第8話 園長センセ、今度ゆっくりお話しませんか
午後五時を回り、ずいぶん陽も落ちてまいりました。延長保育で預かっているお子様の迎えがぽつぽつと来られます。
共働きの家庭も珍しくはありません。通常の三時までの保育では、両親ともにお迎えに来られないのです。五割がたの父兄様から延長保育を申し込んでいただいておりました。
私は門前に立ち、「さようなら」と挨拶しておりました。
「こんにちは園長センセ……」
甘ったるい女性の声。振り向くと、蕩けそうな笑顔の女性がいらっしゃいました。
「美津さん。こんにちは」
「あら。彩子と、下の名前で呼んでくださいな」
「いいえ。保護者様を、そのように気安く呼ぶわけには……」
彩子さんは身体の線がくっきりと浮くようなタイトなニットに身を包んでおられます。豊満な胸の形がはっきりと象(かたど)られていて目のやり場に困ります。
「園長センセ。どうされたんですか、その手」
彩子さんは私の手をそっと取りました。
「マメが出来てるじゃないですか」
いやぁコレは、と私は手を引こうとします。彩子さんは強く握って放してくれません。
「日曜大工です。璃子の勉強机の椅子が壊れてしまいまして、脚を修理していたのです」
嘘です。昨日の深夜、墓地の古井戸を片付けていた所為で出来たものです。あのご遺体を隠すための、穴を作るために。
「へえぇ、園長センセは日曜大工も出来るんですね頼もしいわぁ」
彩子さんは私の手を抱きかかえました。形の良く柔らかな手に埋まるように沈みます。
「ちょっ……美津さん」
彩子さんは私の手を谷間に埋めたまま、じっと私の目を凝視しておられます。ふっくらと紅い口唇は誘うような笑みを形作っておりました。
「すごく良い声……。園長センセの声、お腹の下に響くんです」
彩子さんは私の手を胸の谷間から下へ誘います。柔らかくも引き締まって
「やっぱりお坊さんだからですか。毎日お経を読んでいるから声が鍛えられてるんですね。低くて太い声、大好きなんです……。あの発声って、腹式呼吸ですよね。わたし、いつもお葬式で、ドキドキしてしまうんです。不謹慎ですかねぇ」
「美津さん、何をおっしゃって――」
下の名前で呼んで――、と遮られました。
「園長センセ、今度ゆっくりお話しませんか」
彩子さんは湿った声で言い、私ににじり寄ります。バニラのような甘い香水が鼻を衝き、意識がぼやけました。
「夫が単身赴任で広島に行っていて、寂しいんですよ。ほら、私って専業主婦でしょう。話し相手なんていなくて」
囁くような湿った声。鼓膜がぞわりと締まりました。
「それに……ご存知ですか、藤本早織ちゃんの事――」
はっと息を飲みました。
「夕暮丘小学校の早織ちゃん、昨日から帰っていないんですって。最近、刃物を持った不審者も出たって話じゃないですか……怖いですわぁ。女一人だと、心細くて」
彩子さんは私の手を広げ、自らの胸に押し付けました。そして私の表情を確かめながら、ゆっくりと揉みしだくように手を動かすのです。
「や、やめてくださいっ」
私は弾かれたように手を引き抜きました。
「話し相手でしたら、海斗君とたくさんお話してあげませんか。延長保育をせず、お家で海斗君に接してください。海斗君も年中さんになって語彙も増えていますし、お喋りも達者になっていますよ」
早口に言い、布袍の襟元を正します。額に粘っこい汗が滲んでいました。まだ手には彩子さんの温もりが残っておりました。彩子さんは毒の花のように微笑んでおられます。
その時、「ママーッ」と元気な声が飛んで来ました。
「ほらー、海斗君。お母さんが迎えに来てくれたよー」
千夏先生に抱っこされた海斗君がやってきました。一瞬だけ顔の筋肉を引き攣らせた彩子さんですが、すぐに愛想の良い笑みを装着していました。
「もぅ海斗ったら。先生に迷惑でしょ」
良いんです良いんです、と千夏先生は海斗君を抱き上げ直します。まだまだ海斗君は甘えん坊のようです。千夏先生にしがみ付き、胸に顔を押し付けて頬擦りしています。
「スミマセン、先生。重かったでしょう」
「大丈夫です。慣れていますんで!」
地面に下ろされると、海斗君は名残惜しそうに千夏先生を見上げていました。
「ほーら。帰ろ海斗」
「えー。さみしいもん」
海斗君は千夏先生の足にしがみ付き、恋しげに太ももを撫で回していました。とんだ甘えん坊です。股の下に顔を押し付けると、さすがに彩子さんは引き剥がすように海斗君を抱き上げました。
「寂しくても大丈夫です。千夏先生には明日も会えますから。先生たちは、また明日も元気な海斗君を待っていますよ」
私が言うと、海斗君は渋々ながらに納得してくれました。
「どうですか、海斗は? 落ち着きがないんじゃありませんか?」
「こんなものですよ五歳って。じっと座っていられない子だってザラにいますので」
そんなもんなんですかねぇ、と彩子さんは心配そうに海斗君の頭を撫でます。
「それでは、私は教室に戻ります!」
そう言い残し、千夏先生は駆け足で園舎に戻ってゆきました。その後ろ姿が消えるのと同時に、彩子さんからも作り笑顔が消えました。
「あの人、ホントに大丈夫なんですか」
「……えっ、千夏先生ですか」
そうです、と彩子さんは千夏先生が去ったあとをじっと睨んでいます。
「ちょっと甘やかせすぎじゃありませんか。それにこんな小さな子に、ベタベタ身体を触らせて……何のつもりなんでしょう」
「す、すみません。私からも言っておきますので……」
行こっか、と彩子さんは海斗君の手を取ります。彼は私を振り返って、大きく手を振っていました。
「えんちょうせんせー、さよーなら。またあした!」
私は屈んで答えました。「さようなら。また明日ね」
「……ええ。また明日」
彩子さんが微笑んでいました。どこか淫靡に。
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