3話 受容

気づくと月曜日になっていた。百瀬さんと初めて話した、あの金曜日の強烈な放課後から記憶がぼんやりとしている。

いつも通り始業ぎりぎりに教室に着くと、数少ない友人の二人がなぜか俺の席でたむろしていた。


「おっ、来た。今日もぎりぎりかよ」

「いつもこんな時間だろ。俺の席で何してんの、先生来るぞ」


はいジャマジャマと友人をどかしつつ、ドサリと机に鞄を置く。

妙に視線を感じて顔を上げると、少し神妙な面持ちをした友人二人と目が合った。


「え…な、何?寝癖ついてる?」

「いや、ついてねぇ」

「じゃあそんな見るなよ…」


そわそわしながら席に着くと、友人の一人である二村が、隣にいる三宅の大きな腹をぽんと叩いた。


「んだよ、超普通じゃん。心配して損した」


二村が大げさにため息をつくなか、三宅は巨体に似合わないつぶらな瞳で、俺を心配そうに見つめている。


「だって一条くん、金曜から少し変な気がして。土日に連絡しても、生返事しか返ってこないし…」

「え、そ、そうか?別に普通だよ」

「だってよ、三宅。一条のことだから、どうせ休みの間もゴロゴロしてたんだろうぜ」


朝からゲラゲラと下品な笑い声をあげる二村と、180cmを超える大柄な体とは対照的に繊細な心を合わせ持つ三宅。性格が正反対でも気が合うらしく、小学校からの腐れ縁だそうだ。


2年に上がって友人とクラスが離れてしまった俺に、最初に話しかけてくれたのが二村だった。

横柄な態度と口の悪さはまさに田舎のヤンキーそのもので、俺の苦手なタイプの人間だと最初こそ警戒していたが、面倒見が良く誰にでも態度を変えず接する二村は特に男受けが良く、俺もすぐ仲良くなった。

それと同時に三宅とも話すようになったが、話せば話すほどこいつらは似ていないと実感した。特に三宅は、鈍感で人の顔色を見ない二村と違って、優しくて人の気持ちを慮れる反面、妙に鋭いところがあった。


「普通なら良いんだけど…。金曜、僕たちが部活から帰ってきた時、教室に一人で思いつめたような顔して立ってたからさ…」

「んっ…そ、そうだったっけ」


二人は種目は違うが、同じ陸上部だ。たしかに先週の金曜日、教室で呆然と突っ立っていた俺を見て、部活帰りの三宅がひどく心配していた気がする。二村は特に気にしていなかったようだが。

ぼんやりし過ぎていて記憶があまりないのが痛い。俺はあの時何と言って二人を振り切って帰ったのだろうか。

おろおろする三宅と必死に記憶を遡っている俺の肩を、二村がぐいっと掴んで引き寄せる。


「おいおい三宅、あんまり詮索してやるなって。男子高校生がひとり、誰もいない放課後の教室ですることなんて決まってんだろ?」


声を落として喋る二村の様子に、俺の心臓は急にドクンドクンと脈打ち始める。

まさか、百瀬さんとの会話が聞かれて…


「な、一条。…誰の席でオナってたん?」


二村に強めのグーパンを放つとともに、ホームルームの予鈴が鳴る。

顔を真っ赤にして慌てている三宅と、冗談だってと笑う二村を追い払っていると、斜め後ろから視線を感じた。

恐る恐る振り返ると、百瀬さんと一瞬だけ目が合う。俺と目が合ったことなんて気にしていないといったすまし顔で机を片付け始める百瀬さんに戸惑いつつ、俺も何事もなかったかのように前を向き、いつも通りの1日が始まった。


---


普段と変わらないまま1日を過ごし終え、放課後が始まる。

クラスメイトに挨拶しながら教室を出た瞬間、俺は早足で部室へと向かった。

私書箱の中身を回収して次の日の原稿を作る、というルーティーンをいつもの倍の速度で終えると、今まですごい速さで動いていた手と足がぴたりと止まった。


教室に行くのか?


心の底から聞こえた自問に、俺の弱い部分がびくりと震える。

本能のままに急いで部活動を終えてしまったが、俺は教室へ行くべきなのだろうか。今日いるか分からない、いたとして何を話せば良いかも分からない百瀬さんと会って、何がしたいのか。

怖い。うまく声をかけられずに失望されることも、誰かに見られてひやかされることも、百瀬さん自身も。

恐怖が俺の足を止めていた。



『死にたい。』



冷え切っているのに、グラグラと煮詰まったマグマのようでもある、ひどく不安定な声だった。この二日間、彼女のあの声が頭から離れなかった。

「死にたい」なんてよくある話だ、なんて言ったら怒られるんだろうが、思春期の子供は誰だって一度や二度は死にたいくらい恥ずかしいことや辛いことがある。俺にも当然ある。(先日百瀬さんに部室の様子を見られていたと知った瞬間が、目下一番死にたかった)

だが、彼女の言葉は強烈な引力を持っていた。俺の「死にたい」を軽く凌駕する、圧倒的な重さを感じた。


「…行かない選択肢なんて、ないだろ」


覚悟を口にすると、案外簡単に体は動き始める。荷物を整理し、部室を施錠して職員室に鍵を返しにいく。


そして俺は教室へ向かった。昨日よりも1時間以上早く、まだ空は青色だった。


たどり着いた教室をそっと覗くと、昨日と同じく百瀬さんがひとり自分の席についていた。昨日と違うのは、彼女が比較的明るい表情で、小柄な体に似合わないごついカメラをいじっているところだった。

控えめに教室の戸を開けると、百瀬さんはきょとんとした顔で振り返る。そしてすぐ、朗らかな笑顔へ切り替わる。


「グッドタイミング、一条くん!さっきちょうど部長が来てたから、あと10分早かったら鉢合わせするところだったよ」

「部長…?」


いつもと変わらない百瀬さんの笑顔に動揺しつつ、俺は彼女の席から少し離れた自分の席へ座る。


「部長は部長だよ、私の部長。…一条くんって私の部活知ってる?」

「…知りません、すいません」

「あはは、友達以外の部活なんて知らないよね。私は写真部です!」


じゃん!と誇らしげに立派なカメラを見せびらかされ、ハハ、とつい愛想笑いを漏らす。


「何で来たの?」


教室の空気が一気に凍りつく。

大きなカメラから少しだけのぞいている百瀬さんの目は笑っていなかった。


「…何でいるんだよ」


冷ややかな声に対抗したつもりで絞り出した言葉は、自分でも驚くほど弱々しくか細い声となった。

恐怖を必死で隠そうとする俺に対して、百瀬さんは余裕たっぷりといった表情でにこりと微笑んだ。


「私、誰もいない教室を撮るのが好きなの。だから放課後はいつもどこかの教室にいるよ」

「へぇ…」


趣味悪いな、と喉元まで出かかった声を飲み込み、適当な相槌をうつ。


「っていう、ていにしてる」

「てい?」

「私が放課後ひとりで教室にいてもおかしくない理由になるでしょ」


百瀬さんは大事そうにカメラを机に置き、優しい手つきでそれを撫でる。


「生徒が自分の教室にいるのに理由なんかいらないだろ」

「でもこの前、見たでしょう」


百瀬さんの視線がカメラから俺に移る。その瞳は真っ黒だった。

少し落ち着いていた鼓動がまたドクドクと速くなり、俺は思わず心臓のあたりを押さえた。

そんな俺を見て何を思ったのか、百瀬さんはくすくすと笑った後、話を続けた。


「言わなかったんだね、私のこと」

「…言えるかよ」

「そしてまたここに来たんだね、一条くんは」


百瀬さんが何を考えているのか、会話や表情から全く読み取れない。一人の教室にズカズカ入り込んだ俺を鬱陶しがっているのか、単にからかって遊んでいるだけなのか。

…それとも、何か人には言えないことを抱えていて、吐き出すのにふさわしい相手を探しているのか。


「何か悩んでるなら、話して楽になることなら聞くし、そうじゃないなら聞かない、けど」


やっとの事で口に出せたのは当たり障りのないごく普通の声かけだったが、今の俺ではこれ以上の言葉が思いつかない。

百瀬さんからの返答はなかった。数秒の無言にも耐えきれず、思わず言葉を続けようとした瞬間、百瀬さんの小さな口が開いた。


「人の口に戸は立てられぬ」

「…え?」

「ことわざ。他人の噂話は止められないってこと」

「いや、意味を聞いてるんじゃなくて…」


いまいち話の流れを掴めていない俺を気にもとめず、百瀬さんはぼんやりと遠くを見るような目で話を続けた。


「私が一度口にしてしまったら、それはもう私だけのものじゃなくなるの。私が発した言葉で、みんなが信じてくれている、元気で明るくて優しい”百瀬晴”に傷がつくの」

「だから、無理に言わなくて良いって」

「もう言っちゃったじゃない、金曜日」

「…」


確かに俺は、みんなが知っている”百瀬晴”ではない面を見て、耳にした。ようやく百瀬さんが何を言いたいか、少しだけ見えてきた。

要は俺が思っている以上に、彼女は自分自身の黒い部分を隠したがっているということだろう。


「確かに俺が誰かに言わないって保証はないし、今まで話したこともない奴なんて信じられないだろうけど、本当に俺は」

「信じるとか信じないとか、そういう次元の話じゃないのよ」


俺の話をぶった切った百瀬さんの声色は、先程までの冷たい印象とは違って、どこか怒っているようにも聞こえた。


「今ね、一条くんはもしかしたら私のことが怖いかもしれない」

「…」

「良いわ、私、変だもの。おかしいもの。でもね、一条くんよりずっと、私の方が今怖いの」


まくし立てるように言葉を吐ききった後、百瀬さんは自身の体をぎゅうと抱きしめてガタガタと震え出した。まるで口にした言葉に体が反応したように、『怖がっている』ということが目に見えて分かった。

俺が慌てて立ち上がり近づこうとすると、「大丈夫」と百瀬さんに制され、中途半端な位置で立ち尽くすことになる。


「あなたが私の話を聞いたら、あなたの記憶の一部は私になる。社会で認められている”百瀬晴”じゃない、変でおかしい私になる。その”おかしい私”が社会に漏れ出す可能性の恐怖に耐えられない」

「……話したら1億払うとか、誓約書つくる?」

「あは、あはは。一条くんって変な人。あ、今の『変』は面白いってことよ」


体を抱きしめたまま笑う百瀬さんは確かに、何かにひどく怯えているように見えた。

ひとしきり一人で笑った後、百瀬さんはゆっくりと顔を上げ、俺の目をはっきりと見た。


「一条くんは、私を、認められている私じゃない”変でおかしい私”を、一生あなたの頭に閉じ込める覚悟をしてくれる?」

「…ごめん、俺あんまり頭良くないから、もう少しわかりやすく言ってくれ」


正直にそう伝えると、きつく握られていた百瀬さんの手の力が抜け、ぱたんと机の上に落ちた。その顔はいつか見た、感情がごっそり抜け落ちたような無表情だった。


「私が部室でさぼってる一条くんのことを、一生誰にも言わない。おくびにも出さない。それと同じってだけよ」


記憶を消せとか改ざんしろとか無茶なことを言われると恐れていた俺は、何だそんな事かと安堵してしまった。ふうと小さくため息をついた後、できるだけ相手に威圧感を与えないような笑顔を作りつつ、話した。


「言えるかってさっき言ったろ。話す相手がいないし、話したくもない」


好きな人の好きな部分を俺だけが知っているという優越感に浸れるから、という正直な気持ちは口にしなかった。言葉にせずとも、可愛らしく少し間抜けそうな顔をしているくせに恐ろしく洞察力の高い彼女なら、そんな俺のカッコ悪い理由も見抜いているだろうと思ったからだ。


俺の言葉を聞いて、百瀬さんはまた微笑んだ。洞察力の低い俺はその表情を見ても、彼女が信じてくれたのかどうか全くわからなかった。


「…ありがとう、一条くん。あなたの頭の中にある私は、私とあなただけのものだから」

「お、おう」


”私とあなただけのもの”。

その甘美な響きにうろたえていると、百瀬さんがトントンと彼女の隣の席を叩いた。


「もし一条くんに時間があれば、もう少しだけ話を聞いてくれる?」

「いつも部室見てたなら知ってるだろ、放課後は大体暇だよ」

「ふふ、そうね。少し長くなってしまうかもしれないけど、ごめんなさいね…」


そう言って微笑む百瀬さんはひどく大人びていたが、椅子から投げ出された足は小さな子供のようにぶらぶらと揺れていて落ち着きがない。

その足をひょいとまたぎ、言われた通り彼女の隣の席に座る。

百瀬さんは俺と目を合わせずに少し下を向いたまま、小さな声で話し出した。


「この前の紙、塾の模試っていうのは本当なの」

「あ、そうなんだ…」

「1位だった。数十人いる同じ塾の生徒の中でってだけだけど。塾の友達にはひどい点数だって嘘ついて、親には1位取れたよって嬉しそうに報告して、役目が終わったから捨てただけ」

「…あんなに粉々に破って捨ててたのは?」

「…私なりの抵抗。こんなものに意味がないって分かっているけど、私には今の状況をどうすることもできないから、精一杯の小さな抵抗よ」


百瀬さんの話と、目の前でぶらぶらと揺れている彼女の足で、頭がいっぱいになる。

金曜日の、あのぐらついた一瞬と似ていた。この百瀬さんと話していると、どうにも彼女以外の全てが見えなくなる。


「どうして、そんなことしてるの」


黙ってしまった百瀬さんにそう尋ねると、下を向いていた彼女の顔が上がり、ぱちりと目が合った。


「私ね、夢があるの。まだ全然叶いそうもなくて、気が遠くなっちゃうんだけどね」


かっ、と教室に光が差し込んだ。日が暮れてきたのだ。

先ほどまではっきりと見えていた百瀬さんの顔が逆光で一瞬真っ黒になる。



「私を愛している人が誰もいなくなったら、死ぬの」



すぐに光に目が慣れて、彼女の顔が少しずつ見えてくる。

その表情はやはり穏やかで、薄く微笑んでいる様子はまるで女神だった。


呼吸は浅くなり、鼓動が鳴り止まないのに体は全く動かない。

6月上旬、まだ夕方は少し涼しい初夏の放課後。俺の恋した女性は、穏やかな表情で恐ろしい夢を語ってくれた。

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