4話 女の独白、男の決意
「私を愛している人が誰もいなくなったら、死ぬの」
確かにそう口にした百瀬さんの表情は、呼吸を忘れるほど緊張している俺とは対照的に、とても穏やかだった。
16歳の当時祖父母ともに健在だった俺にとって、「死」という言葉は非現実そのものだった。正確に言えば、小学生の時に縁日ですくった金魚の死を見たことはあったが、百瀬さんが「死」という単語を口にした際、名前をつけて可愛がっていたはずの金魚の死は脳裏によぎりさえしなかった。人と他の生物の間に「死」の違いはないはずだが、とにかくその時の俺にとって、身近な人間の「死」は考えることすら罪悪感を覚えるような、とても遠い存在にあった。
死ぬ、とは。比喩的な表現なのか、直接的な意味か。
ぐるぐると頭の中で「死」について考えながら、俺はその場の静寂をどうにかすべく、何とか言葉を絞り出した。
「それは…どういう意味で」
「ごめん、少し抽象的な言い方だったね。もっと具体的に言うと、私は私を愛する人ー…つまり私の家族がみんな死んだら、死ぬ。社会的にとか隠居するとかじゃなくて、体を殺すの」
「それって…」
「えぇっと、あまりこの言葉は好きじゃないんだけど、つまりは自殺する」
淡々と説明口調で喋る百瀬さんの表情はいつもと変わらず、むしろ少し上機嫌なようにも見えた。
この話し方、どこかで聞いたことがある気がする。何だっけ、どこで聞いたっけ…。
「ちょっと、一条くん。聞いてる?」
「あ、ああ。聞いてるよ」
そうだ、思い出した。中学の卒業記念に行った、家族旅行の時の母親の話し方にそっくりなんだ。
事前に母がはりきって作成した旅行プランのメモを見ながら、「何時には〇〇に着いて、お昼を食べて、そこから宿へ…ちょっとお父さん、聞いてるの?」と、生返事をする父親の肩を揺する母親は、口調こそ少し怒っていたが、いつになく楽しそうに見えた。
百瀬さんにとっての「死」は、俺の母親にとっての「家族旅行」と同じくらい現実的に楽しみにしていることだと、その時は分からなかった。いや、正確に言うと、そんな風に思いたくなかった。
とにかくその時の俺にとって、死ぬ、ましてや自殺なんて、とても非現実なものだったのだ。
「死ぬ、って、どうして…」
何のひねりもない、小学生でも言えるであろう言葉しか出てこない。
冗談言うなと笑って見せたり、何か悩みがあるのかと相手を思いやったり、そういう類の元気は残っていなかった。
嬉しそうだった百瀬さんの顔色は少し憂いを帯び、何かを耐えるようにきゅっと口の端を結んだ。
「えっと…あまり同情的にならずに聞いてほしいんだけどね、私の家族は父と母と祖父と私の四人なんだけど、数年前までは姉もいたの」
「数年前まで、ってことは」
「うん、亡くなった。15歳だったかな、病気で。生まれつき心臓が弱かったらしくて、元々20歳まで生きられないってお医者さんから言われてたそうだから、みんな覚悟してたことなんだけどね」
百瀬さんの視線はみるみると下へ向き、口元は笑っていても瞳は今にも泣きそうで、眉間にぐっと力が入っていた。
その顔を見るだけで俺もつられて泣きそうになったが、同情しないでと言われた手前自分が泣くわけにはいかないと、ぐっと歯を食いしばった。
「姉は体は弱かったけど優しくて、何より強くてかっこよかった。調子が良い時は勝手に電車で遠くへ行っちゃって怒られてたし、どうせ20まで生きられないんだから飲ませろ!ってお酒を飲もうとして、お母さんに泣きながら取り上げられてた。その日の夜中にこっそり私を起こして、二人でちょびっとだけ飲んだんだけどね」
まずかったなぁ、とくすくす笑う百瀬さんの目は遠くを見ていた。
「私がリクエストした曲も、姉が聴かせてくれたの。姉はジョン・フルシアンテが好きってよりも洋楽ロック全般が好きだったんだけど…ごめん、今はそんな事どうでもいいね。とにかく、姉は強くてたくましくて優しくて、家族にも友人にも、病院内の人にも愛される人だった。病気が進行していって症状や副作用もひどくなって、泣いたり怒ったりすることも増えたけど、最期は『好きな場所で、好きな音楽を聴きながら、大好きな家族に看取られて、私幸せだった。もう悔いはない』って言ったの」
そう言い終えた瞬間、百瀬さんの顔から表情がすっと抜けた。
去年の秋、そして先週見たばかりの、あの無表情だった。
「姉がそう言って死んだ瞬間、生まれて初めて嫉妬した。
私ね、妬ましいとか羨ましいって感情が、昔からよく分からなかったの。私より美人な子も頭が良い子も、もちろん姉の強さや優しさも、長所というよりはその人の特徴ってだけで、羨む事じゃないと思ってた。みんなそれぞれの辛さや楽しみがあって、その重さを比較することは私には難しかったから。
でも、姉が死んだ時だけは違った。心の底から羨ましい、って思った。こんなに幸せそうに死ぬなんてずるい、こんなに早く死んでしまうなんてずるいって、私、思っちゃったの」
ひどい妹でしょう、と痛々しく微笑む百瀬さんに、俺は何の言葉もかけられず、ただ首を横に振った。
「でもその時はっきりわかった。私、生きるのがすごくつらいんだって。何か理由があるわけじゃないのに、ただ立って人と接して社会の中で過ごしているだけで、気が狂いそうなの。1秒でも早くこの場から消えてなくなることが私の希望なんだって、姉が亡くなって嫉妬して、初めて理解した。
お金とか能力を羨ましがらないのは、無欲なんじゃなくて、ただ興味がなかっただけ。私は死にたくて、その欲に忠実で、ちゃんと人を羨む人間だった」
彼女の顔が暗くなっていく。感情的な暗さではなく、物理的に光が消えていっている。そこで初めて、教室の電気が点いていないことに気づいた。
もうすぐ日が暮れる。
「でもそれと同時に、姉のようには死なないって決めたの。姉が亡くなった日、たくさんの人が悲しんだ。親も友人も、姉を愛していた人がみんな絶望して泣いていた。…もちろん、私も。愛する人が、家族が死ぬ、それがどれだけ人に痛みを与えるか知った。
もし私が死んじゃったら、きっと両親はまた絶望を味わう。だから、私が死ぬのは、私が死んで悲しむ人がいなくなってからって決めたの。
私はただの死にたがりだけど、人にできるだけ迷惑をかけずに自分の夢を叶えられるように、私なりに考えた結果が、これです」
「ああ、言っちゃった!」と高めの声で笑いつつ、彼女は恥ずかしげに手で顔を覆った。
彼女の独白に近い身の上話は、俺の心にずっしりと重くのしかかる。いや、今俺が感じている重みなんて比じゃないくらい、彼女にとって今の話は大切にしまっていた隠し事だったのだろう。
俺が何も言えないまま、しかしどうにか相槌を打とうと口をぱくぱくさせていると、百瀬さんは少し申し訳なさそうにこちらを見て話し出した。
「ごめん、本当にそんなに重く捉えないで。家族が死んだら私も死ぬとは言ったけど、まだ両親は元気だし、私も家族を愛してる。まだまだ死ねませんぞ〜」
「…と、友達は?恋人とかもさ。その人たちがみんな死ぬまで待つってこと?」
俺が何も考えずに発した言葉で、百瀬さんの軽口はピタリと止んだ。
「私に友達っているかな?」
「え、いや、めちゃくちゃいるだろ…。ていうかクラスの女子で百瀬さんと仲良くない人なんていない、」
そこまで言って、ハッとした。
百瀬さんはいつも誰かと楽しそうに話している。その”誰か”を、俺ははっきりと思い浮かべることができなかった。
「そうだね、私はみんなと仲が良いと思う。なるべく平等に、誰にとっても善良な人間でいるよう心がけているつもりだから。
それってね、良くも悪くも記憶に残らないのよ。毒にも薬にもならない人間は、クラスが離れたり卒業したら忘れちゃう。もし死んでも、まあ少しドキリとはするでしょうし、何人か驚いて泣くでしょうけど、それだけの事。
そんな無害な存在でい続ければ、これ以上私を愛してくれる人を増やさずに済む」
百瀬さんはみんなに好かれている。彼女がいて空気が淀むシーンは、想像すらできない。
ただ、どこにも属さず濁ってもいない彼女は教室の風景の一部で、なくなっても数人しか気づかなかった、教室の隅に置かれていた造花のようだった。
いつから置かれ、いつなくなったかも分からないあの花は、誰が置き、取り除いたのだろうか。
「一条くんは私のこと、黒いって言ったね」
「あぁ、ごめん。嫌な意味じゃなくて…」
「良いの、どんな風に思われても。でもね、私は黒くも白くもなりたくなかった。透明になりたかった」
透明。今まさに考えていた造花のイメージとぴったり重なった。
百瀬さんは透明なのだ。空気や水と同じように、そこにあるのに、ないのと同じくらい透き通っている。
透明で分厚い表皮で覆われた中身が、今俺の前にどろりと流れ出している。
「だからあなたに見られたのは本当に誤算だった。あんな事するんじゃなかった、また夢が遠のいたって、この土日は絶望してたのよ」
「…すいません」
「ふふ、ごめん、嫌な言い方しちゃった。でも今は少し安心してる。一条くんがちゃんと約束してくれたの、信じてるから」
ありがとうと言って百瀬さんが笑うと同時に、下校時刻30分前を告げるチャイムが鳴った。
「あらら、もうそんな時間か…。ごめんね、本当に長話になっちゃった」
「いや、全然。暇だし」
「いやいや、一条くんの大切なムーンウォークの練習時間を奪ってしまいました」
「おい!」
俺が照れ隠しに少しきつめに声を荒げると、百瀬さんはきゃっきゃと嬉しそうに笑った。
いつも教室で見る、楽しそうで何も考えていなさそうな、普通の女の子の顔をしていた。
「さて、本当に帰らなくちゃ。また明日、一条くん」
「あ…」
この時の俺は、あまりの非日常さ加減にどうかしていたのだと思う。
帰ろうと鞄を持った百瀬さんの腕を掴もうとして、すんでのところで思いとどまった。
「…この手は何でしょう」
「あ、ごめ、分からない。何か出てた」
慌てて手を引っ込めた後、百瀬さんをまっすぐに見た。
いつもより少しだけ大人びて見えたが、やはりもういつもの”百瀬晴”だった。
金曜日もそうだったが、俺がこれ以上踏み込まなければ、彼女からこちらにあの顔を見せてくれることはもうないだろう。
それがひどく寂しかった。
「あの、俺…何か力になれないかな」
「え?」
「いや、何の考えもないんだけど、少しでも百瀬さんの力になりたくて…」
具体性に欠け過ぎている俺の提案に、百瀬さんは困ったように笑う。
「ありがとう。でもね、もう夢は決まってるし、死ぬのをやめるつもりはないよ」
「それは分かってるよ。だって俺が好きなのはその百瀬さんだし」
するりと口に出して後ものすごく恥ずかしくなり、すぐに俺は目をそらしてしまった。
だから俺の言葉を聞いて一瞬目を見開いた百瀬さんに、気づくことができなかった。
「いや、まあそれは置いといて…。とにかく、百瀬さんは生きるのがつらいんだろ?でも死ぬまでは時間がかかると」
「…そうだね」
「死ぬって決めたんなら俺に止める権利はないけど、せめて死ぬまでの間少しでも百瀬さんのつらさを軽くできないか考えたくて…だめかな」
「…」
黙り込んでしまった百瀬さんに、やはり踏み込み過ぎたかと自省し始めた時だった。
「たぶん考えてくれても変わらないと思うけど、それでも良いの?」
「もっ、もちろん!ていうか変わらなくて当然というか、俺の浅い脳で考えられる案なんてたかが知れてるというか…」
思わず早口になる俺の腕を、百瀬さんが掴んだ。
恥ずかしさや嬉しさよりも驚きが勝って、俺はびくんと肩を揺らし後ろにのけぞる。
「一条くんの『浅い脳』とやらに、もう私はいるんだよ。透明じゃない、愚かで最低で汚い私。これ、あげる」
「え、あ………って、これ盗撮じゃねぇか!!!」
百瀬さんが俺の手に握らせたのは、俺が部室で披露(?)している一人遊びの写真。
これは何をしている時だ…?よく覚えていないがなぜか半裸で腕立て伏せをしているように見える。くそ、服を脱ぐならカーテンくらい閉めろよ、俺!
写真を食い入るように見ていると、ガラガラと扉の音がして心臓が跳ねた。
慌てて振り返るとその音は百瀬さんが立ち去る音で、俺はまた一人教室に取り残された。
「…死ぬのが夢、か」
正確には「自分を愛する人が全員いなくなってから死ぬ」。
家族や自分の死について深く考えたことがなかった俺にとって、今日の百瀬さんの話は1日やそこらでかみ砕けるものではなさそうだ。
そんな彼女の苦しみを軽減するアイデアなんて正直考えつく自信が全くないが、言ってしまったからにはやらざるを得ない。
それが今あの百瀬さんと話せる、唯一のつながりだから。
一つだけ、大きな懸念があった。俺が百瀬さんを好きだということだ。
今の時点では彼女にとって、俺は「私を愛する人」の枠に入っていないのだろう。確かに俺の淡い恋は卒業と同時に風化し始め、歳を重ねるごとに思い出すことすらなくなっていく。
しかし俺は確信していた。これ以上あの百瀬さんと関わり続けると、いつか俺の頭は百瀬さんでいっぱいになる。人の機微に敏感な彼女はその想いをすぐに読み取り、「自分を愛する人」が増えてしまったと悲しんでしまうかも知れない。
俺は百瀬さんを愛してはいけないのだろうか。
「…違うだろ。俺が好きになったのは…」
そうだ。俺は透明な百瀬晴ではなく、生きるのがつらいくせに、真っ黒な気持ちを必死に押し込んでいる彼女を好きになった。
その百瀬さんが死を望むのなら、その死すら受け入れて愛したら良い。そう考え直した。
「あ!また一条くん残ってるー!」
耳なじみのある低く優しい声が教室に響く。
振り返ると、今度こそ部活終わりの連中が戻り始めていた。
その先頭に三宅と二村がいて、三宅は心配そうに俺に駆け寄ってくる。
(こいつらは俺の友達だ。俺がここで突っ立ってるだけで心配するくらい、お節介で優しい友達)
百瀬さんにそういう人はいないのだろうか。いや、そもそも彼女は人に心配をかけることすらしないのかもしれない。
自分がまだ未熟であるという悔しさと、三宅と二村への何か熱い思いが込み上げ、思わず三宅の腹に優しくビンタをかましてやった。
「いたっ!ちょっと、お腹の脂肪にも痛覚ってあるからね?!」
そう言って俺を優しく叩き返す三宅。笑う二村。
『死にたい。』
あたたかな友情の合間を縫って、温度のない声が脳に響く。
「…こういうことか。頭の中にいるって」
「あ?何か言ったか」
「いや、何もねぇよ。二村、三宅、コンビニ寄って何か食わね?」
俺はいつも通りを過ごす。そのなかで、百瀬さんの夢までの道のりのつらさを、少しでも和らげる努力をする。
そう心に決めた瞬間、俺の人生の路線は明確に変わり、『普通』からどんどん遠ざかっていくことを、この時の俺はまだ知らない。
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