第3話 耐えられません
夜になってしまいました。月が雲間から私たちを監視しています。
私は毛布に包んだ早織ちゃんの遺体を抱き、璃子を連れて本堂に戻りました。
「分かっていますか璃子。今日の事は、お父さんと璃子だけの秘密です。お祖母ちゃんにも言ってはなりませんよ」
「……分かった」
璃子は眉尻を下げて頷きます。逃げるように階段を駆け上がってゆきました。
仏間の襖を開け、畳の上に早織ちゃんを寝かせました。私は仏壇に向かって正座します。磨き上げた金色の
私は
「
私は改めて阿弥陀経を唱えます。合掌した手に脂汗が滲みました。
璃子を守るなら、早織ちゃんは誰にも見つからないようにしなければなりません。そうなると早織ちゃんは誰にも弔われないのです。だからせめて私が弔わなければ……。せめてもの義務です。
その時、居間で電話が鳴りました。
読経を終えた私は小走りに廊下を行き、居間の子機を取って耳に当てます。寺への電話は急な訃報も少なくありません。ご親類が急死されて法事の依頼が入る事も多々あります。
息を整え「はい。永恵寺でございます」と受話しました。
『もしもし――。私、藤本早織の母親ですが――』
来た……。寒気が首筋から頬へと這い上がってきました。
「ふ、藤本さんですか。これはご無沙汰しております。どうなさいましたか」
『うちの早織が、お宅へお邪魔していませんか?』
冷静を努めて「早織ちゃんでございますか」と返します。
『学校から帰ってきて「璃子ちゃんの家に行く」って出て行ったきり、帰っていないので……もしかして、まだお邪魔になっているのかと。早織がご迷惑をお掛けしていませんか』
「早織ちゃんなら……来ていませんが」
嘘をついてしまいました。
『あの子、今日は璃子ちゃんと遊ぶって言ってたから、二人でどこかへ行ったのかしら』
「……璃子はずっと家にいましたよ。一人で宿題をしていました」
嘘を重ねてしまいました。
『早織ったら、どこへ行ったのかしら。もう七時過ぎなのに』
それは心配ですね……、と私は白々しく答えました。
『お手数ですが、深江先生。早織について分かった事があれば、連絡いただけませんか』
「分かりました。私も璃子に訊いてみます」
それでは――、と私は受話器を置きます。
ため息を漏らして廊下の奥を見詰めます。あの襖の向こうで、早織ちゃんは死んでいます。その事を知れば、彼女の母親はどうなってしまうのでしょう。
「ねえ、英(ひで)くーん」
不意に名前を呼ばれました。咄嗟に振り向きます。
「英くん、今のお電話は?」
母でした。居間でテレビを見ていた母が座椅子から振り返っていました。しょぼくれた不安げな目尻をして私を見ています。
「藤本さんからやった。たいした用でもなかったわ」
「そかそか」
私は「せやせや」と笑いかけます。母の前でだけは、素の自分でいられました。私が砕けた言葉遣いで話せるのも、母の前だけです
母は重たげに腰を上げ、机に掴まって立ち上がろうとします。私は「母さんっ」と支えに入ります。
「まぁ、ホンマありがとうね英くん。お母さん、心強いわぁ」
「気にせんでええって。母さんも、もういい歳なんやし」
私に肩を借りた母は目尻にしわを寄せました。邪気のない笑顔を向けられると心苦しくなります。
よいしょ、と母は冷蔵庫から麦茶のボトルを出してグラスに注ぎました。母はグラスを口に付けて尋ねます。
「お父さんは、どこ行ったんやろか?」
純朴な母の瞳に、私は息苦しくなりました。今日も、この質問……。
「英くん、お父さん見てへん? もう晩ご飯の時間やのに」
不安げに辺りを見回す母。まるで迷子のようです。お父さーん、晩ご飯よー、と周りを見渡しながら呼び掛けています。
その姿がつらくて、いつも私は告げるのです。
「死んだやんか、もう……」
「……え」
母は目玉が落ちそうなほど見開きました。凍り付いたように動かず、じっと私を見るのです。
「嘘でしょ英くん。お父さんが、そんな……」
いつもこうです。毎日でございます。
「三年も前に、死んだやん。胃ガンで」
母ははっと息を飲み、グラスを落としました。フローリングに叩きつけられたグラスは砕け、麦茶と一緒に破片を散らします。
「そうやったかしら……。うん、そうかもしれへんわな。うん、うん。お父さん、亡くなりはったんやわ……」
母は萎れるように泣き崩れました。私は母から目を背け、無言で割れたグラスを片付けます。もう、見ていられません。
「忘れとったんやわ、私また忘れてしもてたんや……。ごめんな、お父さん」
母は机に突っ伏して泣き出しました。私は母の背中に手を置く事しか出来ません。老いた背中は悲しいほど小さくなっていました。
「あ、せや!」
母は跳ねるように顔を上げ、勢い良く冷蔵庫を開けました。
「お庭のみかんが
ほら、と母はテーブルにみかんを四つ転がします。
「お母さんと英くんと、あとお父さんの分。きっと甘くて美味しいでー」
「ありがとう。でも僕らが食べる前に、まず仏様にお供えせんとな」
そやね、と母は何事もなかったかのように座椅子に戻りました。座る時に「あぁー痛(た)痛(た)痛(た)痛(た)」と気怠そうにこぼします。
そして私を振り返った母は私に尋ねます。
「英くん、お父さん見てへん? もう晩ご飯の時間やのに」
母がこうなったのは数年前からです。まず母の料理の味がおかしくなりました。カレーライスに塩がかかっていたり、味噌汁に醤油が入っていたり。そして物忘れが激しくなり、ふらりと夜中に外へ出歩く癖が付いてしまったのです。
お医者様にはアルツハイマー型認知症と診断されました。それから定期的に病院へ連れて行き。私が自宅介護するようになりました。しかし母の記憶力や認知能力の低下は著しく、ついに父が亡くなった事さえ曖昧になってしまいました。
母の中で、父は毎日死にます。
父の死を知って、母は毎日泣き崩れています。私が真実を告げなければ母は悲しまないのですが、不安に駆られた母は父を探して町を徘徊してしまうのです。だから母が父を探す度に、私は告げるしかありません。
不安げに辺りを見回す母。私は俯いて答えます。
「……死んだやん。三年も前に」
「えっ、嘘や……そんなん、そんなん……嫌や」
母はボロボロ涙をこぼします、声を上げて慟哭します。これが毎日、いえ……一日に三度も四度も繰り返されるのです。そのたびに私の言葉で母は傷つき、涙を流して悶えるのです。
耐えられません。
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