目から鱗が落ちる / 打々須 作
名古屋市立大学文藝部
目から鱗が落ちる / 打々須 作
妹の
行動力の化身のような洋子によって魚は準備されている。オレンジのエプロンをかけた鈴は鼻歌を歌いながら手を洗っている。そして何より、灯は妹に甘いのだ。鈴と色違いのブルーのエプロンをかける。まな板の上には魚が六尾。銀色の身体の腹の部分を掴んで、背中側半分だけ深い青のインクに浸けたような色だ。洋子が言うにはイワシだそうだが、魚については食べる専門の灯では、魚の種類を言われたところで何の気づきも感動も湧かなかった。まな板の上でどこかを向いているイワシたちの目は見ている側が吸い込まれそうな黒だ。『深淵を覗く時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』とはニーチェの言である。これが死んだ魚の目か、と灯はイワシの丸い目を見て思う。言葉だけなら馴染みがあるが、実物を見るのは初めてだった。
ふと視界にもやがかかって、灯は目を擦った。ぼやけた視界の中、鈴が灯を覗き込むのが辛うじて見える。
「大丈夫?」
「目に何か入っただけ……」
リビングから「そんなに擦ったら傷がつくよ」と洋子の声が聞こえたので、灯は大人しく手を下ろした。幸い、少し待てばもやは消えた。ぱちぱちと瞬きをして、灯は鈴に向き直る。
「それより鈴。手順は調べた?」
「あ、うん。ばっちり!」
鈴が満面の笑みでガッツポーズをすれば、灯もつられて頬を緩めた。
「まずは
洋子曰く「野菜なら鈴ちゃんでもできるけど、魚は危ないかなあ」ということで、鈴が捌く手順を指示する係、灯が実際に包丁で捌く係になった。洋子の懸念ももっともで、好奇心旺盛な鈴だが、どうにも手先だけは不器用なのだ。図工の時間に彫刻刀で手を怪我したのも一度や二度ではない。せっかく本人がやる気になっているのに流血沙汰、などということは灯も洋子も避けたかった。鈴も不器用の自覚があるのか、この決定には文句を言いつつ従った。洋子のスマホで調べた手順を、鈴は灯の隣で読み上げた。
「えっとね、『左手で頭を押さえて、尾びれの方から包丁で撫でる』」
「こうかな」
灯は右手に持った包丁を、イワシの腹の上で静かに滑らせた。小さな透明の鱗がぼろぼろと外れていく。
「わ、すごい!」
ぱちぱちと手を叩いて喜ぶ鈴には悪い気がしなくて、灯はそのまま黙々と鱗取りを続けた。一尾、二尾、三尾。取れた鱗はゴミ袋に入れる。四尾、五尾、六尾。塵も積もれば山となるという言葉が灯の脳内をよぎった。六尾目を表に向けたところで、灯は一息ついた。鈴が拍手をする。
「次、頭を落とすんだけど……切るだけだから私にもできるかな?」
鈴が上目遣いに灯の顔を覗き込む。目は口ほどに物を言う。「やりたい」の四文字がありありと浮かぶその顔を見て、駄目だと言える灯ではなかった。ソファでくつろいでいる洋子に目線を向けると、洋子は苦笑していた。
「やってみる?」
灯がそう問えば、鈴の瞳は
結果、灯と洋子の心配に反して、鈴はうまく頭を落としてみせたし、ぎゃあぎゃあ言いながらも内臓まで取った。この夜のメニューはイワシの開きだったので、三枚に下ろしてみたかったと鈴は少しだけごねた。
*
イワシと戯れて一晩経って、学校では夏休み限定の課外授業が始まった。友人とその場のノリで参加希望を出してしまったことを、灯は猛烈に後悔している。
疲れの抜けきっていない体が重い。全て捌き終わるまでやめられないのだから自然と下を向いたままの姿勢で長時間固まっているわけで、首を痛めるのは必然だ。しかも慣れない作業で時間がかかって、夕食の時間が普段より二時間遅れた。おかげで寝る時間も後ろ倒し、今日の灯は寝不足だ。
まだ朝とはいえ強い日差しはジリジリと灯の肌を焼き、ぬるい風が灯の頬を撫ぜる。コンクリートから立ち上がる熱気の気配を感じて、灯は更に肩を落とした。疲労に寝不足、そこに猛暑なんて重なったら灯の体力が尽きるのは目に見えている。灯は熱中症になるのはごめんだった。今にも閉じてしまいそうな瞼をこじ開ける。あと少しで裏門だ。
「宮田ー!」
背後から呼ぶ声がして、灯は気だるげに振り返った。灯に向かって手を振っているジャージ姿の男子生徒が一人。友人の
康二の後ろにも多くの生徒が歩いている。みんな同じ、灯の一本後の電車から降りてきたのだろう。夏休みだというのに、部活の後輩、同じクラスの室長、中学が同じだった先輩。灯の知っている顔が多く見えた。人、人、人……と見ていると、灯は目に痛みを覚えた。何かが入ったか、それともコンタクトがずれてしまったか。眼球の表面を突き刺すような痛みで、灯は思わず目を覆った。
慎重にぱちぱちと瞬きをすると、灯の目からほろりと何か光るものが落ちた。灯はコンクリートに落下したそれを拾い上げた。
手の爪にも満たない大きさ。手触りはツルツル。青緑色で透けていて、放射状に薄く筋が入っている。初めて見るものだった。が、灯は確信とともに呟いた。
「鱗だ」
それは間違いなく、少なくとも灯にとっては確実に鱗だった。昨日散々みたアレだ。だがイワシではない。イワシの鱗はもっと小さいし、こんな色でもなかった。灯は生き物に詳しいわけではないので、これが何の鱗なのかは皆目検討もつかないが。
「僕の目から……?」
目から鱗が落ちる。
「何か落とした?」
「あ、いや」
鱗が、と続けようとして固まる。目から鱗が落ちただなんて話を康二は信じるだろうか。だけど同時に灯は思った。この話を誰かにしたい。一緒に考えてほしい。信じてほしい。根拠なんてないが、康二なら、あるいは。淡い期待を少しだけ込めて、灯は手のひらに乗せた鱗を康二の眼前に構えた。
「これ、何だと思う?」
「……えっと、綺麗な色の」
灯がずいと手を突き出す。康二は鱗を受け取ると、光に透かしてみたり、爪でつついたりした。しばらく眺めて、康二は灯に向き直った。
「何これ」
灯はため息をついた。
「鱗。僕の目から落ちた」
康二の眉間にしわが寄る。
「……嘘?」
「嘘じゃない」
灯が断言すると、康二は頭を掻いた。
「目から鱗?」
「目から鱗」
康二がううんと唸る。
「昨日魚捌いたってLINEで言ってたろ、それのやつだって」
「イワシはこんな色してないよ」
昨晩灯は捌いたイワシの写真を康二に送りつけていた。何かしらの話題になればいいなと思ってのことだ。「捌いた」の簡素な三文字に対して康二は「すごい」の三文字で、それ以上何を話したということはないが、それがいつもの二人のコミュニケーションだった。康二はその写真を踏まえて目から鱗が落ちたことを否定したが、灯も負けじと主張する。両者一歩も譲らず、睨み合いが続いていた。
その時、グラウンドの方から大きな物音が響いた。ガランガランと、重たいものを派手に落とした音だ。灯と康二も驚いて硬直した。音のした方向を見れば、ジャージを着た女子生徒が転がっていくバットを追いかけている。長い髪を高い位置で一つにまとめた長身の女子だ。灯はああ、と声を出す。
「
膝をついてバットを拾っている横顔。垂れ目気味の穏やかな顔つき。灯と同じクラスで野球部のマネージャーをしている瀬戸ゆりだ。灯とは何度か会話をしたことがある。音の正体が確かめられて満足した灯は康二に向き直った。康二はというと、灯の方を向いて硬直したままだった。
「矢野? どうした?」
灯は康二の目の前で手を振った。二人の間に蝉の鳴く音が流れる。康二の掠れた声が灯の耳に届いた。
「今、目に」
康二の手が灯の目元に伸びて、灯は反射的に目を閉じた。
「お前の目の中に、魚が泳いでた」
灯は目を開ける。康二の指先で、青緑色の小さな鱗が太陽を反射して光っている。
「それ……」
「俺信じるよお前のこと。だってマジで目から出てきたしさ」
それから康二は下駄箱までの短い道で『魚』のことを灯に語って聞かせた。鱗と同じ青緑色をしていること。白目の中を右から左へ泳いでいったこと。黒目に収まりそうな小ささであること。灯では気づけなかったことを康二が言うので、それを基に灯も『魚』について考えることができるようになった。
授業が始まってからも『魚』のことが灯の脳内を埋め尽くしていた。プリントの隅に鱗を置いて、指でそっと押さえて、縁をシャーペンでなぞる。ガタガタした線が書き上がれば、何をやっているんだと灯はすぐに消しゴムをかけた。鱗について詳しくわかれば『魚』についても何かわかるかもしれないと思ったが、それは授業中に考えたところで進展しない。スマホで調べるという手段がないわけでもないが、今黒板にチョークを走らせているあの教師はバレた時が怖いのだ。顔を上げる。写しそびれた部分に気がついて、灯は急いでペンを持ち直した。この時間は数学、少しでも聞き逃したら苦労する科目である。生憎にも灯の席は一番後ろで、黒板からの距離も一番遠い。所々潰れて3だか8だかも区別できない数式を必死で追う。目を細めてもまだぼやける。というより余計にぼやけていく。コンタクトをつけ忘れたのではと疑うくらいに読めなくなって、灯は思わず目を擦った。
ようやく見えた、と手元に視線を落とせば、そこには二枚に増えた鱗があった。
*
鱗が落ち始めてから三日経っても、灯は目の中の『魚』を確かめられなかった。どれだけ鏡を覗き込んだところで、魚影どころか青緑色すら見られなかった。見られなかったが、仮説が一つ、あった。
あの『魚』は、灯が遠くを見る時に現れる。
康二が言い出した事だが、灯にも納得がいった。確かにこの三日、離れたところにいる人の表情がよく見えたり、一番後ろの席からでも黒板の小さな文字を読むことができたり、今までには見えていなかったところが見えるようになっていた。目の調子が良いだけかと思っていたが、『魚』のせいと考えれば合点がいく。
自室の勉強机の引き出しを開ける。中にはシャーペンや消しゴムといった文房具から、漫画の付録でついてきたシール、鈴が修学旅行のお土産に買ってきたお菓子の缶。灯はこの缶を手に取って蓋を開けた。灯の手のひらの上に収まるくらいの大きさで、中はしばらく空だったが、康二の提案で鱗を入れることにしたところ、この三日間で実に十三枚の鱗が集まった。いずれも青緑色で小さい、形こそ少しずつは違えど似たような見た目の十三枚だ。揺らすとぶつかり合ってカラカラ軽い音を立てる。ぶつかり合う鱗を眺めていると、階段の下から鈴の声が響いた。
「お兄ちゃん見て!」
声の大きさに落としかけた缶を慌てて持ち直して、灯は缶の蓋を閉めた。鈴は絶え間なく灯を呼び続けている。
「今行くから!」
「早く!」
鈴に急かされるまま階段を駆け降りる。
「見て、これ!」
玄関で仁王立ちする鈴の手には水の入った袋がぶら下がっていた。水の中を悠々と、小さな金魚が二匹泳いでいる。赤いのとまだら模様のが一匹ずつ。灯は鈴と金魚を交互に見た。そして尋ねた。
「どうした、その金魚」
「金魚すくいしてきたの。今日お祭りだから」
ああ、と灯は頷いた。毎年近所の公園で開催されている納涼祭だ。灯はもう何年も行っていないが、金魚の屋台があることはよく覚えていた。
「すくえたの? 鈴が?」
幼い日の灯は、金魚すくいでもスーパーボールすくいでもすぐにポイを濡らして破いてしまった。そんな思い出から、灯はてっきり鈴の方も、金魚すくいは無謀な挑戦だと考えているものだと思っていた。そんな灯の思考を知ってか知らずか、鈴は金魚を得意げに見せつける。
「すくえたの!」
どこからともなく水入りの水槽を持ってきた洋子が、水にカルキ抜きを数粒放り込んで言った。
「鈴ちゃん、魚には縁があるのかもね」
そういう経緯で、宮田家に二匹の家族が増えた。もしかするとこの金魚が何らかのトリガーだったのかもしれない。その後灯の目から鱗が落ちることは無くなった。
その事実に気がついた灯が缶の蓋を開けた時には、缶の中に鱗なんて一枚も入ってはいなかった。その代わり、金魚の水槽の底の部分にごくたまに、金魚のそれとは全く違う青緑色が光っていた。
目から鱗が落ちる / 打々須 作 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei
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