第4話
その日から私は、「踊る」ようになった。
赤や黄の葉々と戯れて、私の心行くまま、踊る。疲れたら少し休憩して、元気になったらまた踊る。
一方彼は、ただそれを描き続ける。時に、彼は休憩する私のことも描いていた。その間、彼の意識は私とスケッチブックにしかない。……その時間が、私にとっては酔ってしまいそうなほど甘美だった。
踊りながらで、描きづらくないんですか?
私がそう聞くと、彼は少しだけ悩んだような表情を浮かべた後、ゆっくり話してくれた。一つ一つ、大事な言葉を、丁寧に私に差し出してくれているようだった。
「何と言うか、君が踊っている間は、不思議と僕の頭の中に『ゴール』みたいなものが見えるんだ。そして、君が踊れば踊るほど、そのイメージが鮮明になる……だから大丈夫」
上手く伝えられなくてごめんね。と、もしかして、踊るのは嫌だったかな? と、彼はやはり申し訳なさそうに言った。私は慌てて、その二つを否定する。そんな風に思ってほしくなかった。
彼の言葉は、とても素直に入ってくる。よく、「ストンと落ちてくる」みたいな表現があるけど、もっと、違う。これは……「染み渡る」の方が正しい。彼の言葉は、まるで澄み渡った水なのだ。不純なものなど一つもない。だから、私の心の無防備なところまで流れ込んできて……そして、触れてしまう……彼の言葉には、そんな力がある。
その人は、私の人生の中で一番綺麗な人だった。
「踊ります」
休憩も終わって、私は立ち上がる。腕を広げ、呼吸を整えて。そうして振り返ると、貴方が笑っている。それがなんと幸せなことか。これを幸せと言わずに何と言う。
ああ、私ってば、世界で一番幸せ!!
そうだそうだ!!
目の前を一緒に舞う赤と黄も、そう賛同してくれた。ふふふ。よくわかってるじゃない。だから私、その葉と手を取る。葉に手は無いって? あるよ。心の目で見れば。こんなに息を合わせて、踊ることが出来るの。最高に素敵。
終わる頃には、私はもうへとへと。でも心の中はとても満たされている。幸福、高揚、感嘆、様々な感情が、溢れて止まらないから。
「お疲れ様」
貴方と、貴方のくれるココアが、感情を飲み込ませてくれる。
その時間が、一番好き。
その日、彼は珍しくスマホを見ていた。だから、何となく、彼はスマホを持っていないのだろうと思っていた私は、とても驚いた。しかし、考えれば当たり前である。この情報社会の世の中、スマホを持っていない方がおかしい。いや、それはスマホを持っていない人に失礼かな。取り消そう。
彼はしばらく苦笑いを浮かべながらスマホを見つめていたが、私に気づくとスマホをバッグにしまった。ここでポケットではなくバッグにしまう、というモーションに、何故かときめいてしまう。もはや何でもいいのかもしれない。全部この人なら。
「こんにちは」
「こんにちは。あの……スマホ、持ってたんですね」
「一応ね。知人と連絡を取る、くらいにしか使わないんだけど……」
彼は苦笑い交じりにそう言う。確かに、今チラッと見た限り、スマホは新品同様に綺麗だった。……本当に新品の可能性もあるが、それにしても、「知人と連絡を取るくらいにしか使わない」という言葉に、嘘は無いのだろう。
今も、親戚が送って来た恋人とのツーショット写真を眺めていたらしい。幸せそうならいいんだけど、何で僕に送ってくるかなぁ、と彼はどこか楽しそうに呟いていた。何だかんだ、親戚の子が元気そうで嬉しいらしい。そしてそれを見られて、私もとても嬉しくなった。……この人の知らない一面を知ることが出来たのだ。それが嬉しくないわけがない。
でも決して言えなかった。「私とも、連絡先交換してくれませんか」。その一文が。
だって私たちは、お互いの名前も知らない。必要最低限以上の情報をお互い与えていないし。……聞けないよ。
これ以上踏み込んだら、この関係が壊れてしまうような気がした。初めて出会った時から、そんな予感をこの人は孕んでいた。少しでも距離感を間違えたら、この人はふっと、消えてしまうのではないか……そんな危うげな、儚げな雰囲気を、彼は纏っていたから。
言っておくけど、真面目にそう思っている。だから私は、ここまでこの人に心惹かれているのに、この人に踏み込めないでいる。彼も、私に踏み込んでこない。
その距離感が、どこか心地いいのも事実で。
私は前進も後退も出来ないまま、彼との名もない密会を、楽しみにしている。
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