愛と罪の天秤
13話 歯車が動き出し、教室はきしむ
二村勇人。高校2年生、陸上部所属。
名前に負けない勇敢さと、同じくらい優しさを持ち合わせた男である二村は、あの日以来友人がすっかり変わってしまったのを、心の底から心配していた。
「おっはー…って、今日もまだ来てねぇのかよ、一条」
「最近ずっと時間ギリギリに来てるよね…」
陸上部の朝練を終えて教室へ入った二村と三宅は、普段なら自分たちより早く来ている一条の姿を見つけられず、困惑の表情を見せる。
ただ遅く来ているだけなら、それほど深刻な問題ではない。一条も寝坊することはあるし、二村たちより遅く来ることは何度かあった。
それ以上に不安の種があるから、こんなささいな変化でさえ、二村は敏感になっているのだ。
カラカラ…
ホームルームが始まる直前、教室の後方でゆっくりと扉を開ける音がする。
二村はすぐさま振り返り、それが一条であることを確認して安心し、すぐに顔をしかめた。
(また目のクマ、酷くなってんじゃねぇか)
のそのそと気配を消しながら歩く一条は、明らかに今までの様子と違っている。
もとよりやる気に満ちているタイプではなく、どこか冷めたような雰囲気のある人物だったが、それでいて真面目で熱い部分も持ち合わせている男だった。つい数日前には、勉強を頑張ると決めたのか、わざわざ参考書の購入に付き合わされたものである。
それが今では、友人である二村たちが話しかけてもどこか上の空で、授業中も休憩時間さえも、カバーの付いた分厚い本を読んだり何かノートに書きとめていたりする。それが授業や勉強と全く関係ないということは、誰の目からも明らかだった。
初めこそ教師が注意したものの、「大丈夫です。ちゃんと授業を聞いています」の一点張りで、居眠りしているわけでもないためそれ以上咎めることもできず、一条は少しずつ教室で浮いていっていた。
「…おい、一条。飯だぞ」
「……」
4限目が終わって一条の机に向かうも、彼は返事をするどころかこちらを見向きもしない。必死に分厚い本の小さな字を読み、何かを書き留めている。
このところずっとこうだ。不安と苛立ちを隠し切れなくなった二村は、とうとう彼の机をガンと蹴りつけた。
机がガタリと傾いたところで、やっと一条の手は止まった。
斜め後ろにいた三宅が、慌てて二村を止めようと前に出る。
「ちょ、ちょっとニム…」
「こうでもしなきゃ、気付きやしねぇよ。おい一条、どうしちまったんだよ」
「…ごめん、気付かなかった」
机を蹴られたことを意にも介さず、衝撃で転げ落ちた消しゴムを、一条はゆったりとした動きで拾い上げる。
さっとノートを閉じ、机に散らばった本を集めてまとめた後、一条はやっと二村の顔を見た。
一条は薄く笑いを浮かべていたものの、こちらの心まで凍り付きそうなほど冷え切った表情をしていて、二村は思わずぞっとした。
「調べ物があるから、二人で食べといてくれないか」
「…そうかよ。じゃあ明日は絶対一緒に食うぞ」
「いや、今日からずっと。ちょっと急ぎで調べないといけないことがあってさ」
そう言うや否や立ち上がった一条の腕を、二村はぐっと掴む。
細くて冷たい。一条の腕から伝わった第一印象はそれだった。
もとより一条は少しやせ気味だったが、ここ数日で痩せた…というよりは、やつれたように思える。
きちんと食事を摂っているのか?昨日まではかろうじて一緒に昼食をとっていたものの、家ではどうしているのか。
掴んでいた1秒間でさまざまなことが頭をよぎったが、一条の冷ややかな視線によって我に返る。
「痛いよ」
「…お前さ、最近どうしちまったんだよ。クマもひでぇしやつれてるし、ずっと変な本読んでるし」
「…」
数日間、この教室の誰もが思っていたであろうことを、二村はとうとう口にした。
事なかれ主義でその場を荒げたくない三宅は、二村の後ろでただうろたえている。
その一方、注目の的となっている一条は、どこか他人事のようなきょとんとした顔で二村を見て、にこりとほほ笑んだ。
「二村たちには全く関係のない事だから、放っておいてくれないか」
一条の突き放すような言葉に、二村の怒りは一瞬にして頂点に達した。
「俺たちはお前を…っ!」
「ニム!」
無意識のうちに伸びていた二村の手が、一条のシャツの襟をとらえようとする。
すんでのところで三宅が二村を抑え込んでいなければ、二人は取っ組み合いになっていたかもしれない。
二村の手が腕から離れると同時に、一条はやっとか、とでも言いたげに小さく息を吐き、すたすたと軽い足取りで教室を出て行ってしまった。
教室には嫌な沈黙が流れ、よどんだ空気が停滞していた。
「に、ニムごめん。痛くなかった…?」
「…邪魔してんじゃねえ」
おろおろとした三宅の謝罪に、二村は見向きもせず小さく口をとがらせる。
実際、二村は三宅に感謝していた。自身の不器用さや無鉄砲さは時に、酷い惨状を生むことがある。そんな時、三宅はいつだって二村の隣にいて、彼の心をやさしく鎮めてくれるのだ。
なぜ正反対の二人が一緒にいるのか、とよく言われてきたが、その理由を二村は知っている。
三宅が側にいるからこそ、自分の無茶が通るのだと、二村はよく理解していた。
「…めし、食お」
「う、うん!」
まだ少しざわついている教室を出て、二人は一条がいないということ以外いつも通り、購買へと向かった。
---
決定的な事件が起きたのは、その1週間後の昼休みだった。
一条は変わらず本やノートだけと対面しており、周囲の人間がそれに慣れ始めた頃。
三宅は関わりを持たないようびくびくしていたが、二村だけは一条の変わりようにどうしても納得いかなかった。
(元から髪の毛とかいじってなかったけど、ありゃ風呂も入ってねえんじゃねぇか)
ブラシを入れた様子のないぼさぼさの髪、制服についたわずかなふけ。
薄い髭がだらしなくのびており、頬はこけ、制服を引っぺがしてボロ布を着せたら浮浪者に見えてもおかしくない状態だ。
二村が納得いかない理由は、一条自身の変化だけではない。
周囲の人間が、友人の三宅さえもが、一条の変貌を見て見ぬふりをしているのだ。
教室の中で、一条のまわりだけ線が引かれているようだった。
ガタ、と音を立てて二村は立ち上がる。
その視線の先に一条がいることに気付いた三宅は、二村の腕を強く掴んだ。
「…んだよ、離せ」
「ニム、やめたほうがいいよ…」
「何でだよ、おかしいだろ。どう見てもあいつ普通じゃねぇ」
「だから、関わらないほうが…」
「お前は心配じゃねぇのかよ!」
突然の二村の怒号に、三宅だけでなく、教室中の誰もがしんと黙り込む。
三宅は今にも泣きそうな顔でありながら、二村の腕を離さない。気は小さいが、体は大きい三宅の手は、二村では簡単に振りほどくことができなかった。
「…し、心配に決まってる」
三宅は絞り出すようなか細い声で、周囲に聞こえないよう呟く。
二村はいらいらしながらも、三宅の手を無理やり振りほどくということはしなかった。
「じゃあ離せよ!それか、お前があいつに話しかけてやれよ」
「それは…」
「できねぇんだろうが、お前は」
三宅の手はブルブルと震えていた。
怖かった。周囲の視線が。自分へ向けられる、奇異や嫌悪の視線が。
三宅は自分が臆病であることを理解していたが、それ以上に、今の一条と関わることの恐ろしさを感じ取っていた。
今一条と関わりを持つことによって、自分たちがどのような目で見られるのか。かつていじめられた経験のある三宅にとって、悪目立ちするという行為は恐怖でしかなかった。
「…ごめん、ニム、僕は…」
「…嫌な言い方しちまった、すまん。お前が俺みてーに考えなしに動けねーことは知ってるよ。でも、友達だろ。見て見ぬふりすんのかよ」
「今、一条くんと関わったら、それこそ僕たちまで…」
「ざっけんなよてめえ!!」
二村が強く三宅に体当たりし、椅子に座っていた三宅は大きな音を立てて床に倒れた。
今度こそ、教室中がしんと静まり、聞こえるのは一条の発する筆記音だけになる。
椅子から転げ落ちた三宅は、泣いているのか、うずくまってふるふると肩を震わせていた。
二村は三宅に一瞥もくれず、ずかずかと一条の席に近づく。
(俺は、仮にも友達って思ってる奴と関わりたくないなんて、絶対思いたくねえ)
相変わらず本をねめつけながら何かを書き留め続ける一条の、机のど真ん中にドン!と二村は手を置いた。
一条の手がぴたりと止まる。
突飛な行動とは裏腹に、二村の顔は切なそうに、いつ涙がこぼれてもおかしくないような表情をしていた。
「…なあ、マジでどうしちまったんだよ。お前最近、ちょっと変だぞ」
「そうかな。俺は変わってないよ」
手は止めたものの視線はノートを見つめたままの一条は、素っ気なく返事をする。
その様子に、二村は眉間のしわをさらに深くし、しかし優しい声色で一条に語りかけた。
「なあ、何か悩んでんなら言えよ。俺じゃ解決できねーかもしれねえけどさ、話すことで少しは…」
「二村は」
突然名前を呼ばれ、二村はほんの少したじろぐ。
一条の視線はいつの間にかまっすぐ二村に向いており、その瞳孔は猫のように大きかった。
「二村は、俺の友達か?」
「な、ば…ばかやろ、そんなの、当たり前だろ…」
突然の問いに戸惑いと少しの照れを感じつつ、二村は素っ気なく答える。
すると一条はにこりと口角を上げ、穏やかな口調で二村に語りかけた。
「じゃあ頼むから、二度と邪魔しないでくれ。周囲で喚き散らすのはしょうがないにしても、こうも直接的に妨げられると、困っちゃうよ」
一条は笑っていた。
その瞳はしっかりと二村をとらえ、離さない。
狂気さえ感じるその表情を見て、二村はその場で固まったまま、指先を動かすことすらできなかった。
「お、俺は、お前を、心配して…」
「ああ、心配はいらないよ。俺、今人生で一番元気かも」
はは、と乾いた笑いを漏らした後、すぐ無表情に戻って一条は本にかじりつく。
目の前にいる友人の変わり果てた姿を見て、二村の強靭な心にズタズタと傷が入っていく。
二村の脳内をちらりとかすめたのは、かつて自分の知らないところでいじめを受けていた、三宅の姿だった。
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