『助ける』ということ
5話 彼女の世界
姉が亡くなった日からずっと、夜が嫌いだ。
ベッドに横たわる私は生きていて、その自分と一人きりで向き合わなくてはいけない時間だから。
ただ、一人の時間はどんな顔もしなくて良いから気楽ではある。好きと嫌い、気楽と苦しみは必ずしも対応していない。
私は夜が気楽で嫌いで、それ以外の時間は全て愛していて、そしてとても重かった。
(ああ、またまどろっこしい事を考えている)
嫌いな夜の時間に、なぜ夜について考えねばならない。思考を止めろ、と頭をごつんと殴ってみた。痛かった。
…生きているから痛い。当たり前のことだ。
当たり前を受け入れられない私がおかしいんだって、分かっている。
(…早く寝なきゃ)
体の重みに集中を向ける。重力でゆっくりとベッドに沈んでいく体。できるだけ深い呼吸を繰り返していると、脳がぼやけてきて、それに伴って体のライン全体もぼやけ、自分と空気の境界線が薄れていくのを感じる。曖昧な意識のみに集中し続けると、いつの間にか私の重力はなくなり、宙に浮かんでいるような感覚に陥る。
ふわふわ揺れているといつの間にか眠っていて、次に目を開ける時は、私の大好きで恐ろしい一日のはじまりだ。
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太陽の光で目を覚ます。朝日がよく入るこの部屋は、「低血圧気味の私」に両親があてがってくれた、南向きの部屋だ。
スマホの充電を確認し、メッセージをチェックしたのち鞄に入れ、制服に着替える。
1階に降りる前にぼんやりとした寝ぼけ顔になり、両親がいるであろうリビングの扉を開ける。
「おはよう、晴」
「ん、はよ」
父親へ短く返事して、戸棚に飾られた姉の写真に向かって挨拶する。ちなみに姉への挨拶は、家族が見ている時しかしない。
彼女が嫌いなわけではなく、単に姉がここにいると思えないだけだ。
感情は脳から生まれ、様々な感情が人の人格を作り上げる。体が死ねば脳も死ぬ、つまり死とは無だ。もう姉はいない、それだけ。
(また朝から余計なことを考えている)
ぐちゃぐちゃとした思考を止めようと試みるも、やはりうまく制御できない。
私の場合脳が感情を生んでいるというより、感情や思考に脳が支配されている気がする。
「あいかわらず朝だけは弱いな」
「んー…」
「あ、晴ちゃんおはよう。朝ごはんちゃんと食べなさいよ」
「食べてるよーぅ」
私は家族のなかで「低血圧気味で朝が弱い」ということになっている。実際は朝日でぱちりと目が醒めるし、朝夕関係なく脳のぐるぐるは止まらない。
朝に弱い顔をしているのは、思考に気を取られて一睡もできなかった時、本当に元気を出せなくてつらそうな顔をしていても、両親は「また低血圧だ」と思って心配しないですむからだ。
うちの家庭はとても一般的だ。
40代後半の父親は普通のサラリーマンで、今日は少し遅めの朝食をとっている。朝の会議やアポイントが多い”繁忙期”とやらではないようだ。
40代半ばの母親は少し前までパートに出ていたが、最近同居している祖父の認知症が進んできて、なるべく家で様子を見ないといけないために辞めた。
父方の祖父は私をよく忘れるくらい病気が進んでいるが、ほぼ寝たきりのため、少なくとも物を壊したり近所を徘徊したりといった症状は今のところない。
元々そこまで体が強くない家系なのだろう、今生きている祖父以外の祖父母はすでに亡くなった。心臓の病気が多かったように思う。
親戚とも疎遠で、一人でも親しい人を増やしたくない私としては都合が良かった。
この家の朝を平穏に過ごすためには、まず父の様子を伺う必要がある。
父がすでにいないか急いでいる場合、一番に注意すべきは母だ。母の邪魔だけは絶対にしてはならない。
母親は、父親の弁当(よく忘れるからこれも注意)と朝ご飯をつくり、私たちの食事とは別に祖父が食べやすいものを毎朝作ってくれている。
そこに父の朝のバタバタが混ざると、我が家の午前6時30分から7時15分(急ぐ父のリミット)は一触即発状態だ。私は父の食べ残しを母が苛立たないように全て胃に詰め込んで(もちろんばれないように)、急いでなくても忘れる父の弁当を持って、父が家を出るギリギリに渡す。着替えや食事の前に渡すと、どこかに置いて結局忘れて行くから、ギリギリというのがポイントだ。
この時に母に見られてはいけない。あくまで父は”急いでいても自分で弁当を持ち、ゴミ出しを忘れない父親”なのだ。それが我が家庭の父親の姿だ。
ちなみに玄関に置かれているゴミ袋の担当は私と父で週ごとに決めているが、守られることはあまりない。父が謝るたび、「思春期の娘のゴミなんか、お父さんが捨てないで」って嫌味を言う。
この時にする思春期特有の表情は本当に気持ち悪いから、あまり思い出したくない。
台風のように父が家を出た後、普段より散らかっていないか部屋をチェックし、自分と父の皿を流しに入れて、母に行ってきますの挨拶をする。
この挨拶のタイミングがとても大切だ。
母は私たちが朝食をとっている間、祖父の食事に付き合っている。祖父が食べそうなタイミングで挨拶して祖父の機嫌を損ねると、母の機嫌も悪くなってしまうため、彼らの動向をよく見て挨拶しなくてはならない。
今日はなかなか苦戦しているようで、なかなか祖父が食べてくれない時は母も諦めて一緒に食事をとり始める。
よし、今だ。
そのタイミングで、ちょうど今母の食事を部屋に持っていこうとしていた、ように見せかけて扉の前で待機する。
「あら、晴ちゃんまだいたの」
「お母さん、おじいちゃんとご飯食べるんでしょ?はい」
「あらやだ、気の利く子ね〜、ありがとう」
ここですかさず言う。
「今月の良い子ポイント追加、お小遣いアップ希望」
「うるさいわねもう、いってらっしゃい」
「えへへ、いってきまーす」
これが私の家庭の朝。どう、普通でしょう?
父の世話はうまく焼きつつ、ちょっと思春期ぶって冷たく当たる(これは高校3年の春にやめる予定)。
母は日々のストレスが家庭内で溜まりがちだから、なるべくそのストレス源をゼロに近づけつつ、気を遣っていることがバレそうになったらおどけてみせる(これは多分最後までやり抜くだろう)。
朝に少し弱くて、頼りない父親をフォローしつつ、神経質気味な母のストレスを避け、その様子を感じさせないほどに楽観的で明るい、ちゃっかり者の百瀬晴だ。…通り名としては長すぎて覚えられないので、今後使うことはないだろう。
ちなみに私の弁当は、母がきちんと年頃の娘と父親の弁当を分けて作っていて、私の弁当がなければもう30分長く眠れることを知ってから、「友人と買う方が楽しいから」とわがままを言って一度も頼んでいない。だから私のお昼は大抵一番安い菓子パンだ。
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朝ごはんを食べて少し元気になった声でいってきますと言い、無表情で家を出る。
大通りの、そろそろ同じ学校の生徒がいてもおかしくない道になるにつれて、少しずつ眉と口角を上げ、目を開いて前を向いて歩くようにする。
…そろそろだ。
「やっほ、晴〜。何あんた、またニヤニヤしてない?」
今日の朝は同じクラスでよく話す、四ツ井香織さんが話しかけてくれた。私は香織ちゃんと呼んでいる。
彼女はバスケ部でスタイルが良く、顔も綺麗め(一重なのが密かなコンプレックスらしい)なので男子人気は高いが、女子には少し怖がられていた。
私が授業でペアになってから少し話すようになると、「私のような”地味め”な女子でも話せる子なのだ」と女子の警戒が解けてきて、一匹狼ぎみだった香織ちゃんも少しずつクラスの女子側に馴染みつつある。
「香織ちゃんおはよ〜!だって晴れてて良い気持ちじゃない?」
「えー、ほんと晴って天然系っていうか、ちょっと頭に花とか飛んでそう」
「飛んでたら摘んどいて〜」
対彼女用の表情をつくりつつ、周囲を軽く見渡す。
すると少し前に、そこまで話すことの多くない五十嵐早希さんと、クラスの中でも運動部の子が集まっている賑やかなグループが見えた。
「五十嵐さん、おはよう」
「あっ、百瀬さん、と、四ツ井さん。おはよう」
「おは〜」
対五十嵐さん用の穏やかだけど少し困っているような雰囲気の顔をつくって、挨拶する。
そして、香織ちゃんに先のグループを指して、ひそひそ声で話しかけた。
「ねぇ香織ちゃん。前にあのバレー部の子と話してみたいって言ってなかったっけ?」
「あ、ほんとだ!ちょっと声かけてくる!」
そう言って香織ちゃんは私たちを置いて、駆け足でそのグループの元へ走っていく。
数秒経った後、ふうと小さくため息をつき、五十嵐さんに少し申し訳なさそうな顔で謝った。
「五十嵐さん、突然挨拶してごめんね。香織ちゃんと二人だと少し緊張しちゃって…」
「ああ、だと思った。四ツ井さんて百瀬さんに絡むわりに、ちょっと扱い雑だよね」
書道部の五十嵐さんは内弁慶だが、慣れた人間にはわりとはっきりと物を言うタイプだ。
クラス内では数名の文化部の友人とつるみ、放課後は部室へ飛んでいく。人数の少なく全員おとなしめの女子で構成された部活は、居心地が良いのだろう。
「香織ちゃんは物言いはきつめだけど、面白いよー」
「そうかな…。百瀬さんってちょっとお人好しなんじゃない?」
そう言って同情的な目で私を見る五十嵐さんは、百瀬晴を上位グループに媚び気味の少し可哀想な子、と思っている。
そのくらいがちょうどいい。対等に見えても媚びすぎて見えても、ぎりぎりで保たれているバランスが崩れてしまうから。
「私なんてそんなだよー。五十嵐さんの方が、部活もちゃんとして勉強もしてて尊敬する!」
「いや、別に…」
彼女のツボは『部活』だ。そのツボをふわりと軽く押すだけで、相手は認められたと理解して少し上機嫌になる。
人間関係において相手の地雷を知っておくことはもちろんだが、ツボを押さえておくことも、長い高校生活を乗り切るには結構大切だ。
「あ、ごめん!私今日部室に寄らなきゃ…。じゃあまた教室で!ありがとねー」
「うん、いってらっしゃい」
五十嵐さんは朝一人で登校したい派に見える(常にイヤホンをつけて校門付近まで手元のスマホから目を離さないから)ので、適当な理由をつけて長居せず去る。
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何の用事もない部室でカメラを無意味に数分いじった後、教室に向かう。
おはよう、おはようと声をかけながら席に座り、今日の時間割を考えながら誰と行動するか、はたまた一人で問題ないかシミュレーションする。
数学のノートを開いて考えるふりをしつつ物思いにふけっていると、背中にトンと軽い感触が当たった。
振り返ると、後ろの席の六見幸子さんがノートで私の背中を叩いたようだった。
六見さんは香織ちゃんとは少し違うタイプの一匹狼で、本当に群れない。校則違反の茶髪がトレードマークの、一貫して部活に入らず新学期早々先生を困らせた問題児だ。
授業は寝ていることが多いし、放課後は一目散に学校を出てしまうため、謎が多い人物。他学生と交流しているか、バイトしているかどちらかだな、と興味本位で放課後あとをつけたところ、正解は後者だった。
たまたま会ったふりをしてバイト先のコンビニに入り、少しずつ話すようになると、彼女は父子家庭の、少し貧乏だけど服好きのただの可愛い女の子だということが判明した。
「パパに申し訳ないからお小遣いは増やしたくないけど、服は欲しいからこっそりバイトしてる。内緒にして、お願い」と頼まれた(うちの学校はバイト禁止だ)時に、「じゃああんまり後ろで寝ないで、面白くて笑っちゃうから」と返してからは学校でもたまに話してくれるようになった。
「これ昨日の数学のやつ。まじ助かったわ、さんきゅ」
「いーえー、お返しはまたお店で…」
「ちょ、ばか言うな。バレたらどうすんの」
顔を赤らめて人差し指を口につける六見さんは、率直に言って可愛かった。
むしろ私は生徒にだけこの六見さんがバレたら良いと思っている。そうすればみんな彼女の可愛い一面を知れるし、六見さんはノートを借りられる相手が増える。
私がいなくて良い世界に、また少し近づける。
予鈴が鳴って、授業が始まる。英語の時間にはたまにうたたねをして、英語の得意な女の子にお菓子を持っておどけて頭を下げにいく。
少し間抜けで何も考えてなさそうな、誰とでも仲良くできる百瀬晴だ。これはあんまり面白くないから、通り名としては使いたくない。
家庭と学校。この二つが私の人間関係の主軸で、愛すべき気の重い時間だ。
私は今日登場した人だけでなく、私の毎日に登場してくれる人たちをとても愛おしく思っている。みんな自分の心を持っていて、強さや弱さがありながら一生懸命生きている。何て美しいんだろう。
その美しい世界に、私は必要なかった。自分の人生を必死に生きる彼らを、一瞬たりとも邪魔したくなかった。
幸い私は、観察眼に優れている方の人間だったと思う(断言できないのは、どれだけ観察して想像したところでその人の頭を割って正解を見ることはできないから)。
だから人をよく見て、誰がどのようにしたら怒り喜び悲しみ笑うのか考え、その時々にあった正しい(と自分が思い込んでいる)顔をつけて真摯に対応した。
その時間を愛していた。そして一刻も早く、終わらせたかった。
それだけだったのに。
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