ぐちゃぐちゃ

ぼく

最悪

第1話 ああ。死んでいる

 ああ。死んでいる――。


 その少女を見下ろした瞬間、私には理解できました。

 幼稚園の運動場の隅、冷たいコンクリートの上。少女は仰向けに倒れて血の池を作っておりました。


「君、大丈夫ですか……」


 私は少女の傍らに屈み、肩を揺すってみます。少女は何の反応も見せません。光を失った瞳で、暮れかかった空を朦朧と眺めているだけです。

 その喉には、カッターナイフの刃が深々と突き刺さっています。

 少女の指先が微かに痙攣していました。


 まだ息がある――。

 いえ、ただ死んでいないだけでしょう。

 少女の肉体は現世うつしよにしがみついていました。


「し、しっかり……すぐ救急車を呼びますから」

 私は作務衣さむえのポケットから携帯電話を出し119番を呼び出しました。

『消防ですか、救急ですか』

「救急です。女の子が血を流して、倒れて――。場所は天王寺区夕暮丘……永恵寺えいけいじ内の、ゆうひ幼稚園です。私は、そこの園長であり住職でありまして――」

 よろしくお願いしますっ、と言い切り、私は通話を切りました。


 私は僧侶という仕事柄、ご遺体は日常的に拝見しています。

 だから分かるのです。

 青白く冷たい肌、薄く開かれたままの瞳。

 この子は、限りなくご遺体に近づいています。


「……この子は」


 見覚えがありました。彼女はここの卒園生です。

 名前は、藤本早織ふじもと さおりちゃん。近くの団地の子です。

 私の娘と同い年ですから、今は小学五年生。小学校へ上がって以来、ゆうひ幼稚園に顔を出した事などありませんでした。


 喉に突き刺さったカッターナイフ。

 小振りな柄を見て、私は卒倒しかけました。


【5年1組 ふかえりこ】


 深江ふかえ璃子りこ――。

 私の愛娘の名前です。

 カッターの柄には、璃子の名前シールが貼ってありました。


 その時、頭上で物音がしました。

 砂粒を踏み躙ったような、ジャリッという音が。


「……璃子。どうして」


 階段の上に、璃子が蹲っていました。

 腰を抜かして鉄柵にしがみ付き、大きな目を見開いて私と早織ちゃんを見下ろしていました。

 その目には、恐怖と絶望の色が染みついていました。青褪めた口唇が凍えるように震えています。


「お、お父さん……」

「……璃子。これは、いったい……」


 璃子は「ごめんなさい――」とぽつりと漏らす。

 スチール製の段の上に、ひたひたと水が垂れ流れています。それは璃子のふっくらした太ももの間、股の下から零れていました。璃子は膝を震わせ失禁しているのです。


「璃子!」


 私は階段を駆け上がり、璃子を抱き締めました。

 小さいながら、ふっくらとした肉体。子供から大人へ成長途中の、生命感ではち切れそうなからだです。

 璃子の肉体は熱を持って爆発しそうでした。


「落ち着いて。何が、あったのですか」


 璃子は私の胸に顔をうずめ、こう言いました。


「リコが、刺したの――」


 頭が真っ白になりました。

 見れば、璃子の指先に血のぬめりがあります。赤黒く乾きかけ璃子の手にこびり付いていました。

 璃子は「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も繰り返します。そういう鳴き声の動物のように。璃子は謝るだけで、私の問い掛けを否定してはくれませんでした。


「璃子……璃子!」

「リコ、どうなるの……。警察に連れて行かれるの?」


 私の璃子が、捕まる――。


 もう早織ちゃんは血の池に浮かんでピクピク引き攣っているだけです。

 素人目に見ても明らかでしょう。

 早織ちゃんは、きっと助かりません。


 璃子が、人を殺した――。


 子供といえども許される事ではありません。

 警察に連れて行かれ、長いあいだ施設に入れられるでしょう。施設を出ても、一生人殺しの罪を背負って生きてゆかねばなりません。

 璃子の人生は、この瞬間に崩壊しました。


「お父さん、お父さぁん……」


 私は璃子をきつく抱き締めました。

 温かい、熱い。

 生きている。

 璃子は必死に生きようとしている。

 この子を、離したくない。


「大丈夫ですよ璃子。お父さんがいるから」


 璃子の頭を胸に押し付けます。璃子は「……え?」と涙声で返しました。


「璃子は、警察なんかに渡しません。どこへも連れて行かせません。私の璃子は、ずっとここにいるのです」


 私は仏に仕える身でありながら、恐ろしい悪徳に身を染めようとしています。


「……お父さん?」


 階段の下で倒れる早織ちゃん。指先の痙攣が止まりつつあります。

 職員も園児も帰宅した幼稚園。薄暗い運動場には片付け忘れたボールが一つ転がっているだけ。

 誰も見ていません。

 ここで早織ちゃんが死にかけているのを知っているのは、私と璃子だけです。


「璃子。この事は、お父さんと璃子だけの秘密です……」


 璃子は目を見開きます。

 涙を溜め、真っ直ぐに私を見詰めていました。


「お父さんに任せなさい。璃子の人生は、お父さんが守ってあげますから……」


 早織ちゃんを隠す――。

 そうすれば璃子が罪に問われる事はありません。


 私は愛娘を守るために、悪魔のような計画を思いつきました。

 このまま早織ちゃんが死体になるのを待ち、遺体を遺棄してしまう。

 人殺しよりも許される事ではありません。

 いえ、はなから許されようなどと思っていません。


 たった一人の天使を守るためなら。

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