2話 2人の秘密

ガララ…

無意識のうちに開けてしまった教室の扉が情けない音を立てる。


扉の開く音に百瀬さんはびくりと肩を震わせ、恐る恐るこちらを見た。

その顔には先ほどまでの影はなく、『普通の女子生徒が心底驚いている』という表情をしていた。


「あ、い、一条くん。びっくりした、部活帰り?」


少し焦った様子で笑いながら、百瀬さんはささっと紙くずをかき集めて席に戻り、全て丸めてごみ箱に捨てる。

その様子をぼうっと眺めていると、百瀬さんは慌てて両手を顔の前で振った。


「やっ、違うから!変なことしてたわけじゃなくて、その…」

「いや、いいよ。言わなくて」


少しそっけない返事をしてしまい、すぐに後悔する。

言いたくないことを言う必要はないと伝えたかっただけなのに、突き放すような口調になってしまった。

そんな俺の考えを知ってか知らずか、百瀬さんはまくし立てるように早口で話し出す。


「や、ほんとに違くて!弁解だけさせて!

その、塾でやった模試がひっどい点数でさ、親に見せたくないから家で捨てられないし、かといって学校で捨てて誰かに見られたら嫌だし、それでこうやってびりびりと…。だって言いたくないけど、…25点だよ?!超赤点!頭悪くってさー私、」


やだー言っちゃった、と恥ずかしそうに手で顔を覆う百瀬さん。

女子はこの飾りげのなさに好感を持ち、男子はあどけなさと放っておけない雰囲気に情を抱く。

けれど、去年同じ光景を目にしている俺は、百瀬さんの放つ純真無垢な笑顔をどうしても素直に受け取れないでいる。


「…シュレッダー使ったら?」

「シュ、え、何て?」


ぼそりと呟いた俺に、本当に何のことか分かっていない様子で彼女は問い返す。


「シュレッダー。紙を細かく裁断できるやつ」

「へー、そういうのがあるんだ。知らなかった!」

「学校にあるのは大きいけど、鞄に入るくらい小さいのもあるよ」


ほら、とスマホで検索して画面を見せると、百瀬さんがきらきらとした瞳で俺の手元を覗き込んだ。


「ほんとだ!小さいし、すごく細かく切れるんだね」

「裁断してもつなぎ合わせることはできるらしいけど、少なくとも手でちぎるよりはマシじゃない?」

「あはは、その通りだ」


笑いつつも真剣に興味を持ち始めたようで、食い入るように画面を見ている。

小柄な彼女のために少し手を下げて見せると、百瀬さんが俺をちらりと見て、優しく微笑んだ。


「ありがとう、一条くん優しいね」

「…普通だよ」


百瀬さんの笑顔は率直に言って凶器だ。

その笑みが偽物か否かなんて考える隙もないほど、人の心を揺さぶる。


「…」


ばれない程度に唇をかみしめ、ほだされそうになる心を引き戻す。

俺は"この百瀬さん"を好きになりたくない。

俺が見たいのはーー…


「今日のことは絶対内緒だから!私も一条くんの秘密、知ってるしね~」

「え、何だよそれ」


ぐらぐらと揺れていた俺の思考を吹き飛ばし、彼女はにやにやと性悪な笑みを浮かべる。


「放送部でしょう、一条くん」

「え、うん…よく覚えてるね」


突然振られた話題に、どきまぎしながら何とか答える。

なぜ知っているのかと驚いたが、2年も同じクラスなのに百瀬さんの部活さえ知らない俺の方がおかしいのかもしれない、と思い直した。


「私の部室から放送室って丸見えなんだよね。

一条くん、放課後いっつも机に脚乗っけてさぼってるでしょ」

「な…え、見てたの?!」

「見えるよ~見えてますよ~」


百瀬さんは人差し指と親指で輪っかを作り、双眼鏡を覗くようなポーズをとってみせる。


「一人二役でオセロしてる時も、オダセンの物真似練習してる時も、ムーンウォークしようとしてできなかった時…」

「あー!!!分かった!内緒にするから!もうやめろ!」


大声で彼女の言葉を遮り、思わず手で目元を覆った。

オダセンは俺たちの担任で、もう定年近い爺さんで独特の歩き方をするのだが、俺が友人を笑わせられる唯一の物真似である。


…そんなことは今どうでもいい。

百瀬さんが俺を認識していて、あろうことか一人きりの部室さえも丸見えだったとは。丸1年間も醜態を晒し続けていたと思うと、恥ずかしいを通り越して最早どうでも良くなってきた。

目を白黒させる俺を見て百瀬さんはごめんと苦笑し、おどけた口調で話を続ける。


「ふふ、これでお互い弱み1個ずつだからね!」

「勘弁してよ、俺の方がずっと恥ずかしいやつじゃん…」


ぼりぼりと頭をかきながら話を切り上げるタイミングを見計らっていると、百瀬さんから思いもよらぬ言葉が飛び出した。


「…あと、リクエストした曲、流してくれたよね。

だから覚えてるってのもあるかな」

「え、」


今度こそ、ひっくり返るのではないかというほど心臓が強く跳ねた。

放送部で流した曲のお礼を言われたのは二度目だ。いや、もしかして二度目ではないのかもしれない。

あの手紙をくれたのは…。


「覚えていないかもしれないけど、去年の秋頃かな。『anne』って曲、かけてくれたでしょ?私、あの曲を家だけじゃなく学校でも聴いてみたいってずっと思ってたの」

「…ジョンの?」

「そう!覚えててくれたんだ、嬉しいー!」


あははと快活に笑う百瀬さんの表情から、陰鬱とした雰囲気は完全に消えていた。

その笑顔にあてられつつ、俺は何とか会話を絞り出す。


「お…俺も覚えてる。リクエスト貰って初めて聴いたけど、すごい印象に残ってアルバム何周もしたから」


本当の事だった。

アンケートに書かれる曲のほとんどは邦楽で、洋楽の、かつ最新のトレンドではない曲をリクエストされるのはそれが初めてだった。

ジョン・フルシアンテの『anne』。

英語の成績がよろしくない俺には歌詞を聞き取ることができなかったが、曲に惹かれて和訳を調べた時の背筋が凍るような思いは、今でも鮮明に思い出せる。

どこか懐かしく、優しげな印象すら感じるこの曲は、気の遠くなるような深い絶望をまとっていた。

どこにでもいる普通の男子高校生には刺激が強すぎて、何度聴いても彼の闇の底にたどり着けず、アルバムを何周もするうちにどっぷりとハマってしまっていた。


高校生がこの曲を聴いて、どんな思いで学校の校内放送で流してほしいと考え至ったのか。


いや、深い意味はなかったのかもしれない。何気なくこの曲を聴いて、特に考えなしに私書箱に投函したのかもしれない。

そう思っていたかった。さらに言えば、百瀬さんでなければ誰でも良かった。



彼女は夕日を背にして笑う。

逆光がつくる影の色が深かった。

屈託のないのその笑顔が偽物に見えるのは、俺の単なる思い込みだろうか。



『anne』を聴いて真っ先に思い浮かべたのは、去年見た百瀬さんの真っ黒な無表情だった。この曲からにじみ出る絶望の深さが、彼女の黒にそっくりだったから、かもしれない。

黙り込んでしまった俺を見て、百瀬さんは慌てて荷物を片付け始める。


「…私はそろそろ帰らなくちゃ。恥ずかしいから、今日のはお互い秘密ってことで!」


しーっと人差し指を口に当てる百瀬さんは、いつもより少しあざとい。俺のような冴えない男子をほだす時、こんな表情やしぐさをするのだろう。

帰したくなかった。

このまま会話を終えてしまうと、もう一生百瀬さんと関われない気がした。


「…百瀬さん」

「ん?」

「百瀬さんの秘密、俺のに比べて弱すぎだよ。俺も百瀬さんの秘密、もう一つくらい欲しい。」


どくん、どくん。

張り裂けそうなほど心臓が鳴り、声を出そうとすると唇がぶるぶると震えた。

言え、言え。今しかない。

ひゅっと小さく息を吸う。

理性が喉元に抑え込んでいた言葉を、本能のまま彼女に吐き出した。


「今日の”これ”、見たの2回目なんだ」

「…え、」


百瀬さんの顔がほんの少しだけ引きつる。

貼りついた笑みはそのままだったが、瞳孔がすっと開くのが分かった。


「去年の秋。放課後、教室で」

「…えぇ、何してたかな。恥ずかしいな。その時も、模試、破ってたかな…」


普段通りの口調とは裏腹に、彼女の顔色はどんどん悪くなっていく。

まだぎりぎり取り繕えていると思っているようだが、その表情は明らかにいつもの百瀬さんではなかった。


「いや、その時は見えたんだ。テストとかじゃなかった。

あれは…楽譜だった。合唱祭の直後だったから、多分ピアノの…」

「一条くん」


俺の話をぴしゃりと止めた百瀬さんは、笑っていた。

いつもの、頬を緩ませて目じりをくしゃっと下げる愛らしい笑顔ではなく、穏やかに微笑んでいるのにどこか遠くを見ている、今にも崩れてしまいそうな危うい笑顔。

これだ。この顔。

俺はずっと、この百瀬さんに会いたかった。

去年見た彼女を忘れられずにいた俺は、目の前にあの時の百瀬さんがいることに興奮し、無意識に呼吸が浅くなっていく。

そんな俺とは対照的に、百瀬さんはとても落ち着いた声で淡々と話を続けた。


「何が言いたいの?脅してるつもり?」

「いや、脅すとかじゃなくて…ただ、今日も去年と同じような雰囲気だったから」

「合唱祭で弾き終わったピアノの楽譜を捨てた。それだけだよ。別に秘密でも何でもない」


初めて聞く百瀬さんの冷ややかな声に胸を高鳴らせている俺は、とんでもない変態なのかもしれない。


「いや、たぶん、秘密にした方が良いと思う」

「…勝手に言いふらせば?みんなで頑張った合唱祭の楽譜を、百瀬さんが引きちぎって捨ててましたーって。毎日居残りしてピアノ練習してた私と、まともに声を出してなかった一条くん、どっちを信じてもらえるか知らないけど」

「俺が秘密にした方がいいって言ってるのは楽譜をちぎって捨てたことじゃなくて、百瀬さんの精神面の話だよ」


百瀬さんの心ばかりの笑みが、ぷつんと切れる。

彼女の真っ黒な瞳が初めて俺を見た。

黙ったままの彼女に、俺は話を続けた。


「百瀬さんって、いつも嘘くさい顔してるよな。笑顔貼りつけて、みんなに良い顔して。でも本当は、今の”それ”が本心なんだろ」

「…知ったようなことを言うね。私、一条くんと話したことあったっけ」

「ない。今日初めて話した」


はっきりと告げると、百瀬さんの影は薄まり、おかしくてたまらないと言った顔でけらけらと笑った。


「じゃあ気のせいだよ。私は本当にいつも楽しくて笑ってるよ。本心も何もない。私はずっと私だよ」

「…そうかもしれない。明るさも暗さも全部合わせて、百瀬さんなのかもしれない」

「暗さって、そんな…。私はいつも楽しいって、」

「でも俺は真っ黒の百瀬さんが好きだ」


言った。言ってやった。

俺はこの言葉が言いたくて、1年間ずっと彼女を見続けていた。

高揚感が高まって体全体がじんじんと熱く感じる。

百瀬さんは突然の告白に驚いたのか、目をまん丸にして固まってしまった。


百瀬さんは人気者だ。誰にでも優しい彼女に淡い恋心を抱く男たちは大勢いるだろう。

明るくて良い子の百瀬さんに恋している奴らと俺は違うんだ、なんて言うつもりはない。俺もただ、百瀬さんに恋をしただけだ。


ただ、俺が恋に落ちたのはあの顔だった。

表情がごっそり抜け落ちたような、真っ黒な底なしの百瀬さん。



教室に差し込む夕日が百瀬さんを強く照らす。

その光が眩しくて一瞬目を伏せた時、目の前の彼女が小さな声で何か呟いた。


「ごめん。何か言った?聞こえなくて」

「……たい」

「え、何、もう一回、」

「死にたい。」


3度目の声はそれまでと違ってよく通る大きな声で、はっきりと耳に届いた。

子供が親を探している時に聞く叫び声のような、それでいて親が子供を嗜めるために出す強めの口調のような。


彼女から目が離せなかった。穏やかに微笑む菩薩のような百瀬さんがいて、それ以外がぐらぐらと揺れて、なくなって。

真っ暗になった視界の真ん中に百瀬さんだけが立っていて、


「一条くん」

「あ、」


名前を呼ばれてハッとしたが、時間はそれほど経っていなかった。

慌ててあたりを見渡していると、百瀬さんはふふっと優しく笑った。


「運動部の人たちが教室に来ちゃうよ。帰ろう」

「え、あ、はい」


慌てて荷物を持ち直して踵を返すと、「一条くん」と再び声をかけられる。

振り向いて彼女を見ると、俺の席を指差していた。


「体操服。取りに来たんじゃなかったの?」

「あ、そうだった。ありがとう。…いや、何で知ってんの?」


そそくさと体操服の入っている袋を回収しつつ、懐疑的な目を彼女に向ける。

驚いたことに、百瀬さんの顔にはもう影はなく、いつもの優しくはつらつとした彼女がいた。


「ちょっと考えたら分かるよ。今日は体育があって、金曜日で、普段放課後になると誰もいない教室に通学鞄だけ持った男の子が来たら」

「…そ、うか?」

「そうだよ」


じゃあね、と軽く手を振って百瀬さんは教室を後にする。

目的だった体操服の袋を手に取って胸に抱き、深い息を吐く。

一人残された俺の心臓は、今日体育でやったバスケの後よりも速く、強く脈打っていた。

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