15話 ぴたりとはまった歯車は動き出し、止まらない

ショッピング施設での一件が終わり、百瀬さんの叫びを聞いてから、俺の脳内は彼女で満たされていた。

息苦しさも心地よさも感じない。ただ満たされている、そう表現するほかなかった。


(透明で真っ黒に輝く百瀬晴を救う。ただそれだけだ)



まず、百瀬さんが死ななくても幸せになれる方法を探した。

百瀬さんが感じている希死念慮や、家族の死に直面した人に表れる症状などを片っ端から検索する。


適応障害、自律神経失調症、鬱病。

アダルトチルドレン、PTSD、パーソナリティ障害。


「…ふう」


どの病名や症状も、百瀬さんに当てはまっている気がするし、全く見当違いな気もする。

そもそも俺は医者ではないし、百瀬さんに対して詳細にカウンセリングをしたわけでもない。

何かの病気だとしても、それを俺が治療することは不可能だ。

そう分かっていながらも、精神病に関する原因や症状、治療方法を丁寧に読み、書き留めていった。



一通りネットサーフィンを終え、俺はペンを置いて一息つく。

的外れだったり、専門的過ぎてよく分からないメモがほとんどだったが、一つだけ百瀬さんとつながりそうな言葉を見つけた。


”生きづらさ”。

四角で囲んだその5文字を、俺はじっと見つめる。


百瀬さんは器用だ。

勉強も運動もそつなくこなし、かつ目立ち過ぎないようある程度の能力に留めることすらできる。

人の気持ちを正しく理解し、相手に不快感を与えず、適切なコミュニケーションが取れる。

一見何不自由なく生活しているように見せかける能力がある。

その器用さが、彼女の生きづらさを増幅させているに違いなかった。


もう少し粗があれば、弱みが浸み出てしまうほどの隙があれば、彼女の心は全く違う方向へ向いていただろう。

たとえば、彼女が誰か一人にでも弱音を漏らしていたら、百瀬さんは少なくとも一人以上の人間から心配される対象になり、彼女が望む死からぐっと遠のく。

いや、そんな人間であったなら、そもそもあれだけ純粋に、死を望むことはなかったのではないか。


簡単には見破れない彼女の本性と、それを理解しきった上で『”私は健常な人間だ”と他者を欺ける』という彼女の自信が、百瀬さんの心の殻をより強固にしているのかもしれない。


(その殻にひびを入れた)


俺の歪んだ愛が彼女の心の殻に気付き、乱暴に触れた。

ひびから流れ出すタールの黒は綺麗で、愚かな俺はその美しさに魅了されるがまま彼女を繋ぎとめる。


(壊してしまえば、いっそ楽になれるだろうか)


百瀬さんの表面を覆う分厚い透明のガラスをたたき割り、中のドロドロとした彼女を白日の下に晒す。

死にたい、消えたいと苦しむ百瀬さんを知れば、皆すぐに駆け寄り、たくさんの手が差し伸べられるだろう。


百瀬さんは、その手を取る。

優しい百瀬さんは、たとえそれが偽善や見下しによって差し伸べられた手であろうと、人の好意をむげにはできない。

そうすれば彼女は死を諦めてくれるかもしれない。


そこまで考えて、俺は自分の太ももを強く殴った。

俺は百瀬さんを苦しめたいわけではない。死なせないようにする努力は、はなから間違っているのだ。


だって百瀬さんは、ただ生きているだけで、文字通り死ぬほど苦しんでいるのだから。



何の通知も来ていないスマホを取り出し、何度も打ち直した後、やっと一文のメッセージを百瀬さんに送信する。



『もう一度、百瀬さんが死ねない理由を教えてもらえませんか』


ふうと一息ついてスマホを置こうとした瞬間、ブブと通知音が鳴る。


『私を愛してくれている人が悲しむから』


淡々とした文字から、感情の抜け落ちた百瀬さんの表情まで想像できてしまう。

素っ気ない対応を今さら気にすることもなく、俺は落ち着いて返信する。



『百瀬さんにとって自分を愛してくれている人は、誰にあたる?』


『家族』


『それは、ご両親や兄弟、親戚?』


『違う。私は一人っ子で、親戚とも関係が薄いから、一緒に住んでる父と母と祖父だけ』



あ、り、が、と、うと打って返信すると、用が済んだと解釈したのか、百瀬さんからのメッセージはぴたりと止んだ。

普段の花が咲いたような明るさとは真反対の、この素っ気なさをクラスで出したところで、少し友達が減ったり嫌われたりするだけで百瀬さんの魅力は変わらないのにな、と考えてしまう。

しかし環境の変化は、彼女が持つ希死念慮を増幅しかねない。頭に浮かんだ自分の非凡な考えをばっさり切り捨てる。


他人の死期を想像することほど失礼なことはないが、俺はぼんやりと彼女の両親や祖父の年齢を考えてみる。

俺の家族と同じくらいだと想定すると、両親は40~50代か。

一般的に祖父が両親より長生きすることはないと考えると、つまり百瀬さんが待っているのは、両親の死だ。


自分を愛してくれている人を悲しませないために、彼らの死を心待ちにしている、百瀬さん。


矛盾した家族への愛に、勘の鋭い百瀬さんが気づいていないはずがない。

”こんな事を考えるなんて”、という罪悪感すら、彼女を苦しめている一つの要因かもしれない。


「はぁー…」


一つずつ丁寧に、固く結ばれたこぶ結びを解いていく必要がある。

彼女の苦しみをすべて理解することは難しくとも、少しでもその脳内を理解し、苦しみの要因を取り除きたい。


深く吐き出したため息を思い切り吸い込み、今度は”罪悪感の対処法”について調べるため、俺はまたネットの海へ飛び込んだ。



---



インターネットは無限かつ、自由だ。

それゆえに情報源が非常にあいまいで、信じるべきか否か疑わしいものが多い。

一晩中PCにかじりついて得た情報の根拠を調べるべく、俺は市内にある大きな図書館へ向かった。


医学に関する本が並ぶ列を、ゆっくりと歩いて回る。

分厚い医学書を手に取るも、難しい言葉の羅列に目が回ってしまった俺は、新書コーナーに足を運んだ。

比較的薄く、読みやすそうな内容で、かつ現代社会問題について書かれている本が多くある。

特に精神に関する本は、簡単に見つけることができた。それほど現代人は精神をすり減らし、生きているということなのだろうか。


「うつ」や「精神病」と書かれた本はなるべく避けた。俺は百瀬さんが、精神を病んでいるとは思えなかったからだ。

もっと根本的な何かが、彼女の心の奥に潜んでいる気がした。


「自己実現…」


ふと目に留まった本の題名にあった、『自己実現』という言葉が引っかかった。

まともに話を聞いていなかったが、たしか公民の授業で習った言葉だったはずだ。

すっと本を抜き、近くにあった小さなソファに腰かけ、本をぺらぺらとめくっていく。



自己実現。

心理学者のマズローが提唱した欲求のひとつで、人の欲求はピラミッドのように下から5つの欲求で構成されているという。

一番下にあるのが「生理的欲求」、その上が「安全欲求」「社会的欲求」「承認欲求」と続き、ピラミッドの頂点に「自己実現欲求」が存在している。

下位の欲求が満たされることにより、その上の欲求を求めるようになる。

一つずつ欲求を満たしていき、最上位の「自己実現欲求」を満たすべく向かうことによって、自分のあるべき姿、ありたい姿に近づける。



ややこしい文字面に頭を悩ませつつも、俺はどこか真理に近づいている予感がして、胸をざわつかせていた。

何度も何度も同じ文章を読み直し、できるだけ正しい知識を頭に叩き込む。

自分があるべき姿、ありたい姿。


百瀬さんがこう生きたいと願う姿。それは単に生きている間の話だけではない。

百瀬さんがどのような人生の幕引きを望むか、ということも含まれている。



彼女のことを『欲張り』だと言った。

百歩譲って、自分の死期を選ぶことはできるかもしれない。つまるところ、自殺という選択だ。

ただその際に、他の人間の感情までコントロールしようとするのは不可能に近い。

自分は死んでしまっているのだから弁明しようがないし、遺書の類も、いくらポップで面白おかしい文章にしたところで、読み手は勝手に『悲しませたくなかったのね』などと解釈して涙を誘うだけだろう。


だから彼女は親の死を待ち、透明に生きる。

誰の記憶からもすり抜けてしまう水や空気のような存在に徹する。



「百瀬さんは…本当に死にたいんだろうか」



誰にも聞こえない声量でぽつりとつぶやく。

百瀬さんは誰も悲しませずに死にたい。それは彼女自身がずっと口にしていることだ。


ただ死ぬだけならいつだってできる。

彼女の目的は、他にあるのではないか?


本をめくる手が速くなっていく。



生理的欲求。

これはほぼ間違いなく満たされていると思う。断言はできないが、少なくとも客観的に見て彼女は適切な食事をし、質の良い睡眠をとっているように見えるし、性欲が満たされずつらいといった雰囲気もない。


安全欲求。

これも、恐らく問題ない。ストーカー被害などに遭っていたら話は別だが、そんなそぶりはない。あったら真っ先に俺に被害がくるだろうし。

経済的・肉体的に不安定な様子もなさそうである。姉の病気を治療し、その後も普通に暮らしていける経済環境が、彼女にはある。

家庭内で何か不安定な要素があるのなら、安全欲求は少し歪な形として、ピラミッドを構成しているかもしれない。


社会的欲求。

人を人たらしめるもの、それは社会生活だ。何らかのコミュニティに属し、他者とのかかわりを求める。

百瀬さんは、口では他人との交流を避けたいようなことを言っているが、現実世界では真反対の行動をとっている。

彼女は社会に属しており、そこでの安心感を得ているはずだ。


承認欲求。

この欲求は二つに分けられるそうで、他者からの承認と自分自身による承認がある。

前者について、百瀬さんは明らかに他者から認められる存在だ。そして自分自身で、そのことを認めている節もある。

『私が死んだら誰かが悲しむ』と感じているということは、他者から認められていることを理解しているのと同じだ。

彼女自身が自分を認めているかについては、正直よく分からない。

死にたい自分と、それを受け入れてくれない社会に絶望しているのか、自分自身の希死念慮にうんざりしているのかは、俺の目からでは分からない。

そして彼女自身も、それについて理解を深めているようには思えない。憶測にすぎないが。


そして、自己実現欲求。

自己を実現する、つまり”こうありたい”という自分自身になるということ。

自分が成し遂げたい理想を掲げ、それに向かって努力し、達成させることで、人は最高位にある欲求を満たすことができる。



「…百瀬さんじゃないか」



自己実現に関する記述を読めば読むほど、彼女が死について語る時の、きらきらと輝く瞳を思い出す。

本にある自己実現欲求の例と彼女の話す理想図は、内容こそかけ離れていたが、欲求の根源は同じだ。


『私を愛してくれる人がいなくなったら、死ぬの。』


彼女はただ死にたいのではない。

誰も悲しませずに死にたいのだ。



…そもそもどうして、生きづらいんだっただろうか。

俺は少し汗ばんだ手でスマホを操作し、百瀬さんへメッセージを送る。


『申し訳ないが、もう一度百瀬さんが生きていることがつらい理由を教えてほしい』


今度の返信は、昨日と比べて時間がかかった。

そわそわしながら本を読み進めていると、数十分後だろうか、スマホの通知が鳴った。


『前も言ったかもしれないけど、理由は分からない。だけど、とにかくこの社会で生きて、百瀬晴として存在していることがつらい。今すぐにでも、この場から消えたい。

でもそうしたら、家族が悲しむの。優しくて明るい百瀬晴を愛し育ててくれた人たちを悲しませずに死ぬって、お姉ちゃんが死んだ時に決めたから』


相変わらず要点だけをまとめた素っ気ない文章だったが、昨日よりも彼女の感情が見えた気がした。

消えたい。死にたい。だけど死ねない。

自分が死んだら悲しむ人がいるから。



「…いや、逆なのかもしれない」



俺はふと考えついた思いをまとめるべく、持っていた数冊の本を借りて早々に帰路についた。

一刻も早く考えをまとめたかった。湧き上がる百瀬さんへの感情を、一粒たりとも逃したくなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る