16話 真実の理想、しかし夢は遠く

沢山の本を読んだ。

うつだろうが精神病だろうが関係なかった。とにかく、自分のなかに少しだけ見えた、百瀬さんの片鱗を放したくなかった。


自分が餓死しては元も子もないから、食事は最低限とった。

思考するには睡眠が必要だから、睡眠もきちんととった。

排泄やのどの渇きなどの生理的欲求は満たしつつ、俺は考え続けた。


親は最初こそ心配していたが、次第に怒りにシフトしたのか、部屋に鍵をかけた俺をひどく責め立てた。

抵抗してヒステリーを長引かせることほど無駄なことはないため、俺はひたすら謝罪し、なるべくその場を早く収めるよう努めた。

それでもやはり風呂に入らないと怒られるから、数日に一度、ぎりぎり怒られないで済む程度の清潔感を保った。


そして、俺は自室にこもって本とノートに没頭する。


学校でもやることは同じだった。

教師は親よりも懐柔が簡単だ。授業を聞いてさえいれば、高校生ともなると多少の内職は許してもらえる。

何度か注意を受けたが、質問された授業内容にきちんと答えると、それだけで教師は黙った。


最も厄介だったのは友人だろうか。

特に二村。あいつはお人好しが過ぎる。

三宅は早々に俺を見切ったようだったが、二村は最後まで俺の変化を認めなかった。

俺が今一番満たされていることを伝えても理解されることはなく、理由を話せる状況でもないため、無視を貫いていたらとうとう病人扱いされるようになってしまった。


ノートを踏まれ、思わず突き飛ばしてしまった日は肝が冷えた。

怪我でもさせたら、たまったものではない。俺の腕力では命にかかわる怪我を負わせることはないだろうが、このことを教師に言われ、親の呼び出しを食らえば、とりあえず部屋の鍵は撤去されるだろう。


二村に怪我はなく、友人を自分の都合でばっさりと切り捨てた俺に愛想をつかしたのか、ついに二村までも俺に関わることはなくなった。



自覚はしている。

俺は社会から逸脱しつつある。

家族に心配をかけ、教師を悩ませ、友人を傷つけた。

周囲の人間に迷惑をかけ続けながら、俺は自分の欲求のまま、行動している。


分かっていながら、俺にやめるという選択肢はなかった。

自分自身の”自己実現”なんてものに興味はないが、今の俺を突き動かしているのは、百瀬さんを救いたいという純粋な気持ちだけだ。


あの日無表情で泣いていた、黒く光る彼女の叶いそうもない夢を、どうしても叶えたかった。

それだけだった。



---



書き殴りのノートが20冊を超え、やっと俺は自分のなかの引っかかりに気付くことができた。

百瀬さんの真の願いは、単純な”死”ではなく、もっと心の根深い部分に繋がっている。


その仮定をきちんと言葉にできるよう整理した後、俺は彼女へメッセージを送った。


『百瀬さんが死にたい理由の仮説を立てた。』


送った直後、またしても数秒とたたずブブ、と通知が鳴る。


『今日会える?11時半に○○公園。』

『ごめん、親が寝てからじゃないと無理。俺今見張られてるから』

『分かった。じゃあご両親がお休みになったら連絡ください』


素っ気ないやり取りを2,3往復させ、俺はベッドに倒れ込む。

時刻は午後9時半。

父親はまだ晩酌をしているだろうから、寝るのは大体12時前だろうか。


きゅう、と悲しそうな音を出した腹に、今日学校から帰って何も食べていないことに気付く。

そもそも最近では学校でも何も食べていないから、空腹なのは当たり前だ。

倒れては困る、と部屋の鍵を開けて外に出ると、ドアの横にコンビニ袋が置かれているのに気付く。

中を見ると、お茶と3つのおにぎりとサラダ、冷めきっているホットスナックが数個入っていた。


”作ったものは腐ったら困るから、コンビニで買ってきました。部屋にこもるのはもう良いけど、お願いだからきちんと食べて。”


一緒にいれてあった手紙は、まぎれもない母親の字だ。

その手紙を見て俺は初めて、もう夏らしい季節になっていたことに気付いた。


(親にこんな世話までさせて、ひでぇ親不孝者だな)


ふっ、と力なく笑い、袋を持って部屋のなかへ戻り、適当に選んだおにぎりを腹に入れる。

急に物を入れられた胃がきゅるると焦った音を出し、俺は思わず苦笑した。


俺は今、家族や友人などの周囲の人間だけでなく、自分の身体まで犠牲にして、俺には全く関係ない人間の夢を手伝うという夢を追っている。


「…どうしようもねぇ、ほんと…」


そう呟いたところで決心は変わらない。

俺は短い食事を終えたのち、考えをもう一度まとめ直すために机へ向かった。



---



「ごめん、遅くなって。親がちゃんと寝てるか確認するのって結構大変だね」


時刻は12時35分。

俺の両親は12時前に就寝し、その後すぐ連絡したのだが、百瀬さんが訪れたのは俺が公園について20分程度経ってからだった。


「いや、こんな遅くに呼び出した俺が悪いよ。むしろよく出てこれたな」


実際、一般的な高校生にとって、夜中に家を抜け出すことは容易ではない。

俺の両親は寝てしまえばほぼ起きないからあまり心配はなかったが、百瀬さんのところは平気なのだろうか。


「ああ、大丈夫。うちはむしろ祖父が早寝早起きで朝大きな声を出したりするから、両親も早めに寝るんだよね。

私が念のため、っていちいちみんなの寝息を確認してたから遅くなっちゃった。ごめんね」


息を整えながら話す百瀬さんの顔には、どことなく緊張の色が見える。これから俺が何を話そうとしているか、不安を隠し切れないようだ。

焦らすつもりはない。夜も遅いし、警察に見つかると面倒なため、俺は挨拶もそこそこに話を切り出した。


「それで、メッセージでも話した、百瀬さんの死にたい理由についてなんだけど、」

「ちょっと待って」


少し早口気味に話し出した俺を、すぐに百瀬さんがとめる。


「ごめん。私が会いたいって言ったんだけど、一つ聞かせてほしい。私の死にたい理由を考えたところで夢に近づけるとは限らないと思うんだけど、どうしてそんなことを伝えようとしてるの?」


彼女の刺すような視線は怒っているようにも見えたし、何かを疑っているようにも見える。

きっと百瀬さんならそう聞いてくるだろうと踏んでいた俺は、用意していた答えをそのまま口にした。


「それは、百瀬さんの本当の夢ってのは、死ぬこと自体ではないんじゃないかと思ったから」

「…は、はは。面白いね、聞きましょうか」


嘲笑を隠さない百瀬さんの声色は、怒りの感情をたっぷりと含んでいた。

怒るのも無理はない。自身が数年かけて追い続けていた夢を、否定されたと感じられてもおかしくない言い方をした。

相変わらず穏やかな笑みを崩さない百瀬さんの瞳をまっすぐ見て、俺は話し出した。


「単刀直入に言うよ。君は死にたいんじゃなくて、誰かを傷つけることにひどく怯えているんじゃないか」

「…どういう事?」

「そのまんまの意味。百瀬さんの夢は、『死ぬ』ことじゃなくて『誰も傷つけない』ことなんじゃないかって考えた」

「……」


ほとんど真っ暗な公園の隅で、二人のぼんやりとした影がじっと固まっていた。

薄い雲でおおわれたかすかな月の光だけでは、百瀬さんの顔色は読み取れない。けれど、腕を組んでぎゅっと体を抱きしめている姿や、何も言葉を発しない様子から、今までに見たことがないほど動揺しているように見えた。


「…話を続けるよ。百瀬さんは、自分を愛する人がいなくなってから死ぬのが夢だと言った。それは合ってる?」

「…ええ、そうね」


消え入りそうな声で彼女が呟く。ぎりぎり聞き取れたその声は震えていた。


「死ぬのが夢だと言いながら、自分の死で深く傷つく人は誰一人として存在してほしくない。それが可能か不可能かはさておき、それが百瀬さんの願い」

「…言葉遊びしたいだけならつまらない」

「ごめん。そんなつもりはないんだ。とにかく百瀬さんは、自分を愛する人を傷つけたくない」

「そうよ」

「そこが少しずれている気がする。愛する人を傷つけたくないというのは、死ぬ理由になってないんだよ。

百瀬さんは”愛する人を傷つけたくない”んじゃなくて、”誰一人として自分の存在によって傷つけたくない”んじゃないのか」


うつむいていた彼女の顔がさっと上がる。相変わらず表情は読み取れない。


「人は生きているだけで、色々な影響を周りに与える。もちろん優しさや明るさを与えることもあるし、苦しみや怒りを生むこともある。生きている限り、その可能性は無限にあるし、どれだけ良い子にしていても、誰ひとり傷つけずに一生を終える人はいない」

「…」

「百瀬さんは友人も恋人もいらないって言った。無害で透明な存在でい続ければ、自分がいなくなって悲しむ人はいないって。それって、死にたいから人との縁を作らないって言うかもしれないけど、裏を返せば誰も傷つけないために死にたいってことじゃないのか」

「待って。何が違うのか分からない。私は死にたいから、私が死んで傷つく人を作らない。それだけだよ」


言葉こそ穏やかなものの、百瀬さんの語調は明らかにきつくなっている。

怒っているというよりかは戸惑いの色を強く感じた。彼女は今、ひどく困惑している。


「死にたいから人と繋がりを持たないのと、人を傷つけたくないから死にたいってのは全く違うよ。

百瀬さんはただ死にたいんじゃない。自分が生きていて、誰かを傷つけてしまうのが恐ろしくて、一刻も早く消えたいんじゃないか?」

「…わ、あ、う」


百瀬さんは手で顔を覆いながら、ぼそぼそと声にならない声を漏らしている。

しばらくあうあうと呟き続けたのち、ぴたりと動きが止まり、彼女はまっすぐに俺を見た。

暗闇の中、その大きな瞳は何よりも黒く光っていた。


「一条くん、ちゃんとご飯食べてるの?明らかに痩せたよね」

「…へ、さ、最低限は食ってるよ。俺が死ぬわけにはいかないし」


予想外過ぎる質問に、戸惑いを隠せないまま何とか答える。

百瀬さんは無表情のまま、淡々と質問を続ける。


「そう。なら良いの。それと、クラスから浮いてるのも理解してる?お友達だってあなたを心配していた」

「…分かってるよ。でも今それは関係ないだろ」

「関係あるよ?!大有りだよ!」


少しそっけなく返した俺の言葉に被せるように、百瀬さんはかっと目を開いて声を張り上げた。


「一条くんは自分が言ったことをちゃんと理解してるの?私は確かに人を傷つけたくない。誰も私のことで傷ついてほしくない。それは、君も同じなんだよ?

それなのに一条くんはどうしてそんな行動ができるの?自分を傷つけるようなことをして、痩せこけて孤立して問題を起こしてさ。本当に私のことが好きなの?嘘だね、むしろ嫌いなんだそうなんだ!自分を傷つけてみせて、私に嫌がらせしてるんだね?!」


息の続く限り言葉を吐き出した百瀬さんは、直後ゲホゲホとせき込み、その場に崩れ落ちる。

大丈夫か、なんて声をかける資格はなかった。彼女の大きな勘違いは、俺の未熟さによって引き起こされ、そして今実際に傷ついているのは、百瀬さん自身だった。


「百瀬さんは大きな勘違いをしてるよ。俺は何も傷ついてない」

「うそ、嘘だ。私のせいで、誰かがおかしくなっちゃうなんて、そんなの、そんなの…」

「ごめん、傍から見たら俺がおかしくなってるように見えるんだよな。俺、不器用だから、見た目とか外面を気にしながら何かを成し遂げるのって難しいんだよ。百瀬さんはしっかり隠しながらやれることが、俺にはできない。それは本当にごめん。

だけど、信じてほしい。俺は、俺のために、百瀬さんの夢について考えてる。百瀬さんが気に病むような、俺が傷ついてるなんてことは一切ない」


百瀬さんはぼろぼろと大粒の涙を流しながら、まっすぐに俺を見つめている。

その姿は産まれたての赤ちゃんのように危うく、愛おしく見えた。


「う、そ」

「本当」

「…一条くんは、つらくないの」

「俺は何もつらくないよ。正直今、人生で一番楽しい」


嘘ではなかった。

俺は今まで、これほど何かに熱中し、取り組んだことは一度もなかった。

百瀬さんで脳が埋め尽くされる快感を、誰にも奪われたくなかった。


「好きな人が死ぬための、手伝いをするの?」

「前も話したじゃん、それ。俺は百瀬さんが望むことをしたい。百瀬さんが誰も傷つけずにいたい、そのために自分を消したいってなら、協力する」


彼女の本当の望みは、誰ひとりとして自分のせいで傷つかない世界をつくることなのだ。

そして生きている限り、人は誰かを傷つける。

その可能性を断つため、彼女は無意識のうちに死を望むようになったのではないだろうか。


「もう一度言うよ。百瀬さんは死にたいんじゃない。

自分が生きているだけで誰かを傷つけるという可能性を恐れて、死ぬことによってその可能性を消そうとしてるんじゃないか」

「…悔しいね。初めてだよ。自分の事を、自分以上に分析されるなんて」


百瀬さんはどこか呆れたような、諦めを含んだような顔で笑う。


「質問の答えとしては、イエスかノーじゃなくて、今日初めて知った、になるね。私は死にたがりじゃない、ただの怖がりだったんだね」

「そうかもしれない。百瀬さんはとても怖がりで、とても優しい人間だよ」

「はは、死にたがりの怖がりが、優しいわけないでしょ」


泣き腫らして真っ赤になった瞳が弧を描き、百瀬さんは小さな声で笑う。


「そうかな。優しすぎて心が敏感すぎて、自分の苦しみよりも他人の傷を恐れるんじゃないか?」

「どうだろうね…少なくとも今日、一条くんは傷ついていないってことが分かったよ」


少しだけ笑い合った後、その場にぴりっとした冷たい空気が流れる。

気付くと百瀬さんは、いつもの穏やかな笑みへと表情を変えていた。


「…自分が分かって、少しだけ死ぬまでの時間が楽になったかもしれない。ありがとね」

「そう、ならよかった。これからも考えることはやめたくないんだけど、大丈夫?」

「良いけどあんまり目立ち過ぎないでよね」


ふふ、と少し心配そうに、透明の仮面をかぶった百瀬さんが笑う。


「じゃあ、また明日」

「うん、おやすみなさい」


2人は別々の帰路につく。

話したのはおよそ15分ほど。その時間はあまりに短く、けれど濃厚な時間だった。




そしてまた俺は考え続ける。

彼女が、百瀬さんが真の意味で救われる方法を考え続ける。



ひと月ほど経った頃だろうか。

邪魔になってきた前髪を鬱陶しく思いつつ、PTSDに関する本を読んでいる時だった。


家族を乗せた乗用車がトラックにぶつかり、後部座席の幼児だけが生き残った事故。

その後、その幼児が無意識的に受け続けるフラッシュバックなどについて記載されていたが、何も頭に入ってこなかった。



そうか。

何も、待つ必要なんてなかったんだ。

物理的に解決する方法が、一つだけあるじゃないか。



百瀬さんの透明さ、黒さ、その中にある透き通った小さな塊。

それに気づき、彼女の夢を叶えると決めたあの日、俺の人生は急転回した。


そしてまた今日という日を区切りに、俺はおよそ通常の人間とは思えない方向へと人生の舵を切っていく。

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