第2話 私は、璃子を愛しているのです

「いえ、お騒がせして……申し訳ありませんでした」

 寺の軒先で、私は救急隊員たちに頭を下げました。

 静かな夕暮れの住宅地に、救急車の赤いランプが眩しく輝きます。

「つい血を見て 動転してしまって。思っていたより、大した傷ではなかったようでした」

 私は苦笑を見せ、璃子の肩に手を置きます。

 璃子は泣き腫らした目を擦り、小刻みに首肯していました。額にはガーゼを貼っています。もちろん璃子に怪我などございません。嘘の怪我です。

「しかし、頭を打ったんなら、病院へ行かれた方がよろしいかと……」

「娘は、強い子でございますので……。大怪我でもないのに、皆様のご迷惑になるような事は出来ませんし」

 しかしですね……、と救急隊員の方々は眉をしかめます。

 璃子を診せる訳にはいきません。嘘がばれてしまいます。すると璃子はふるふると首を横に振りました。

「ホント大丈夫。ちょっとぶつけただけだから……」

 救急隊の方々は納得いかない顔で璃子を見下ろします。璃子は黙したまま大人たちを見返していました。

「……分かりました。でも、頭を打つのは本当に危険な事です。近い内に病院で診てもらってください」

「はい。明日にでも、掛かり付けのお医者様に診てもらうよう致します」

 そう言うと、救急隊員の方々は心配そうに璃子を一瞥して引き上げて行かれました。私は「ご迷惑をお掛けしました」と去って行く救急車に頭を下げました。

「深江さん、どうなさったんですか?」

 近隣の方々が駆け寄ってきます。顔見知りの主婦の皆様が四人、五人と。

「いえいえ、璃子が階段の手すりに頭をぶつけてしまいまして」

 まあ大変っ、と主婦の皆様は口元に手を当てます。璃子は薄い下口唇を噛み締め、じっと下を向いていました。

「出血の割に傷は浅かったようです。驚いて救急車を呼んだのですが、応急手当をしている内に血が止まっていまして」

 お騒がせして申し訳ございません、と私は再び頭を下げました。近隣の皆様は安心したような落胆したような顔で家に戻って行きました。

 私は胸の空気を入れ換え、璃子を見下ろします。

「璃子。来なさい」

 璃子の手首を掴み、暗い運動場を進みます。璃子も涙を鼻ですすり、引き摺られるように着いてきました。

「ここで待っていなさい」

 園舎一階の保健室に璃子を入れ、ソファーに座らせました。啜り泣く璃子を保健室に残し、外から鍵を掛けました。

 まずは、コレをどうにかしないと――。

 運動場の隅に早織ちゃんが倒れています。何度見ても【ふかえりこ】と印字したシールを貼ったカッターが、早織ちゃんの喉に突き刺さっていました。血の池は先程よりも広がっています。

 私は早織ちゃんの傍らに膝をつき合掌しました。口元に手をかざし、左手首に指を這わせ、胸の間に耳を当てました。目を閉じ、全神経を集中します。呼吸も脈拍もありません。肌も冷たく青白くなり、生命の残滓も秒ごとに失われています。

 早織ちゃんは、死んでしまいました――。

 早織ちゃんの目蓋を下ろしました。せめて弔わなければ。美しい国へ行けますように。哀れな早織ちゃんに、阿弥陀仏の救いを……。私は再び合掌し、ご遺体を見下ろしました。

如是我聞にょぜがもん 一時仏在いちじぶつざい 舎衛国しゃえこく 祇樹給孤独園ぎじゅきっこどくおん 与大比丘衆よだいびくしゅう 千二百五十人倶せんにひゃくごじゅうにんく――」

 阿弥陀経を上げました。暗い運動場に私の声だけが響きます。

 早織ちゃんを見つけた時、微かながら息がありました。先程の救急隊に早織ちゃんを診せれば、命は助かったかもしれません。しかし私は璃子を守りたいがために、それをしなかった。

 私が早織ちゃんを死なせた――。

 いいえ。早織ちゃんを殺してしまったのです――。

南無阿弥陀仏なまんだぶ 南無阿弥陀仏――」

 経を締め括り、再び早織ちゃんを見下ろします。まだ小学五年生。無限の可能性を秘めた子供が、たった十年で人生の幕を閉じました。そうさせたの璃子と、私――。

 胃の中の物が逆流し、私は運動場の溝に吐いてしまいました。胃が空になるまで吐きました。涙と鼻水も溢れます。早織ちゃんの虚無な死に顔を見ていると、罪悪感と吐き気が治まりません。

 とにかく、何とかしなければ――。

 喉に突き立ったカッター。璃子の名前が入っています。この凶器を処分しなければなりません。指紋が付かないよう手ぬぐいを手に当て、カッターの柄を握り締めます。柄を通して、早織ちゃんの肉の感触が私の手に伝わってきました。

 しかし刃が抜けないのです。死後硬直でしょう。食い込んだ刃は硬直した筋肉に締め付けられ、大人の私が力を込めようと動きません。このままでは、璃子が殺したと……。

「くっ……この」

 早織ちゃんの顔を足で踏みつけ、力いっぱいカッターを引っ張りました。少し動きました。しかし指先が溢れた血で滑ります。手ぬぐいを握り直し、力任せに早織ちゃんの顔を踏ん張ります。すると、抜けました。

 すると刃が栓になっていた傷口から、赤黒い血液がどろどろと溢れ出てきました。あっという間に血の池は倍ほど広くなってしまいました。

 早織ちゃんの顔が泥で汚れています。

「あ、ああっ……すみません!」

 慌てて私は早織ちゃんの顔を拭いました。私の草履の痕が残っています。

 ご遺体の顔を踏みつけるなど、恐ろしく無礼な事をしてしまいました。私はどのような顔で早織ちゃんを踏みつけていたのでしょう。

 たんぽぽ組の教室から、お昼寝用の毛布を持って来て早織ちゃんを包みました。可愛らしいキリンの絵が描かれた毛布。その中に死んだ少女が包まれているのは心苦しくなりました。

 早織ちゃんを階段下の物置に隠し、私はホースで水を撒いてコンクリートの血だまりを洗い流しました。固まりかけた血が溶けて溝に流れ込んでゆきます。明日園児たちが来る頃には乾いているでしょう。

 私は血で濁った胸の空気を入れ替え、保健室のドアを開けました。

「……璃子。入りますよ」

 薄暗い保健室。ソファーで小さな影がピクリと動きました。

 璃子は俯いて肩を震わせていました。手は赤く汚れたまま。早織ちゃんの血です。青褪めた頬が外の月光に照らされて浮かんでいます。

 私は璃子の前に屈み、じっと瞳を覗き上げました。

「顛末(わけ)を、話してもらいますよ」

 しかし璃子は口唇を噛んで黙ったままです。私は璃子の両手首を握りました。

「話しなさい。なぜ早織ちゃんが、幼稚園ここにいたのですか。二人で何をしていたのです」

 問い質すと、璃子は激しく首を横に振りました。すんすん鼻を鳴らして涙を堪えています。私は「答えなさい!」と声を荒くしました。

「……早織ちゃんが、悪いの」

 か細い声でした。聞き返します「ん?」

「早織ちゃんが……お母さんの事を……」

 お母さんの事――。私には、察しがつきました。

「また、離婚の事ですか」

 璃子は小さく二度頷きました。私は大きく息を漏らして項垂れます。

「日曜日ね、お母さんと買い物に行ったの。それを、早織ちゃんが……見てて。それで、また……」

 私と妻は二年前に離婚しました。原因は、妻の不倫です。

 醜聞は親から子へと伝わります。そして学校では璃子が晒し物になってしまいました。リコン、フリン、ホスト、ウワキ――。大人の口から耳に入った言葉なのでしょう。同級生たちは覚えたての言葉で璃子を揶揄(からか)いました。いえ、苛めました。

「それをまた……早織ちゃんに、言われたのですか」

 璃子は萎れるように頷きました。ふっくらした手の甲に涙の粒が落ちます。

「だから璃子は、早織ちゃんを――」

「……刺すつもりなんて、なかったの。でも、お母さんの事を、酷く言われたから」

 璃子は手首で涙を拭います。頬に早織ちゃんの血が滲みました。

 今でも璃子は母親に懐いています。母を悪く言われて頭に血が上った、と言います。璃子はカッターを早織ちゃんに突き付け「お母さんを悪くいうな!」と怒鳴ったそうです。

「それで、早織ちゃんの喉に――」

 尋ねると、璃子は顔を覆って泣き崩れました。真実、という事でしょう。

 脅すつもりが、本当にカッターが喉を突き、早織ちゃんは階段を転げ落ちました。璃子は呆然と階上から早織ちゃんを見下ろし、そこへ私が来た――という顛末でした。

「ごめんなさい。ごめんなさい……」

 璃子は繰り返します。私は璃子の手を放し、深い呼吸を吐いて立ち上がりました。厳しく璃子を睥睨します。

「立ちなさい」

 えっ、と璃子は零しました。

 私は「早く立ちなさい」と繰り返します。おずおず立ち上がる璃子。私はソファーに掛けて璃子と目の高さを合わせました。そのまま璃子をじっと凝視します。

「そこで、服を脱ぎなさい」

 声をひそめて言うと、璃子はすっと息を飲みました。

「シャツもスカートも下着も、全てです。今すぐ脱ぎなさい」

 璃子の指先が戸惑いました。私がきつく睨みつけると、涙をすすってセーターの裾に指を掛けました。

 ゆっくり震えるようにセーターが捲れ上がってゆきます。肌着の下には幼児の名残のような、ぽっこりしたお腹が覗きました。大人になる途上の躰は膨らみ始めた乳房が張っていて、薄い肌着に乳首が浮いていました。

 そろりと肌着を脱ぎ、露わになったきめ細かい肌。恥ずかしげに胸を隠す仕草は厭に大人びていました。

 視線で命じると、璃子は諦めたようにチェック柄のスカートを下ろしました。柔らかな太ももと尻。陶器のように滑らかです。身体は性徴せいちょうしましたが、肌は赤ん坊の頃のままでした。まだ下の毛も生えていません。

「璃子。こっちへ来なさい」

 璃子は言うとおりに私の前に立ちました。無防備の裸で口唇を噛み締めています。

「……お仕置きです」

 力いっぱい璃子の尻を叩きました。バチンと乾いた音が響きます。

 璃子は短い悲鳴をこぼしましたが、必死に口唇を噛んで耐えています。その健気な姿が愛らしく見えました。

「今日ばかりは一度や二度では許しません。覚悟しなさい」

 立て続けに璃子の尻を打ちました。璃子は「うぅっ」と喘ぐように漏らします。目尻から涙を滲ませていました。

「あなたはお友達の命を殺めたのです。許される事ではありません!」

 七度八度と打つと、乳白色の璃子の尻に手形が赤く浮かんできました。璃子のすすり泣きが耳朶に触れ、つい私は手を止めました。

「お父さん……ごめんなさい。お父さぁん……」

 私は裸の璃子を抱き締めました。

 頬を摺り寄せ頭を撫で、よしよしと腫れた尻をさすりました。甘く温かい香り。璃子の匂いです。その柔肌を噛み千切りたくなる衝動を抑え込み、歯痒くなってしまいました。

「分かってくれましたね。璃子。あなたは賢い子です」

 私は何があっても、この子を守り抜きます。たった一人の娘です。

「どうしよう……お父さぁん、どうしよう」

「後は、お父さんに任せなさい。心配ありませんから」

 私は、璃子を愛しているのです。

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