第3話 耐えられません

 夜になってしまいました。月が雲間から私たちを監視しています。

 私は毛布に包んだ早織ちゃんの遺体を抱き、璃子を連れて本堂に戻りました。

「分かっていますか璃子。今日の事は、お父さんと璃子だけの秘密です。お祖母ちゃんにも言ってはなりませんよ」

「……分かった」

 璃子は眉尻を下げて頷きます。逃げるように階段を駆け上がってゆきました。

 仏間の襖を開け、畳の上に早織ちゃんを寝かせました。私は仏壇に向かって正座します。磨き上げた金色の宮殿くうでんにはご本尊の阿弥陀如来がいらっしゃいます。

 私は五具足ごぐそくの蝋燭に火を灯し、線香を二つに折って香を焚きました。つんと静謐な香りが辺りに漂いました。この匂いは血の臭いを紛らわせてくれます。

如是我聞にょぜがもん 一時仏在いちじぶつざい 舎衛国しゃえこく 祇樹給孤独園ぎじゅきっこどくおん 与大比丘衆よだいびくしゅう 千二百五十人倶せんにひゃくごじゅうにんく――」

 私は改めて阿弥陀経を唱えます。合掌した手に脂汗が滲みました。

 璃子を守るなら、早織ちゃんは誰にも見つからないようにしなければなりません。そうなると早織ちゃんは誰にも弔われないのです。だからせめて私が弔わなければ……。せめてもの義務です。

 その時、居間で電話が鳴りました。

 読経を終えた私は小走りに廊下を行き、居間の子機を取って耳に当てます。寺への電話は急な訃報も少なくありません。ご親類が急死されて法事の依頼が入る事も多々あります。

 息を整え「はい。永恵寺でございます」と受話しました。

『もしもし――。私、藤本早織の母親ですが――』

 来た……。寒気が首筋から頬へと這い上がってきました。

「ふ、藤本さんですか。これはご無沙汰しております。どうなさいましたか」

『うちの早織が、お宅へお邪魔していませんか?』

 冷静を努めて「早織ちゃんでございますか」と返します。

『学校から帰ってきて「璃子ちゃんの家に行く」って出て行ったきり、帰っていないので……もしかして、まだお邪魔になっているのかと。早織がご迷惑をお掛けしていませんか』

「早織ちゃんなら……来ていませんが」

 嘘をついてしまいました。

『あの子、今日は璃子ちゃんと遊ぶって言ってたから、二人でどこかへ行ったのかしら』

「……璃子はずっと家にいましたよ。一人で宿題をしていました」

 嘘を重ねてしまいました。

『早織ったら、どこへ行ったのかしら。もう七時過ぎなのに』

 それは心配ですね……、と私は白々しく答えました。

『お手数ですが、深江先生。早織について分かった事があれば、連絡いただけませんか』

「分かりました。私も璃子に訊いてみます」

 それでは――、と私は受話器を置きます。

 ため息を漏らして廊下の奥を見詰めます。あの襖の向こうで、早織ちゃんは死んでいます。その事を知れば、彼女の母親はどうなってしまうのでしょう。

「ねえ、英(ひで)くーん」

 不意に名前を呼ばれました。咄嗟に振り向きます。

「英くん、今のお電話は?」

 母でした。居間でテレビを見ていた母が座椅子から振り返っていました。しょぼくれた不安げな目尻をして私を見ています。

「藤本さんからやった。たいした用でもなかったわ」

「そかそか」

 私は「せやせや」と笑いかけます。母の前でだけは、素の自分でいられました。私が砕けた言葉遣いで話せるのも、母の前だけです

 母は重たげに腰を上げ、机に掴まって立ち上がろうとします。私は「母さんっ」と支えに入ります。

「まぁ、ホンマありがとうね英くん。お母さん、心強いわぁ」

「気にせんでええって。母さんも、もういい歳なんやし」

 私に肩を借りた母は目尻にしわを寄せました。邪気のない笑顔を向けられると心苦しくなります。

 よいしょ、と母は冷蔵庫から麦茶のボトルを出してグラスに注ぎました。母はグラスを口に付けて尋ねます。

「お父さんは、どこ行ったんやろか?」

 純朴な母の瞳に、私は息苦しくなりました。今日も、この質問……。

「英くん、お父さん見てへん? もう晩ご飯の時間やのに」

 不安げに辺りを見回す母。まるで迷子のようです。お父さーん、晩ご飯よー、と周りを見渡しながら呼び掛けています。

 その姿がつらくて、いつも私は告げるのです。

「死んだやんか、もう……」

「……え」

 母は目玉が落ちそうなほど見開きました。凍り付いたように動かず、じっと私を見るのです。

「嘘でしょ英くん。お父さんが、そんな……」

 いつもこうです。毎日でございます。

「三年も前に、死んだやん。胃ガンで」

 母ははっと息を飲み、グラスを落としました。フローリングに叩きつけられたグラスは砕け、麦茶と一緒に破片を散らします。

「そうやったかしら……。うん、そうかもしれへんわな。うん、うん。お父さん、亡くなりはったんやわ……」

 母は萎れるように泣き崩れました。私は母から目を背け、無言で割れたグラスを片付けます。もう、見ていられません。

「忘れとったんやわ、私また忘れてしもてたんや……。ごめんな、お父さん」

 母は机に突っ伏して泣き出しました。私は母の背中に手を置く事しか出来ません。老いた背中は悲しいほど小さくなっていました。

「あ、せや!」

 母は跳ねるように顔を上げ、勢い良く冷蔵庫を開けました。

「お庭のみかんがってたんよ。後からみんなで食べよう思って、冷蔵庫に入れとったんやわ」

 ほら、と母はテーブルにみかんを四つ転がします。

「お母さんと英くんと、あとお父さんの分。きっと甘くて美味しいでー」

「ありがとう。でも僕らが食べる前に、まず仏様にお供えせんとな」

 そやね、と母は何事もなかったかのように座椅子に戻りました。座る時に「あぁー痛(た)痛(た)痛(た)痛(た)」と気怠そうにこぼします。

 そして私を振り返った母は私に尋ねます。

「英くん、お父さん見てへん? もう晩ご飯の時間やのに」

 母がこうなったのは数年前からです。まず母の料理の味がおかしくなりました。カレーライスに塩がかかっていたり、味噌汁に醤油が入っていたり。そして物忘れが激しくなり、ふらりと夜中に外へ出歩く癖が付いてしまったのです。

 お医者様にはアルツハイマー型認知症と診断されました。それから定期的に病院へ連れて行き。私が自宅介護するようになりました。しかし母の記憶力や認知能力の低下は著しく、ついに父が亡くなった事さえ曖昧になってしまいました。

 母の中で、父は毎日死にます。

 父の死を知って、母は毎日泣き崩れています。私が真実を告げなければ母は悲しまないのですが、不安に駆られた母は父を探して町を徘徊してしまうのです。だから母が父を探す度に、私は告げるしかありません。

 不安げに辺りを見回す母。私は俯いて答えます。

「……死んだやん。三年も前に」

「えっ、嘘や……そんなん、そんなん……嫌や」

 母はボロボロ涙をこぼします、声を上げて慟哭します。これが毎日、いえ……一日に三度も四度も繰り返されるのです。そのたびに私の言葉で母は傷つき、涙を流して悶えるのです。

 耐えられません。

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