第13話 生きていられなくなるような弱みを握ってください
朝食の片付けを終え、廊下の板の間を雑巾がけしながら考えていました。
今夜で決着がつく、と璃子には申しました。しかし璃子は知らないもう一つの大問題が残されています。例の脅迫者の存在です。
私たちの行為は何者かに目撃されております。私たちの名前どころか、メールアドレスまで知っている近しい人物に。その脅迫者をどうにかしない限り、決着とは言えません。
しかし、なぜ脅迫者は千夏先生を――。殺せと言うほどなら、もちろん深い恨みがあるのでしょう。しかしあの明るい千夏先生が、人から恨みを買うような方でしょうか。
あの若くて可愛らしくて生命力に溢れた千夏先生でございます。恨みを買う事はなくとも、もしや嫉妬を買う事はあるやもしれません。千夏先生を嫉んでいる人物、もしくは嫌っている人物――。記憶を巡らせてみると、ある顔が思い浮かびました。
篠田沙紀先生――。
彼女は明らかに千夏先生を嫌悪しています。むしろ嫉妬でしょう。篠田先生は三十四歳のベテラン教諭ですが、千夏先生は学生気分の抜けきらない二十一歳の新人です。世代も違うし考え方も違い、彼女の全てが鼻につくのだと思います。しかし殺意が湧くほどでしょうか。いくら嫌悪しているといえど、命を奪いたいほど憎むものでしょうか。
その瞬間、私の携帯電話が着信しました。
「……来た、か」
あの脅迫者からでした。文面を見て呼吸が止まりました。
【今日正午、深江璃子 様の罪をネット上に晒します】
頭からサアッと血が引いてゆくのが分かりました。昨日の深夜、私が『これ以上、罪を重ねる事は耐えられません』と送ったメールへの返信です。
「ま、待ってくれっ……」
私は慌てて返信画面を開きます。
指先が震えます。『それだけは許してしてください。娘には未来があります。もしお金が必要なのでありましたら、いくらでもお支払いします』と一気に打って返信しました。
相手からの返信はすぐにございました。私は目を見開きます。
【高輪千夏 様を殺してください】
それだけでした。まるで機械です。
再度、私は返信しました。『どうして高輪千夏先生のような人を殺せましょう。どうか、命を奪うのだけはご容赦ください』と。
脅迫者の答えは至って明快な物でした。
【今日午前十一時、深江璃子 様の罪をネット上に晒します】
私は絶句しました。一時間も早まってしまったのです。
説得が逆効果になったようです。怒らせてしまったのでしょうか。淡泊で無機質な文面からは心情が読み取れません。不気味です。
「……行ってきます」
傍らで璃子の声がしました。私は飛び上がりそうになりました。ランドセルを背負った璃子が玄関で靴を履いておりました。暗く悲しげな顔を向けています。
「ああ、行ってらっしゃい。気を付けてね」
璃子は「うん……」と返事して玄関を出て行きました。
開けっ放しの扉。璃子の背中がみるみる小さくなってゆきます。届かなくなるような、そんな気がしました。早織ちゃんの件が明るみに出ると、私と璃子の幸せな毎日はいとも容易く瓦解してしまうでしょう。
私は腹を括りました。メールを打ちます。
『分かりました。あなたに協力いたします』と。
千夏先生を殺す――、と宣言したも同じです。冷や汗が滲みました。教育者としてあり得ません、僧侶としてあり得ません、人としてあり得ません。
ただし――、と私はメールを追加しました。
『当然の事ながら、私は人様を殺めた事がございません。あなたに協力は致しますが、指示通りに出来るかは保証できません』と。
十分ほどして返信がありました。
【まず高輪千夏の弱みを握ってください】
えっ、と私は眉を顰めました。追加でメールが届きます。
【生きていられなくなるような、弱みを握ってください】
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