6話 透明に徹する

一条真一くん。

1年生の時から同じクラスで、ある時からたまに視線を感じるようになった。


私は基本的に女子としか話さないが、男子に話しかけられたり会話する必要があれば当然真摯に対応するので、たまに男子から好意の視線を向けられることはあった。

好意を持った男子の対応は様々で、心に秘めておくタイプ、告白するタイプ、告白までに色々な人に相談するタイプと大まかに分けられる。

一番困るのが三番目で、周囲にくっつけられる雰囲気を作られてしまうとそうならざるを得ない。1年の時にどうしても、と後ろに見え見えの友人たちを引っさげて告白してきた3年生と半ば強制的に付き合うこととなり、手を繋ぐことをやんわり断り、家へ行くことをずるずると先延ばしにしていたところで、受験を理由に振られた。

3か月の苦行を、見事に私はやってのけた。これで誰の記憶にも深く留まることなく、けれど何となく「百瀬晴はカタイ女」という雰囲気だけが残って終わる。

こうなればこっちのもので、「百瀬さん、少し気になるけど何もさせてくれないだろうしなぁ」という性欲旺盛な男子高校生の視線をバッサリと切り、恋人の選択肢から百瀬晴を外してもらえるようになる。多分。

男性の心は、異性であるぶん見定めが難しいから、もう少し念入りに観察しつつ様子を見たいところだけど。



…またどうでも良いことを思い出してしまった。1年の時耐え切ったあの3ヶ月は、今掘り返すべきではない黒歴史だ。

そう、一条くん。

先生に説得されて放送部に入っていたが、ちょうど写真部の部室から放送室は丸見えの位置にあった。

ふと放送室をのぞくと、一人暇そうに漫画を読んだりこっそり持ち込んだゲームを楽しんだりしていて、率直に言って羨ましかった。放送部に入ればよかったと思ったくらいだ。もちろん部員は私一人で。

彼のお昼の校内放送は、リクエスト曲と寄せられたメッセージ(ほぼ学校への不満だが)を読むだけの単調なもので、真剣に聞いている人はほとんどいなかったと思う。

まあ昼のラジオなんてそんなものだ、と私も気にしていなかったが、暇つぶしに部室から彼を見続けていると、あることに気づいた。

リクエスト曲を選ぶ際、紙だけ見てすぐ決める日と、すべての曲を1つずつ聴いている日があった。すぐ決めた時の翌日の放送では今流行りの曲が流れていたので、無難なチョイスをしたということだろう。

そして恐らくだが、知らない曲ばかりだった時、一条くんは適当に選ぶのではなく1曲ずつきちんと聴いているようだった。見ているだけなので推測に過ぎないが。

一条くんが選んだ曲の日は、確かに聞いたことはなかったが、少し寂しげで優しい曲が多かったように思う。


私はふと、あの曲を聴きたいと思った。

姉が教えてくれたなかで一番心に刺さった曲。ジョン・フルシアンテの『anne』だ。

お昼に流す陽気な曲ではなかったが、もし彼がこの曲を聴いてくれて、姉の病室だけじゃなく学校でも聴けたらどんな気持ちになるだろうか。


普段なら絶対にしないような行動を、姉が亡くなって初めてした。極力目立ちたくなかった私は、持っていない方が珍しいと思われるようなSNSのアカウントだけ最低限作成し、そこでも自分の何かを発信することは一度もなかった。校内放送へのメッセージなんて以ての外だ。

名前こそ書かなくて良いものの、私書箱に入れる時は誰かに見られていないか本当に緊張した。

別に私書箱に入れる瞬間を見られたってどうも思われないことくらい分かっているが、もし私が紙を投函する前にひったくられ、曲を知られてしまったら。そう思うと本当に恐ろしかった。

「百瀬晴は明るく何も考えてなさそう”だが”、一方でこんな暗い曲を聴いている」

そのギャップが怖かった。何かしらの形で人の心をえぐってしまいそうで、私は透明な私でいたかった。


…すぐに冗長的になってしまうのは悪いくせだ。とにかく私はあの曲をリクエストし、彼がそれを聴いてくれた。

私が私書箱に投函した日、幸か不幸か他のアンケートには流行り曲がなかったようで、彼は一枚一枚アンケート用紙をめくりながら曲を聴いているようだった。

何曲か聞いた後ふいにスマホをいじり出し、慌てて部室を片付けて帰る様子は不思議だったが、彼はその日にジョンのアルバムを買ってくれたようだった。

その次の日『anne』は校内に流れ、やはり人々の耳からすり抜けていき、私の心にだけしっかりと留まってくれた。

アルバムは部室に飾られていて、たまに一条くんはアルバムの歌詞ノートを真剣に眺めていた。その時私は部室に一人でいたから無表情だったけれど、胸に少しだけ温かいものを感じたのを覚えている。その温かみにあてられて、もう一度だけ無意味な手紙を名無しで書いて投函した。


私が曲をリクエストする前から一条くんの視線は感じていたが、その後何の変化もなく、そもそも話すことさえなく1年が過ぎた。

彼は典型的な心に秘めるタイプか、単に私の勘違いということで済ませたはずだった。



けれど、彼は見ていたのだ。

1年生の合唱祭の時、ピアノを習っている人が皆「伴奏はやりたくない」と消極的で、伴奏者が決まらない地獄の空気になる前に、小学生までかろうじてピアノを習っていた私が立候補した。

期待を裏切らないよう必死にピアノを練習し、クラスのみんなも頑張ってくれて、学年で1位を取れた合唱祭。

担任や同級生に喜んでもらえて、親にも祝ってもらって、そこで楽譜の役目は終了した。

私に思い出は必要ない。必要なのは、ずっと先に見える孤独だけだ。

私は放課後一人の教室でぼんやりするのが趣味だったが、大きなストレスを抱えた時、自分の勲章や思い出に”小さな抵抗”をすることで、憂さ晴らしをしていた。

”百瀬晴”が頑張って手にした、周囲の人間の笑顔をつくってくれたもの。結果の良いテストや小さな賞を取れた写真や、1位に輝いた合唱祭の楽譜とか。

その努力を匿名にして、透明なものに昇華するため、私はそれらを粉々にちぎって捨てた。

いや、そんなかっこいい言葉にする必要はない。私はただ日常で溜まったストレスを、ストレスの一部である何かにぶつけたかっただけだ。


私のことを何も知らない一条くんがその様子を見ていた。

明らかに異常な私の姿を見て、1年間誰にも言わず、そしてまた私の元へ現れた。


(『力になりたい』なんて、死にたがりの何を手伝うっていうの)


透明になってそのまま消えたい私がすべきなのは、”透明を徹する”ことだけだ。それは今、嫌と言うほどやっているつもりだ。

だから彼の助けなんていらないと分かり切っているものの、「この私を好きになった」という言葉がひっかかり、ずっと心にもやもやと留まり続けた。

その感覚は日頃の人間関係で生じる疲労とは少しだけ違っているようにも感じて、私は少しだけ動揺している。


(…どうでも良い。とにかく卒業するまで黙っていてくれたら、何でも良い)


卒業したら2年の短大を出たのち、どこか遠方で住み込みの仕事でも探そうと思っていた。そして一人、両親の死を待つのだ。


「…最っ低、ほんと。お姉ちゃんの妹とは思えないね」


口にしてみるとなぜか実感してきて、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。これはバグだ。姉を思い出すと発生する涙腺のバグ。

ああ、消えたい。今すぐにでも消えたい。


あの時のお姉ちゃんのように、何の悔いもないと言い切って死にたい。今すぐ。


ぼたぼたぼたっと顔に雫が落ちる。

これを待っていたから、今日は泣けたのだ。午後の予報は雨、帰り道にびしょ濡れになれば目の赤みは気にならない。

まだだ。まだ私には、孤独も絶望も何もかも足りていないだろうが。


透明を生き切って、みんなの思い出に名前を残さない。

そして愛する家族を全員失って、孤独になって、やっと私は死ぬことを許されるんだ。


さあさあと降る初夏の雨は冷たい。

今日はきちんとお風呂に浸かって、よく眠ろう。

明日、私の体調を誰にも心配させないために。

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