ていう友人だか。
「ハルは橋本咲奈って覚えてる? 小学生の頃同級で、途中転校した
子なんだけど」
遥棋は一瞬眉根を寄せると、静かに首を振った。
「それで、その子がどうかしたのかい?」
まぁある程度の予測はついたけど、と薫はコーヒーを口にする。
「いや、それが……」
歓迎会の翌週、部室へ向かうとクラブ棟に咲奈がいた。
淡い花柄のロングスカートに春らしい浅黄色のニットを来た彼女は、飲み会の時よりさらに魅力的に見えた。
「どうも」
声をかけると、彼女は振り向いて少し緊張気味に微笑んだ。
「古代・中世欧州研究会のメンバーだよね? この前の歓迎会で来てた」
「はい、橋本です。えっと、ごめんなさい、名前を覚えるの苦手で」
苦笑する彼女。それすらも可愛らしく見える。
「同じ一年生の錦良也、よろしく」
手を差し出すと、彼女は少し戸惑い気味な表情を見せながらも握手に手を取った。
「よろしく、錦くん」
小さな掌はひんやり冷たく、ゴツイ俺の手とは比べ物にならないくらいふわふわとしていた。あんまり力を入れたら壊れてしまうんじゃないかというくらい、繊細な掌。
「あの、すみません」
彼女の言葉にふっと顔を上げる。咲奈は戸惑いの中に苦笑いを浮
かべて、その綺麗な手先へ視線を走らせた。
「あ……ごめんごめん」
ぱっと手を離すと、彼女は半歩後退った。そのままくるりと向きを変え、部室へと歩みを始める。
変な奴って思われちゃったかな。
溜息を押し殺して気を取り直し、先を歩む咲奈の後を追った。
「そういえば、部室の鍵は?」
「管理室になかったから、もう誰かが取ってるんだと思うわ」
背を向けたまま、スタスタとクラブ棟の外階段を上がっていく彼女。揺れるスカートは日差しを受け、半透明にその綺麗なふくらはぎを現す。
「錦くんは本読む?」
「え?」
不意な質問。思わず立ち止まった俺に、彼女は階段の踊り場から振り返る。
「だから、小説とか戯曲とか。古代・中世の書物なんかどうかな? って」
「参考書とか説明ものが主だから、そういう類はあんまり」
咲奈の顔が一瞬曇った。
まずい。これは何とかしないと。いや、というよりもここは絶好なる機会じゃないか?
「そう言えば、歓迎会でそういう本が好きって言ってたよね。初心者でも楽しめるようなおすすめって何かある?」
「そうね、例えば……」
少し考える素振りを見せる咲奈。残りの数段を上がって、俺はそんな彼女の隣に立った。春らしい柔らかな風がふうっと吹いて、辛うじて残っていた花びらを舞わせる。数段上がっただけなのに、遥かに居心地よく感じられた。
「喜劇は好き? ハッピーエンドは」
「もちろん」
逆に、悲劇大好きなんてどこの世界にいるんだろう。何事も結末は幸せな内容の方が楽しいに決まってるだろうに。
「だったら、シェイクスピアの『夏の夜の夢』とかどうかな? 相思相愛な主人公カップルとその彼女が好きな男子、その男子が好きな女子の四人が織りなすコメディなんだけど」
「面白そう。でも、シェイクスピアってなんだか難くて取っつきにくいイメージがあるな」
「だったらお
勝ち誇るように微笑むと、再び階段を上り始める咲奈。その後を追うように俺も続いて上り始める。
「そんなに面白いんだったら今度貸してよ。持ってるんだろ?」
「ええ、分かったわ。でも手元に戻ってきたらね」
部室のある三階に辿り着いた彼女は、その一段下にいる俺とぴったり目線を合わせて悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「今その本、カレに貸してるから」
貸している。カレに……?
体中の力という力が抜けてしまって、階段から落ちてしまいそうになる。地面がぐらりと回り歪んで、そのまま底が抜けてしまうような、そんな脆い感触に捕らわれる。実際、身体というものは感覚と別に働いているらしく、まるで地球の磁場にしがみついているように両の足をすくっと立たせ、きちんと階段上に自立させていた。
「カレって、その……彼氏?」
ふふっと彼女は笑った。
「ええ、高校からのね」
「――で?」
薫が冷たい眼差しでこちらを見る。湯気がすっかりなくなってしまったコーヒーをすすった遥棋は、欠伸交じりにじっと俺を見据え
た。
「良也、まさかお前二股掛けさせようとさせてるんじゃ」
「違う! そんなわけ――」
「こら、ここは喫茶店だぞ。静かに話せ」
的確な薫の声に、少しむうっとして口をつぐむ。茶化しに成功した遥棋は、ニタっと笑ってみせた。
「まあ、そんなわけで咲奈には彼氏がいたんだ。しかも、付き合って三年目の」
「ふーん。それで?」
「いや、どうすればいいかなって。入学してもう三か月経つけど、友だちってほど親しくもまだなれてないし。何かアドバイスないか?」
「別れさせるための? それとも惚れさせるための?」
「何言ってるんだよ、そんなの――」
「遥棋、そんな愚問するなよ」
薫は俺の声を遮るとコーヒーを含んだ。どうやら遥棋の意味不明な問いに正論を返してくれるようだ。
「二股以外の方法で惚れさせたら、結局のところ別れさせることになるんだ。どっちにしても答えはイコールだろ」
「あ、確かに」
ポンと手を叩く遥棋。まったくどいつもこいつも。
「いい、お前らに訊いた俺がバカだった」
立ち上がるとポケットから財布を取り出す。野口英世を引き抜くと、机に置いた。
「おやおや、
「当たりまえだ」
「仕方ないだろ、良也。僕も中谷も経験ないんだから。僕に関しては誰かを好きになったことすらないんだぞ?」
肩をすくめる遥棋。おちゃらけモードは終わったらしく、その顔にあった冗談に満ちた笑みはすっと消えていた。
「それならそうと、何か考えてくれてもいいだろ?」
「錦、君の場合はまだ救いがある。良いほうさ。とりあえず機会をみながら仲良くなっておけばいい。俺の――親友の方は、君がさっき話した『真夏の夜の夢』みたいな関係性で苦労してるんだ」
薫は遠く一点を見つめて深い溜息を洩らした。
「本当にその人が好きなら、辛いときにそばにいてやれ。何もしなくていい。ただそばにいる、それだけでも時として人は幸せになれる」
真剣な声色で言うと、彼はその瞳をすっと俺に向けた。
「わかってる、それくらいは」
思わずそう返答したけど、薫のその眼差しには、複雑な思いが感じ取れて――怖くなって視線を逸らした。
「コーヒーも飲み終わったし、ボーリングにでも行くか?」
妙な空気になったその雰囲気を和らげるように遥棋は言うと、席を立って伸びをした。
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