12話 深淵に触れる
公園に着いた時、やはり百瀬さんはぱっと見ただけでは分からない、人の視線をくぐり抜けるような場所に座り込んでいた。
俺の姿を見つけると、笑顔でパタパタと駆け寄ってくる。
「一条くん、お疲れ!最高だよ、作戦大成功だね!」
「お疲れ様。いやほんと、怖いくらい成功したな」
本来なら、今日はとりあえず二人をただ会わせることができれば十分なはずだった。それがあろうことか、当日に二人で買い物をさせるほど急接近させることができたのだ。
色恋沙汰は苦手な部類だが、二人ともお互いの印象が悪くないことくらい、俺にでも分かった。
人の気持ちを敏感に感じ取れる百瀬さんが大成功というのであれば、きっと彼らの関係は上手くいくのだろう。
作戦は成功した。
だって、目の前の百瀬さんは、今まで見たことがないほど嬉しそうに笑っているのだから。
「あー、嬉しい。こんなに素敵なことってないね」
「はは、喜びすぎだろ。そんなに二人がいい感じなのが嬉しいのかよ」
その場で軽くぴょんぴょん跳ねている、子供のような百瀬さんに笑って話しかける。
すると彼女は、やはり子供のような無邪気な笑顔をこちらに向けて、言うのだった。
「当たり前だよ!これでまた一人、私を必要としている人が減ったんだもん!」
「…」
頭から冷や水を浴びせられたような気分だった。
俺は今、六見と七谷の接点を作るという目標を達成できたと思って、喜んでいた。
忘れていた。彼女の最終目標は、二人を交際までこぎつけるキューピッドになることではない。
六見の視界から、高校生活の思い出から、今まさに百瀬晴が消えようとしている。そのことが嬉しくてたまらないのだ。
誰も悲しませずに死ぬなんて、そんな馬鹿な夢に一歩近づいたんだと、本気で思っているんだ。この人は。
「…あれ、何だか顔色が良くないね。ごめんね、私うるさかった?」
「いや…。作戦は成功、したんだな」
「うん!これは大成功と言っていいね」
作戦は成功した。させてしまった。
俺は、百瀬さんの死へ続く道を手伝った。
呆然と立ち尽くしながら、俺は百瀬さんを目で追った。
さすがに跳ねるのは恥ずかしくなったのか、近くのベンチに座って、それでも嬉しそうに足をぱたぱたと揺らしている。
充実感に満ちた、心の底からの笑顔。百瀬さんのそんな顔を、俺は今まで一度も見たことがなかった。
目が離せなかった。俺が今まで見てきたものの中で一番、美しかった。
なぜ?
「あんなのさぁ、もうすぐくっついちゃうよ。ふふ、真面目くんと不良っぽい美人さんの恋愛なんて、漫画みたいね。ぜーんぶ一条くんのおかげだね!」
口を閉じろ。そんな事を思って笑っているわけではないだろうに。
彼女の笑顔から垂れる、どろどろとしたタールのような物体を、俺は改めて認識する。
イタイ、イタイ。クルシイ、タスケテ。
…ついにはそのタールから、幻聴まで聞こえてきやがった。
デキタ、ウマクデキタ。モウスグ、イヤチガウ、マダマダ。マダゼンゼン!シネナイ!!!アアアアアアァアアァアアア
「うるさい!」
突然叫んだ俺に、百瀬さんは肩をびくんと震わせてこちらを見た。
彼女の顔を見て幾分か冷静になり、それでもまだ続く幻聴にイライラしながら、彼女に語りかける。
「まだ、全然だろ」
「え、あの二人はもう何もしなくても…」
「違うよ。百瀬さんの夢。まだ何も解決してないだろ」
そう吐き捨てた俺に、百瀬さんの顔はあからさまにこわばった。
こんなことで、そんなに喜ばなくていいのだ。まだ何も前に進んでいないのだから。
「そ、れは。でももう十分だよ。一条くんにはすごく助けられた」
「うん、良かった。これからも考えていくよ」
「…じゃあ、また誰かが近づきそうになったら…」
「もっと根本的なことを、考えなくちゃだめだろ」
2人の間に沈黙が流れる。
それは普段教室で味わう、少し息苦しくも愛おしい、俺にとって心地の良い時間とは違っていた。
何となくだが、気付いてしまったのだ。
彼女は六見を遠ざけたかっただけではない。これを機に、”一条真一”との繋がりをも切ってしまおうと、そう思っているに違いなかった。
だから百瀬晴は今こんなに喜んでいる。喜ぶふりをしている。俺が百瀬さんを助けられたのだと、勘違いさせるために。
「…根本的って、何?たぶんもう、私の計画はこのまま上手く進められるよ」
「百瀬さんの計画は粗が多すぎる。そりゃ君自身は上手く演じられるかもしれないけど、そんな君さえ好きになったり、友達になりたいと思う人が現れてもおかしくない」
「…一条くんみたいに?」
「…そうだ」
百瀬さんの瞳がどろりと動き、俺の顔に視線を移す。
ああ、その視線。俺が1年間忘れられなかった、恋焦がれ続けたこの目つき。
なぜ死を渇望する彼女の瞳を、俺は愛してしまったんだろうか。
理由なんてないのだろう。絶対に届かないであろう星々に、必死で地上から手を伸ばしている彼女が美しかった、それだけだ。
「だからって、一条くんに何ができるの?私の夢は、私の努力と時間でしか叶えられない」
「そうかもしれない」
「じゃあ、もうやめてよ!」
百瀬さんの悲痛な叫び声が公園に響く。
誰もいない公園で良かった。いや、誰かがいたら彼女は叫ばないだろう。そういう人だ。
「私のことが好きなら、”この”私が好きなら、もう放っておいて!」
「そうするのが、最適解かもしれないな」
「じゃあそうして!もう今日から私たちはただのクラスメイト。何の接点もない、今日たまたまあのショッピング施設で出会っただけの、今後関わることのない2人」
「…うん、それでいいよ」
苦痛に歪んでいた百瀬さんの顔の緊張が解け、安心したようなあどけない表情へと変化していく。
「けど、もし俺が百瀬さんの考える計画よりも、もっと早く百瀬さんを楽にできる方法を思いついたら、伝えてもいい?」
「…そんな方法あるわけない」
「探すよ。俺が一生かけて探す。もちろんその間君には接触しないし、百瀬さんの計画を俺抜きで進めてくれて構わない」
「思いついた時、すでに私が死んでたら?」
疑り深い彼女は、なおも敵意をむき出しにした瞳で俺を睨む。
可愛らしい彼女の質問に、俺は笑って答えた。
「その時はおめでとう、お疲れさまって思って、もう全部忘れるよ」
「…そんなこと、普通の人にできるわけない」
「百瀬さんの計画だって、普通の人じゃあ耐え切れずにいつか破綻するよ。それに百瀬さんはもう一つ、大事なことを見落としている」
彼女の視線は揺らぐことなく俺を射抜いている。
綺麗だ。透明な外面が分厚すぎて何も見えなかった百瀬晴は、少しずつ透け始めていた。
どろどろと流れる彼女の心が、確かに言っている。
コノママジャダメ。タスケテ。
「百瀬さんは果たして、死までの長くて苦しい時間を、大切な人を作らずに過ごせるだろうか。今の青臭い百瀬さんなら、死の魅力に浸りながら高校生活を終えられるだろうけど、社会に出て、本当の一人きりになって、親の死を待つまで君はその孤独を耐えきれるんだろうか」
「……やめて」
「あるいは、他の孤独な人を見つけてしまったら?優しい優しい百瀬さんは、その人の孤独を埋めずして死を…」
バチン!
一瞬目に光が走り、すぐ後に左頬が熱を帯び始めたことに気付く。
目の前には、涙を瞳一杯に溜めて、それでも泣くまいと顔をしかめる百瀬さんがいた。
彼女の右手がぷるぷると震えている。きっと百瀬さんは、初めて人に手を上げたのだろう。
俺はそんな彼女を見て、涙一つ出てこなかった。
やはり百瀬さんも気づいていて、それが怖くてたまらなかったのだ。
自分が夢を、理想の死を完遂するまでに、どれだけの障害があって、どれほどの精神力が必要か分かっているから。自分が耐えきれるのかどうか、不安で仕方ないのだろう。
「俺は本気だから。本気で考えるから。百瀬さんが一秒でも早く、本当の意味で救われる方法を」
「…もう、勝手にして」
ようやく涙がひいたのか、彼女はさっと目をそらし、俺から離れる。
そしてベンチにどさりと座り、心底疲れたとでも言いたげに、ぐったりと背もたれに体を預けた。
俺がその場でぼんやりと空を見上げていると、「座ったら?」と百瀬さんが自分の隣をぺちぺちと叩く。
素直に指示に従って座ると、すっかり元の顔に戻った百瀬さんが、こちらを見てにっと笑った。
「ね、打ち上げ。しよっか」
「打ち上げ?」
怪訝な顔をして彼女を見ると、何がおかしいのか、百瀬さんはあはっと口を大きく開けて笑った。
「こういう作戦とか、プロジェクトっぽいのが終わったら、打ち上げをするものじゃないの?」
「…それって文化祭とか体育祭が終わった後にするやつじゃん」
「大人は何かにつけてやるんだよ~。やれプロジェクトが一山超えたとか、誰かが辞めるから送別会~とかさ。うちのお父さん、文句言いながらいつも参加してる」
そのたびにお母さんもイライラするからやんなっちゃう、と口を尖らせる百瀬さん。
俺は身勝手ながら、目の前の百瀬さんにひどく苛立ちを覚えていた。
どうして、その顔をする。俺に向けてその顔をしないでくれ。
「ねえ、百瀬さん」
「ん?なあにー?」
「俺の前でわざわざ、そんな顔しなくていいよ」
百瀬さんのくるくると変わる小動物のような表情が、笑顔の状態でぴたりと止まる。
「透けて見えちゃうんだよ、もう」
「…は、あは」
壊れた人形のように、からからと乾いた笑い声のようなものが百瀬さんからこぼれ出る。
「ふふ、ははっ」
「…百瀬さん」
「ふふふっ…私のこと、好きなんだ」
「…ああ。好きだよ」
「この私のことが、好きなんだ!好きなんだ!好きなのに!」
あははと笑いながらベンチから立ち上がり、スキップしながら彼女は砂場まで走り、ドスン!と大きな足跡を砂につける。
「私を全部教えて、私の夢も努力も全部知ってるのに、一条くんは私を忘れてくれないんだね…」
「忘れなくても良いだろ」
「何で!?誰かが覚えてたら、私のことが好きな人がいたら、私は死ねないじゃんかあ!」
まるで子どものよう、なんて比喩表現が必要ないくらい、今の百瀬さんはただの子どもだった。
砂場で立ちすくみ、カーディガンの袖をぎゅっと握ってわんわんと泣く、小さな女の子。
夕方に差し掛かり、もう皆帰ってしまったのに、一人公園に取り残された、ひとりぼっちの女の子。
「死んでもいいんだよ」
「どうしてぇ、だって、一条くんが悲しんじゃう、うぅっ…うぐっ」
ぼろぼろと零れ落ちる涙と鼻水を拭くことすら放棄し、百瀬さんはぐちゃぐちゃの顔を晒していた。
分厚い透明なガラスをかち割って、中で渦巻くタールをかき分け、やっと見つけた。
死にたがりの百瀬さん。優しすぎる百瀬さん。
その形は、やっと目で見えるほど小さな、透き通った宝石のようだった。
「俺は悲しまないよ」
「うぞだあ…」
「嘘じゃない。嘘じゃなかったら、今日の作戦に協力するわけないだろ」
「…ひっく」
半分嘘で、半分本当だった。
百瀬さんが死んだ時、”ちっとも悲しまない”ことができるかなんて、正直分からない。
けれど、人として息をしているだけで、存在しているだけで苦しい彼女に、無理に頑張って生きてほしいなんて、思えるわけがなかった。
死にたいならさっさと死ねばいいのに、自分が死んだ後のことまで考えて、『誰一人悲しませずに死ぬ』なんて馬鹿げた理想を掲げて、本気で夢に向かって努力する彼女を、止められるわけもなかった。
だから俺は、悲しまない。彼女の死を、夢を、本気で応援する。
「百瀬さんは欲張りだよ」
「えっ…」
どうしてそんなことを言われるのかわからない、と本気で驚いた顔をしている彼女を見て、俺はつい乾いた笑みをこぼす。
「はは、だって、クラスの皆と仲良くするくせに、どうせ家族にもいい顔してるくせに、誰からも忘れられて死にたいとかさ。何で自分で夢の難易度上げてんの」
「…」
「そもそも誰も、人も動物も何もかも、死に方なんて本来選べないんだよ。それを、死ぬ時期や周囲の人間への影響まで支配したいなんて、やっぱり欲張りすぎるって」
「…初めて言われた」
「そもそも死にたいなんて言ったのも、初めてだろ」
俺が当然のようにそう言うと、はっとしたように百瀬さんは顔を上げ、ふふっと破顔した。
「ほんとだ。忘れてた。あは、私って欲張りなんだ…そっか、そうか」
少し恥ずかしそうに下を向き、百瀬さんは指を絡ませて手悪さをする。
「…ごめん、ちょっと言い過ぎたかも」
「あはは、謝らないでよ。嫌だったんじゃなくて、納得したの」
「納得?」
俺が思わずオウム返しすると、百瀬さんは笑ってうなずいた。
「ずっと、私は最低な人間だって思ってた。死にたいだなんて、人を悲しませることばかり考えてしまう、酷い人間だって。でも同時に、それが私の夢なのに、どうして世界はそれを許してくれないんだろうって不思議な気持ちでいっぱいだった」
百瀬さんはもう、泣いていなかった。ぱっと見ただけでは分からないほど薄く微笑み、ずっと遠くを見つめていた。
「でも、欲張りって言われて納得したよ。私、最低とか善人とかそういうのじゃなくて、ただ自分の理想に、貪欲なだけだったんだね」
「そうかもしれないな。それが一番、しっくりくる」
2人の間に、しばしの沈黙が流れる。
すぅっと息を吸い、大きなため息をついた後、百瀬さんは少し切なげな笑顔でささやいた。
「罪だったらよかったのに」
「何が?」
「自殺も、自殺したいって考えることも。それならちゃんと踏みとどまれたのに」
「何で罪ならやめるんだよ」
純粋な疑問として尋ねたのに、百瀬さんは分かってないなあとでも言いたげに、こちらを優しく睨んだ。
「娘が死んで犯罪者になっちゃったなんて、親が可哀想すぎるでしょ」
「…やっぱりずれてるな。死んだらもう関係ないのに」
「私は死んだとしても、私を愛してくれた人の尊厳は守りたいの」
まっすぐな瞳でそう言い切る百瀬さん。本物の馬鹿なんだろう。
死んだら何も残らないのに、その先の世界すら支配したがるなんて、本当に強欲だ。
「…欲張りだね、本当に。百瀬さんが考えなくていいことまで全部背負って」
「そう、ね」
あまり深く考えずに言ったその言葉は、思いのほか百瀬さんにダメージを与えてしまったのか、彼女は何かをこらえるように下を向く。
しばらく黙り込んだ後、はぁと息を吐き、こちらに向けて可愛らしい笑みを見せた。
「よし!今日は、帰ろっか。打ち上げもなし!」
「そうだな。もう暗くなってきたし」
先ほどまで明るかった空は、いつの間にか真っ赤に染まりつつあった。
「うん。…明日からは」
「2人は何の関わりもない、ただのクラスメイト。だろ?」
言いたかったセリフを奪われたからか、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした百瀬さんは、少しの間をおいてうん、とうなずいた。
「じゃあね、一条くん」
「ああ。…最後まで笑顔なんだな」
ぱたぱたと手を振る百瀬さんには、やはり笑顔が貼りついている。
彼女は誰かの何かを常に満たすために、自分でも気づかぬまま、笑顔をつくり続けているのかもしれない。
自分自身を擦り切らせて、人を気持ちよくさせる。俺はその百瀬さんは、好きではない。けれどそれもまた、彼女が生き抜くための努力なのだ。
「この顔は、もう癖だね」
「似合わないね」
「あはは、初めて言われた」
そう言って、とうとう二人は別れた。
そして俺の運命はこの日を境に、はっきり変わったのだと思う。
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人は社会の中で生きている。
人間社会という枠組みのなかで、必死に自分の居場所を探し、そこにはまるように個の形を変えて生きている。
百瀬さんはその最たる例だ。自分というものをすべて覆い隠し、完全な仮面をかぶって生きている。
そんな彼女の、生き物の生理的な欲求とはかけ離れた『死』という夢を追う姿に、俺は惹かれた。
すべてのしがらみから解き放たれた彼女の、真っ黒で透き通った小さな塊に、俺は魂を売った。
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帰宅後、ただいまも言わず俺は自分の部屋にかけ上がり、部屋中のノートというノートをかき集める。
くだらない案も似たような案も、すべて書き出した。何でもいいから、解決までの引っ掛かりが欲しかった。
その日から俺の脳は百瀬晴で満たされた。
百瀬さんの夢は、彼女を愛する人間がいなくなったら死ぬこと。
そんな百瀬晴の夢の手助けをし、彼女を本当の意味で救う。それが俺の夢なのだと、今日はっきりと理解した。
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