第8話

「何か恥ずかしいね」

 彼はそんな言葉と微かに染めた頬を添えて、私にスケッチブックを差し出してくれた。ありがとうございます、とお礼を言いつつ、少し震えた手でそれを受け取る。

 すると彼は、そんな私の手に自分の手を重ねると、一気に最後のページまで飛ばしてくれた。そこに描かれている、絵には。


 私が、描かれていた。


 ……いや、私を描いてもらったんだし、それは当たり前だ。当たり前、なのだけれど……。

 ……“ここ”には、“私”がいる。そう、感じた。

 私の色、感触、匂い、思い出、感情……その一つ一つが、このスケッチブックの中に詰め込まれている。そう、感じた。

 それは、プロの人が見たら、きっと鼻で笑ってしまうような……そんな絵なのかもしれないけど。

 私はこの絵が、大好きだ。

 たまらず、スケッチブックを最初から眺めてく。ここに来るまでの私。たまらず踊り出す私。ココアを差し出された時、少し驚いた私。ココアを飲む私。おしゃべりをする私。泣いている私まで描かれていたのが、少し恥ずかしかったけど……色んな“私”を、この人は拾ってくれたんだ。私が気づかなかったような、私でさえも……。

「……どうかな」

 彼から声を掛けられ、私は顔を上げる。依然として恥ずかしそうにしている彼と、目が合って。

「──素敵です、とても」

 自然と、何を考えるよりも先に、そう言っていた。

「何と言うか、とても、心に響くものがあるっていうか……私の、色んな表情を見られて……すごく、恥ずかしかったですけど……それ以上に、こんなに素敵に描いてもらって、すごく、嬉しくて……!!」

 違う。

 もっと伝えたいことがあるのに。もっと言いたいことがあるはずなのに。上手く、言葉に出来ない。そう言葉を探していたら、また涙が溢れてきて。いい加減、泣き虫だと思われてるかな。ウザいって思われてるかな。別の心配をして、また言いたいことがまとまらなくなって。

 すると彼はまるで私が泣くことを予想していたかのように、ハンカチで涙を拭ってくれる。

「……僕が君を素敵に描けたと思ってくれるなら、それは君が素敵な子だからだよ。……君があの日あそこにいなかったら、君があの日踊り出してくれなかったら、きっとここまでの絵は描けていない」

 彼の言葉は、相変わらず綺麗で、そして、何とも言えない強い力があった。だから私は、信じられる。……私は、素敵なのかな。この人に素敵だと言ってもらえるような、そんな一人の人間であれたかな。

 ……そうだったらいいな。


「好きです」


 口に、出してしまっていた。

 私の涙を拭う手が、一瞬止まる。その動揺が、ダイレクトに伝わっている。ああ、嫌だな。こんなに恥ずかしいのに、結末はほぼ分かりきってしまっているから。

「初めて会ったときから、好きでした。困ったように笑う貴方の八の字の眉が、可愛かったです。でも絵を描いている時のどこか凛々しい表情が、カッコよかったです。優しくしてくれたところが好きです。泣いた理由を聞いてこなかったところが好きです。ココアをくれた貴方が好きです。私の踊りを優しく見てくれた貴方が好きです。私以上に私のことを見てくれた貴方が好きです。私のことを、素敵だと言ってくれたところが……好きですっ……」

 涙が止まらない。拭ってくれる人ももう居ない。それと同じように、私の口も止まらない。

「好きです……好きです……貴方のことが、好きです……大好きですっ……」

 うわ言の様に、気持ちを唱える。

 好き、好き。こんなに、好き。……大好き。大好きです。貴方が、大好きです。

 伝えるだけで十分だ。貴方に初めて会った日から、今日まで、そんな決心を重ねてきた。……でも無駄だ。

 伝えても伝えても、伝えられた気がしない。

「好きです……っ」

 嗚咽が、私の言葉を掻き消して。口は止まってしまって。でもやはり心は止まらなくて。

 どうしても、空回ってしまう。

「……はーっ……はーっ……」

 ゆっくり深呼吸をして、どうにか気持ちを落ち着けようとする。でも、この呼吸が整ってしまったら、また私の口は、この人に愛を伝えるためだけに動いてしまいそうだった。

 それは困るなぁ、と、私の冷静な部分は呟く。

 きっとこの人を、もっと困らせてしまうから。

「ありがとう」

 するとそこで、私ではない声が聞こえた。驚いて、顔を上げる。

 私以外の声、と言ったら、当たり前だけど、一人しかいないのだけれど。

 彼が、微笑んでいた。

 そこに、困ったような八の字の眉は無かった。

「僕を好きになってくれて、ありがとう」

「……あ、は、はい……」

「……でも、ごめんね。僕は、君とは付き合えない。年齢差とか、遠距離になるとか、そういう理由じゃなくて……単純に。……僕は、君のことが人間として好きだけど、恋ではないから」

 ごめんね、と、彼は微笑んだ。

 彼は、優しい人だった。ここで、「年齢差」とか、「遠距離」だとかで、断ってしまったら良かったのに。そうしなかった。

 ……きっと彼は分かっていたんだ。そんな理由では、私は引き下がらないって。

 だから、この世で最もシンプルな理由で、断った。

 本当に、この人は……残酷なくらい、優しい人だ。

「……はい」

 私は頷き、笑う。自分の手で、涙を拭う。

 彼からのハンカチが差し出されることは、きっともう、無い。

「……ありがとうございました」

 この気持ちが伝わった。それだけでも、良かった。

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