第12話 璃子が苦しいのも今夜でお終いですよ
東の空から朝がいらっしゃいます。
璃子を寝かしつけた後、古井戸の片付けをしていたら陽が昇りました。私は井戸に詰まっていた粗大ゴミを墓地の脇に寄せ、額の汗を拭いました。この粗大ゴミは、近日中に役所に頼んで持って行っていただきましょう。
寺へ戻る道すがら、私は思わず膝をアスファルトについてしまいました。不意に意識が遠ざかったのです。毎夜の重労働の上、もう二日も碌に眠っておりません。しかも、あのメールでございます。
千夏先生を殺すよう、私は命じられました。
璃子を自宅へ戻した後、私はあの脅迫者に初めて返信しました。『やめてください』『これ以上、罪を重ねる事は耐えられません』と。脅迫者からの返信はありませんでした。
無視されているのか、返事を考えているのか、それとも私たちの罪を暴露しようと見限ったのか……。待っている時間が最も苦痛でございます。
寺に戻ると、母が玄関先に出ておりました。
「母さん、どないしたん……こんな朝早くから」
「ああ、英くん。大変やねん。朝起きたら、お父さんがおらんねんな」
頭が痛くなります。私は母の目を見ないように言いました。
「あのな母さん。父さんは二年前に死んでん。」
母の目が丸く開かれます。「ええっ、嘘やんっ」
「嘘ちゃうよ。危篤なった時、璃子と母さんも病院行ったやろ。一緒にお葬式もやったやん、僕がお経読んだん見てたやろ」
「えええ、そんな……お父さんが、死んだやなんて……」
母は私の肩に泣き崩れました。こうして今朝も、母の中で父は死んだのです。
母は父を愛しておりました。母は二十四で永恵寺に嫁いだと聞きます。寺という特殊で慣れない環境の中、父だけが理解者だったのでしょう。
「母さん、中に戻ろか」
寝室で三十分ほど仮眠を摂った後、毎朝の勤行を始めました。
阿弥陀様の前で経を上げ、璃子が起きる前に寺と家の掃除を済ませてしまいます。トイレの便器を磨き、トイレットペーパーを補充しました。タイルにフックが貼り付けてあり、ハート柄の小振りな巾着が釣ってあります。
生理用品、いわゆるナプキンが入っております。男の私にはよく分かりませんが、月経時の女性には必需品です。しかし主治医に伺ったのですが、母は月のものが終わったので必要ありません。この生理用品は、璃子の物です。
璃子に初経が訪れたのは五年生になった今年、四月の終わりの出来事でした。学校へ行く前の朝です。璃子は朝食も取らず、三十分以上もトイレに籠っておりました。冷えて腹が緩くなったのかと思いましたが、私も心配になってドア越しに声を掛けたのでした。
璃子は、泣いておりました。ただ事ではないと察し、私は璃子を救い出そうと強引にドアを壊しました。そこで見た光景に、私は息を飲みました。
だらしなく引き出されたトイレットペーパー。千切った紙が足元に散乱しておりました。それには何度も血を拭ったような、赤茶けた染みが付いていました。
璃子は便器に内股で座り、目を点にして見上げるのです。股に手を突っ込み、必死に何かを隠そうと硬直しております。止めどなく涙が溢れていました。恐怖と羞恥の涙です。
璃子の手は血まみれになっておりました。足元も便器も、血をたっぷりと含んだトイレットペーパーで溢れています。
あっち行って……、と璃子は血まみれの手のひらを向けます。羞恥で真っ赤になった顔を伏せ、肩を震わせ泣いておりました。その間にも、璃子の股から垂れる血がピチャピチャ音を立てて便器に落ちています。
その匂い……。ただの血の臭いではありません。女の匂いが混じっているのです。あの奥歯が痒くなるような、よだれが溢れるような、あの匂いです。密閉された狭い便所に、璃子の女の匂いが充満していたのです。
璃子は多量の血を見て酷く動転しておりました。さすがにその日は小学校を休ませ、自宅で様子を見る事にしました。
もともと璃子は発育も良くて同い年の子の間でも長身でした。身体が大人になるのも早かったのです。母も認知症が進行しておりますし、男親の私では経験がありませんので、璃子の初経に対してどうすれば良いのか困り果てていました。そこで仕方なく、璃子の母親と連絡を取らざるを得ませんでした。
元妻の
会わせたくはありませんでしたが、私には璃子の身体の事を相談できる女性などおりません。璃子自身も母親の方が心を開いて話せるでしょう。
結果的に、由香と璃子は週に二度ほど会うようになりました。悔しいですが、私には思春期を間近にした璃子の相談相手には役者不足でした。現に璃子の初経を前に呆然とするだけでしたし、生理用品や女性用下着の選び方も全く分かりません。そんな事を的確に助言できるのは、父親でも教師でも仏様でもございません。母親だけなのです。
洗濯籠に溜まった衣服を洗濯機に放り込みます。この家で男は私だけ。やがて璃子も「お父さんの服と一緒に洗濯しないで!」などと言うようになるのでしょうか
足元に一枚の下着が落ちています。一つだけ籠からこぼれたのでしょう。私はそっと摘まみ上げました。璃子の下着です。ブラジャーです。
これも由香と買いに行った物なのでしょう。私は知りません。初経の一件以降、璃子の胸が妙に膨らみ始めました。私には一切の相談を持ち掛けてきませんでしたが、女親である由香には話をしていたのでしょう。
私は璃子の下着を口元に当て、大きく息を吸い込みました。柔軟剤の爽やかな匂いの奥に、ほのかに香る甘ったるい汗の匂い。
私は洗濯前に必ず璃子の衣服の匂いを嗅いでおります。近頃、璃子の匂いが変わってきておりました。幼女の乳臭い匂いが影をひそめ、かすかに大人の女の匂いが香るのです。
朝食の準備をしていると、璃子が起きて参りました。
「璃子……今日も、学校へ行くのですか」
こくりと頷く璃子。目の下の隈は形を濃くしております。きっと昨日もまともに眠れていないのでしょう。
「休んでも良いのですよ。無理して行く事もないでしょうに」
「……行く」
璃子は食卓について肩を落としていました。
「朝ご飯はどうしますか。食べられそうなものはありますか」
「いらない」
私は重たい息をこぼし、璃子の前に野菜ジュースを置きました。
「学校へ行くなら、せめてこれくらいはお腹に入れてください。あと、幼稚園のみかんの木に実が成っていたので、お祖母ちゃんが穫って来てくれていますよ」
璃子はため息をつき、グラスの野菜ジュースを喉に流し込みました。胃が驚いたのか、口元に手を当てて
「よく頑張りました。朝ご飯は、これだけで良いですよ」
うん、と頷く璃子。そのまま顔を伏せています。昨日よりも一昨日よりも、璃子が弱って見えました。
「今夜、動かします――」
私は璃子の耳元で囁きました。璃子は目だけを向けます。
「動かすって、早織ちゃんを?」
私は声を出さずに首肯しました。
「墓地の井戸の準備が整いました」
二日間も夜通しで勤めた甲斐あって、早織ちゃんの隠し場所が完成したのです。後は今夜、闇に紛れて早織ちゃんのご遺体を回収し、井戸に落とすだけです。
「璃子が苦しいのも、今夜でお終いですよ……」
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