17話 雪解け

彼は果たして狂ってしまったのかもしれない。視界が急激に狭まり、周囲のすべてが見えなくなって、自らが導き出した答えだけが正しいと思い込んでいた。


けれど彼自身は、その答えにたどり着いた自分を褒め称え、なぜ今まで気付けなかったのかと後悔さえした。



一条真一は、一つの解にたどり着いた。


それは百瀬晴を地上に繋ぎ止めていた鎖を砕き、重力を失った彼女が二度と地に足を付けなくて済む方法。

百瀬晴が望んで止まず、けれど思い付きすらしなかった方法。



計画をノートに丁寧に書き記していく。


”・自身の振る舞い…再度社会に溶け込み、注意を引かないよう気を付ける

・鈍器・凶器の用意…通学鞄に入る物。無警戒なところを背後から鈍器で殴って気絶orできれば痛みは最小限か?

・計画期間…夏休み直前が◎ 学校の対応によっては事件が起きて強制的に夏休みに入るかも?

・計画手順…百瀬家への侵入が必須 ルートを”


ふと手が止まる。これ以上書き残すと、百瀬晴がこの計画に加担していると警察にばれてしまうのでは?

正確に言えば『加担している』ではなく『加担してもらう』になるが、どちらにせよ、それはまずい。



一条は我に返ったように、自分の部屋を見渡した。

沢山の書類や本、衣類で溢れかえった室内。落ちている紙やノートのどれを拾っても、『百瀬晴』の名が書いてあるだろう。


「…これを処分するのが最優先か」


あれほど大切に守り抜いてきた、友人を突き飛ばしてでも守ったノートを、一条は一枚一枚ちぎりながらゆっくりとシュレッダーに通していく。

家庭用の小さなシュレッダーのため、警察に見つかれば解読されてしまうが、燃やせるごみに混ぜてさっさと捨てれば問題ない。

家族に不審がられないよう、少しずつ、少しずつ。



一条の瞳は黒く輝いていた。

あの夕暮れの教室で、ピアノの楽譜をちぎっていた少女の瞳とよく似た色をしていた。


紙屑になってはらはらと落ちていく、百瀬晴との繋がり、彼女への想い。

チェーンのように細くつながったシュレッダーゴミは無性に百瀬を思い出させ、一条の心臓はいっそう速く鼓動した。



怪しまれない程度の量の紙ごみを自身のゴミ袋に詰めた後、彼が最初に取った行動は、風呂に入り歯磨きをすることだった。



---



次の日から一条真一は目に見えて変わった。

いや、元の彼に戻ったという表現が正しいのだが、あまりの変貌ぶりに皆はじめは唖然とし、徐々に喜びと安堵の表情をあらわにした。


はじめに変化に気付いたのは、当然だが両親だった。

まともに食事を摂らなくなり、風呂も最低限しか入っていなかった息子が、毎朝決まった時間に起きて朝食の席に着く。

それだけで母親は目を見開き、こぼれそうになった涙を隠すためすぐ弁当を包み出す。


「ほら、お弁当」

「ありがと、母さん」


そう言って少し微笑むだけで母親の心を落ち着かせられることを、一条は理解していた。

父親は何も言わなかったが、久しぶりに新聞で読んだ内容を雑談として食事の場に提供した。


やっと元の真一に戻った!


自分の反抗期とは全く違うかたちだった息子の反抗期の終了に、両親は心底安心した。

無論、反抗期が終わったわけではないし、もとより一条の奇行は反抗期によるものではなかったのだが。



---



次に反応を示したのは三宅だった。

少し意外に思われるかもしれないが、そもそもあの事件があった日から二村はまともに一条を見なくなっていた。

一条の変化に真っ先に気付いたのは、いつもおどおどしながら周囲を気にしている三宅だった。


「に、ニム。一条くんがなんかおかしい気がする」

「…あ?あいつがおかしいのはいつもだろうが」


二村の右肩を揺らしつつ囁くような声で喋る三宅に、二村は一瞥もくれず目の前のスマートフォンをいじっている。

ただでさえ朝練で疲れている二村にとって、頭の痛い話に首をつっこむ気にはなれなかった。

ぱんと払われた手を悲しそうにさすった後、三宅はちらりと一条に目をやった。

いつもノートや本で散らかっている机が今日に限って何も置かれておらず、ただ頬杖をついてぼんやりと教室の外を眺めている一条に、三宅は違和感をぬぐい切れなかった。



教室の雰囲気ががらりと変わったのは昼休憩だった。

いつもは一目散に教室を出て行く一条が、なんと二村の席までやってきたのだ。

周囲はざわつきながらも平静を装い、見て見ぬふりをしながら彼らの様子を見守っていた。


「…二村、三宅」

「……あ?」


二村の切れ長の目がぎろりと一条を刺す。

一条は二村の後ろで立ったまま動けなくなっている三宅と、自分の席でかったるそうに足を投げ出している二村を交互に見る。

そして涙をじわりとにじませ、頭を深く下げた。


「は…?」

「ごめん、俺、どうかしてた。身内で…色々あって、俺が何とかしないとって躍起になってた」

「…」


教室はいつものように騒々しく昼の準備を始めている。しかしそれは偽りのざわめきだ。

誰もが一条と二村の会話に耳をそばだてながら、いつも通りのお昼の時間を装っている。


「2人には…特に二村には、ひどいことしたなって思ってる。謝って済むことじゃないけど…」

「…切れがわりぃな、はっきり言えや」

「ごめん。色々解決したというか、俺の中で踏ん切りがついてやっと冷静になった。それで、二人に謝りたかった。…もう一度ちゃんと話したかった」

「…」


一条は頭を下げたまま話し続けた。

自分がどれだけ愚かだったか。大切な友人であった二人をないがしろにしていたか。

三宅はオロオロとしながらも気づいていた。相変わらず口を一文字に結び、不機嫌そうに腕組みしている二村が怒っていないことを。


「愚かじゃなんじゃ、どうでもいいわ。…それで家のことはどうにかなったのかよ」

「ああ、もう大丈夫。…というより、はなから俺が考え過ぎてもしょうがないことだったから。もう本当に大丈夫」

「……そ」


素っ気なく返事をする二村に、一条もまた彼がすでに怒っていないことを確信していた。


(そうだ。そうでないと困る。二村は人情に厚い、影響力のある人間だ。彼が自分を許してくれさえすれば、クラスの雰囲気は元に戻るはずだ)


二村は優しい人間だった。そして本人は気付いていないが、とても騙されやすい人間でもあった。

一条の偽りの涙と身の上話で、二村の凍り付いてた一条への感情はとろとろと溶けていった。


「…もう何でもいいよ。俺は腹が減ってんだよ」

「二村…」

「おい、お礼とか謝罪は俺じゃねえぞ。お前、自分が何部だったかも忘れたのか」

「え?……あ、」


二村の言葉で、一条は頭からすっぽり抜け落ちていたことを思い出す。

彼はノートに取りつかれている間、昼休憩の時間すべてをその作業にあてていた。

つまり、一条は1か月以上もの間、昼の校内放送をさぼっていたのだった。


「…え、本当に忘れてた。嘘、誰も言ってくれなかったじゃん」

「言ったよバカヤロー!お前が聞いてなかっただけだろうが」

「だって、さすがに先生とかも…」

「そうだよ、だから今はもう放送部は一人じゃなくなってんだよ」


想定していなかった展開におろおろしていると、二村は後ろを振り返って誰かを見つけ、くいくいと手招きする。

教室の隅から姿を現したのは、一条が全く予想だにしていなかった人物だった。


「…え、も、百瀬さん?」

「ご、ごめんね勝手に。私お昼の放送結構好きだったから、続けたくて」


注目を浴びることに慣れていないのか、百瀬はクラス中の視線を受けてひどく恥ずかしそうに身を縮こめている。

一条は未だ信じられないとでも言いたげに、中途半端に開いた口をわなわなと震わせる。


「百瀬さんが全部やってくれてたの?」

「そうだよ。だから今放送部は2人になっちゃった」


へへ、と申し訳なさそうに百瀬は頭をかく。


(どうして、)


一条は驚きを隠せなかった。

目の前の百瀬晴が、透明の塊が発している言葉を理解できなかった。


(どうして彼女から俺に近づく?)


最初は三宅くんも手伝ってくれたよね、と百瀬と三宅がへらへらと笑っている。

百瀬は相変わらず花の咲いたような愛らしい笑顔を振りまいており、そのやわらかな空気も手伝って教室は元の空気に戻りつつあった。

固まっていた一条の横腹に、二村が重めの拳を入れた。


「おら、ちゃんと言えや」

「あっ…あぁ、ありがとう。百瀬さん」

「ううん。いつもお昼、楽しみにしてたから」


そう言って女神のように微笑む百瀬に、クラス全体から安堵した空気が漏れる。

貼りついたその笑顔を見て、恐怖に震えている一条を除いて。



---



昼休憩の放送は10分程度で終わってしまうため、一条はいつも二村たちと昼食をとった後に放送室へと向かっていた。

二村たちからその話を聞いた百瀬も同じような流れで放送を続けていてくれたらしい。


引継ぎをする、といったていで一条と百瀬は二人放送室へ向かって歩いていた。

昼休み。廊下を行き来する賑やかな生徒たちとは反対に、二人は一言も話さないまま目的地へとたどり着く。

放送室に入って鍵を閉めてから、やっと一条は深く大きなため息をついた。


「あら、息でも止めてたの?すごいため息」

「いや…そうじゃないだろ」


疲れ切った表情をしている一条とは裏腹に、百瀬は可愛らしくにこりと笑ってみせる。

好きな女性に対する態度とは思えないようなうんざりした表情で、一条はわざとらしくため息をもう一度つく。


「学校では関わらないんじゃなかったのかよ」

「あはは、ごめん。あなたがあまりにも目立ちたがりだから、私もつい真似したくなっちゃった」


皮肉のきいた百瀬の言葉に一条はなぜか安堵した。

教室にいた時の無色透明の輝きを放つ百瀬とは違う。今の百瀬から香り立つのは、ほんのりと黒く色づいた怒りの感情だった。


「一条くんが勝手にするのは結構。だから私も勝手に、この場所をもらうことにしたの」

「…写真部の活動は?」

「どちらもわりと融通がきく部活だし何とでもなるのよ。実際あなたもここでいつも退屈してたでしょ」


がらんとした放送室を百瀬はゆっくりと歩き回る。

そして机の端に立てて置かれていたアルバムを、愛おしそうに手に取った。


「あなたがここを手放したようだったからラッキーと思って乗っ取ったのに、何だか普通に戻っちゃったみたいじゃない。がっかり」

「ひでぇ言われようだな…」


一条にとって放送部の活動は単なる暇つぶしに過ぎず、百瀬に執心し始めてからは頭からすっかり抜けていた。

反対に百瀬にとって放送部とは、高校に入ってからずっと憧れの目で見ていたひとりきりになれる居場所であり、そして彼女の愛する曲を学校で流してくれたとても大切な場所だった。


(これで二度目ね。高校生活中に本当の意味で自発的に何かをしたのは)


昼休憩の放送が2度連続で放棄されたとき、放送部の顧問と一条の接触を止めたのは百瀬だった。


『彼、今資格勉強で大変だそうなんです。その代わり私が兼部するので、昼の放送は続けてもいいですか?』


「…俺に邪魔が入らないようにしてくれたのか」

「だから、この場所が欲しかっただけだってば。変な誤解はやめて」

「ありがとう、百瀬さん」


百瀬がはっと顔を上げて一条を見る。

彼の顔は憑き物が落ちたように穏やかで、まっすぐな視線を百瀬に向けている。

その瞳の奥に黒い何かを感じて、百瀬の背すじにひやりと冷たいものが走った。


「思いのほか俺は周囲を巻き込んじゃってたんだな。助かったよ、最悪計画がおじゃんになるところだった」

「計画…?ちょっと、あなたこれ以上何をする気なの」


少し焦りながら、怒りの声色を乗せて尋ねるも、一条はお構いなしに昼の放送の準備を始める。

その手際の良さに百瀬はなぜかいらだちを覚え、行き所のない怒りを抑えつつ華奢なパイプ椅子にゆっくりと座った。


軽快な音楽とともに始まる、一条の素人臭い放送。

いつも通りの声。いつも通りの、生徒たちの耳をすり抜けていく音楽。

ふと今日流している音楽が気になって一条の手元をちらりと見ると、不穏な赤紫色のアルバムがあった。

百瀬の心臓がどくん、と大きく脈を打つ。

バタバタと足音を鳴らして放送室の外へ出ると、校内に流れていたのは紛れもない、


「『Anne』…」


百瀬が廊下で呆然としていると、通りかかった教師がいぶかしげに彼女を見た。

はっと我に返ったと同時に、後ろから一条がぬるりと顔を出した。


「百瀬さん、放送中はドア開けないで。今は曲流してるからいいけど、声出すときに困る」


そう言いながら教師に一礼し、一条は百瀬をすばやく放送室に招き入れる。

百瀬は自分の衝動的な行動を反省しながら、ちらりと一条を見る。

一条は百瀬に一瞥もくれず、曲が終わった後に読む台本に目を通しながら、操作パネルをいじっている。


(…わからない。)


そのとき、百瀬は一条に対して、はっきりとした恐怖心を抱いていた。

目の前の男が、瘦せぎすの冴えない高校生が、何を考えているのかまったくわからない。


いや、わからないのは誰だって同じだった。

自分以外の人間すべて何を考えているのかわからないからこそ、百瀬は常に頭をフル回転させて、相手が何を望んでいるか、何が正解かを考え続けていた。


(彼が何をしたいのか、何を考えているのか、まったくわからない。)


百瀬は優れた観察眼を持っていたが、それでも一条の行動や表情、口調から何かを感じ取ることができなかった。

彼女は無意識のうち、ふだんの行動のほとんどを他人の感情によって決めていた。

つまり百瀬は、何一つ理解できない一条を前にして、動くことも、言葉を吐くことさえもできなかったのだ。


聞き慣れた、淡々とした口調の校内放送が終わりに近づく。

百瀬の心臓がまた、どくんと脈打った。

放送が終わって、何をしたらいい。何を話せば、どう接すれば、彼は満足してくれる?


(…そうだ。あの日、約束したんだ。)


燃えるような赤で染まった、夕方の公園。

六見幸子との縁を切るために作戦を決行したあの日、百瀬と一条は一つの約束をした。

もう関わらない。二人はただのクラスメイトで、それ以上でもそれ以下でもない存在だと。


(私が釘を刺しておいて、約束を破って近づいたのは私だ。)


そのことを思い出してなお、百瀬は一条の気持ちがまったく読めなかった。

約束を破ったことを怒っているのか。はたまた二人の関係性が深まって喜んでいるのか。

それとも、本当に何も考えていないのか。


(いや、そんなはずはない。一条くんが考えなしに二村くんに謝るなんてあり得ない。)


もう百瀬の夢なんてどうでもよくなって、元の友人関係を取り戻そうとしているのか。それなら、どんなに良いことか。

もうすぐ放送が終わる。百瀬の表情はこわばり、手の指は落ち着きなくスカートの上でうごめいている。


わからない。怖い。わからない。怖い!


「百瀬さん」


パニック状態になりかけていた百瀬は、一条がいつの間にか放送を終え、こちらに視線を向けていることに気づかなかった。

ひっと声にならない声をあげた後、自らの滑稽さにうんざりした。

そんな百瀬の気持ちなどお構いなしかのように、一条は穏やかな笑みを崩さず、優しい口調で話し始めた。


「俺、思いついた。百瀬さんがなるべく早く夢を叶えられる方法」

「…え、」

「学校じゃ話せない。空いている日に、またあの公園で会えるか?」


呆然とする百瀬と対照的に、一条の顔は終始一貫して薄い笑みを浮かべていた。

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異情愛 畑るわ @hataruwa

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