中野長者と白蛇の神
濱口 佳和
中野長者と白蛇の神
いまはむかし──。
武蔵国中野郷に、鈴木九郎という長者がいた。南朝の残党がいまだ世を騒がす、のちに室町と呼ばれた時代である。
九郎は伯楽──馬喰であった。
九郎は、中野郷に土地を得た。平川近くに館を建て、小作人に田を作らせる一方で、陸奥大道を往来し、さらに多くの富を築いていった。
さて、天の乱れは地に及ぶと云う。
逆も然り。
この頃、諸国で大地震、大津波、大雨と日照りがつづき、瞬く間に未曾有の大飢饉となった。数え切れぬほどの餓死者が折り重なり、語るも憚るような所業が横行した。まさに末法の世であった。
九郎の生国は西の方、山深い天狗の郷、海賊が勢いを争う紀伊國であった。なにゆえ温暖な故郷を後にし、化外の地、坂東へと、さらに雪深い陸奥へと旅立ったのか。委細は時の彼方である。
伝わるのは、九郎は親譲りの財産を処分したわずかな銭を懐に、陸奥を目指し、馬を買い、財を成した──ということのみである。
九郎は、馬を求めた。
美しい牝馬だ。色白く嫋やかで、純朴さと従順さを併せ持った馬を。
飢饉に苦しむ百姓から買い取り、江戸葛西の市にて売り捌いた。幾度も畜生道を往来し、そうして貯めた銭で贖ったのが、中野郷であった。
やがて、九郎は中野長者と呼ばれ、人も羨む暮らしを送った。娘をひとり授かり、妻はこの世を去った。
浅草観音のご利益か、子は病もなくすくすくと成長し、美しい娘となった。
その優しさ、そのたわやかさよ。
そうして、娘が十四になった春、ひとりの若者が九郎の元を訪ねた。ぜひとも、商いを学びたいというのである。
名を八郎と云った。すらりとした細身の男で、年は十八。首の辺りに鱗のような痣が三つ。生まれつきだと照れたように笑った。
馬買いの旅に伴うには、心許なかった。しかし、総じて物事に聡い若者であったため、番頭として育てようと考えた。下働きから商いを仕込み、やがて帳簿を任せるまでとなり、商いと郷村の采配に、なくてはならぬ人物となった。
老いは、誰しもが得る人生の果実である。九郎のそれは、邪推と頑迷であった。
娘が十六になる頃には、浅草詣も途絶え、館に引き篭もることが多くなった。馬喰で得た銭を念入りに撰銭し、仕分けして頑丈な箱に詰め、館の奥間に積んだ。
しかし、次第に不安を覚えるようになり、ある日、箱の一つを下男に背負わせ、館を留守にした。
翌日戻って来たのは、九郎のみであった。
そろそろ奉公を辞め、家へ戻りたいと言うので、下男には給金を持たせ、証文を破った。今頃、親と暮らしているだろう──と、言った。
その後も、三月ごとに下男が消えた。皆、銭箱を持って、九郎と何れかへ出かけた帰りであった。
──娘御を嫁に欲しい。
ある日、八郎が娘と連れ立ち、九郎へそう告げた。
寄り添う二人の姿に、しかし、九郎は首を縦に振らなかった。考える時が欲しいとだけ告げ、諾とも否とも返事をしなかった。
その晩、九郎は八郎に銭箱を背負わせ、館を出立した。隠し場所を婿となる八郎へ伝えたい──そう言った。
八郎は何も問わず、黙って九郎に従った。
八郎は足を止め、九郎へ言った。
「吾は宇賀神の使い、弁財天の化身たる石神井池の主である。かねての約定に依って従姉妹姫たる、其方の娘を迎えに来た」
そうして身を夭すと、ひと抱えもある白蛇へと変じ、鎌首をもたげ、紅い眼と赤い舌とをちろちろ見せ、九郎へ迫った。
実は、九郎の妻、娘の母は
八郎は叫んだ。
「やらぬ。約定など知らぬ。あれは儂のものじゃ。化物の嫁になどできぬわ!」
そうして隠し持っていた大鎌を振り上げると、白蛇へと飛びかかり、首を落として殺してしまった。
白蛇は何事かを呻いたが、九郎は構うことなくその身を切り刻み、川へと蹴り入れた。そうして単身館へ戻り、二人の帰りを眠らず待っていた娘へ、八郎は陸奥へ馬買いに出立したと告げた。
娘は大人しく「わかりました」と答え、寝所へと戻った。
翌朝である。
九郎の小作人が、血相を変えて飛び込んで来た。
平川が、真っ赤に染まっているというのだ。
九郎が駆けつけてみると、平川の流れが真紅に染まり、一帯に生臭いにおいが垂れ込めていた。
七日七晩、それは続いた。
臭気だけではない。平川の血水は九郎の田圃へと流れ込み、それまで青々と葉を伸ばしていた稲を、瞬く間に枯らせてしまった。野菜は腐り、井戸は底を晒した。
八日目の朝、娘は平川に掛かる淀橋に立った。九郎が白蛇を殺した、その橋である。白無垢に身を包んだ娘は、追いかけて来た九郎へ言った。
「父上様。善因善果、悪臭悪果でございます。我が夫を殺したあなた様を許すことはできませぬ。しかし、因果応報とは申せ、善良な里人を苦しめては、水の神たる我が夫、我が母に面目が立ちませぬ。この身にて穢れを清めましょう」
と、娘は朗らかな声で父へ告げ、止める間も無く川へ身を投げた。
すると、見る間に流れが澄んだ。田畑が息を吹き返し、井戸にも清水が満々と湧き戻った。そうして、血の池地獄が嘘のように、豊かな郷村へと復したのである。
九郎は、不眠不休で娘の骸を探し続けた。しかし、どこまで下っても見つけることはできなかった。
ただ一つ。下流の橋桁に麦藁の蛇を見つけ、これはと手を伸ばしたが、ふいと水底へと引き込まれて消えたと云う。
鈴木九郎は、これまでの罪業を深く悔い、小田原関本最乗寺の住職、春屋禅師に帰依して仏門に入った。
中野郷の館にて髻を落とした途端、雷鳴が轟き、南の空がかき曇った。見上げると、井の頭池、善福寺池の方角に、金銀の大蛇が絡み合いながら天へと昇っていくのが見えた。
その後、郷は平穏に実り続けた。後年、九郎は自邸を正歓寺(正願寺)とし、よき郷主として大往生したと云う。
了
中野長者と白蛇の神 濱口 佳和 @hamakawa
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