オレンジ搾りたい
村のはずれにある小さな小屋に住む少女ミアは、薬師を生業としながら慎ましい生活を送っていた。去年までは祖母が共に暮らしていたが、その祖母も高齢ゆえ今年の春先に空へと旅立ってしまった。淋しさは未だ消えないが、それでも彼女は前を向いて生きていこうと、健気に日々を送っている。
―笑っていれば、なんとかなるよ。
それが大好きな祖母の口癖だった。
「おばあちゃん、いってきます」
日課となった祖母の墓前への挨拶を済ませると、形見のバスケットに今日村に届ける薬を入れて家を出た。鼻歌まじりに畦道を下っていけば、すぐに並んだ家々が見えてくる。
まずは、パン屋のステラおばさんの家。いつもパンのいい香りでいっぱいだ。三回ドアをノックして、「ミアです、薬を持ってきました」と告げる。そうすれば、少しするとおばさんが焼きたてのパンと共に出てきてくれる。
「いつもありがとう、ミア」
「こちらこそ。おばさん、昨日話していた通り、少しだけ痛み止めを増やしておいたわ。だから飲む回数に気を付けてね。一日三回までよ」
「あぁ、わかった」
昨日から患部をさする仕草をおばさんは見せていた。口で言うよりも案外症状は悪いのかもしれない。心のメモに書き留めた。こうして彼女は実際に話をして、その人に合った薬を日々調合して届けている。その甲斐あってか、評判も上々。ミアの薬のおかげで持病がほとんど出なくなったとさえ言われるほど、村の人々にとっては欠かせないものになっているらしい。
「今日の薬を飲んでみて、また様子を聞かせてね」
ひとまず今回分を渡すと、おばさんはいつものように、ほんの少しだけだけど、と言って焼きたてのパンが入った袋を差し出してくれた。薬代としてもらっているものなので、ミアも有難く頂戴する。これは祖母の代からのやり方だ。もちろん、最初はみんなお金を払っていた。だが、そういった金品に興味のない祖母は、最低限の物々交換で充分だと言ったらしい。そんな祖母の背中を見ていたミアなので、彼女もまた同じようなやり方をしている。
「おまけにクッキーも入れておいたよ」
「ありがとう!パンはもちろんだけれど、おばさんのクッキーも大好き!」
受け取ったパンをバスケットにしまうと、もう一度お礼を言ってからおばさんの家を後にした。それから同じように、野菜売りのシドおじさんにはトマトとトウモロコシを、その隣の貸本屋のトットおじいさんからは最近入った本の話と朝採れのタマゴをそれぞれもらった。
そうして用意していた薬がひと通りなくなると、今度は村で一番大きな屋敷へとミアは向かった。邸の裏でぴぃぃっと指笛を鳴らすと、しばらくしてミアよりも少し年上の青年シオンが勝手口から姿を現した。
彼はここの一人娘のボディーガードとして働いている。この時間だけは自由に動いて良いらしく、こうして合図を贈れば顔を出してくれる。
「ミア!今日は遅かったな」
「ごめんなさい、トットおじいちゃんのお話につかまってしまって」
「あぁ、あのじいさんか。話し出すと止まらないからなぁ」
お互いに顔を見合って笑う。彼とミアはもともと幼馴染だった。だが、数年前にやってきたここの領主の娘に見初められて、有無を言わさずここで働くことになったのだ。以来、こうして会える時間はほんのわずかに限られるようになってしまった。
「今日はステラおばさんにクッキーをもらったの。だから半分お裾分けに来たわ」
「おばさんのクッキーか!僕も好きだから嬉しいよ。今度代わりにお礼を言っておいてくれ」
ミアがバスケットから小さな包みを取り出して手渡したとき、二人の手がちょうど重なった。驚いてシオンの顔を見ると、悪戯を思いついた子どものように笑っている。また二人は視線を交えて笑った。ちょうどその瞬間、屋敷の中からけたたましいベルの音が鳴り響いた。
―ジリリリリリリリィ
それは、シオンの主である領主の娘が彼を呼びつける時のベルの音。今日はいつもに比べて呼び出しが早い。大きなため息をついて、シオンは苦笑した。もう行かないといけないな、と。
「身体には気を付けてね」
「あぁ、ありがとう。ミアもあんまり無理しすぎるなよ」
名残惜しそうに距離を取る彼。雇われ人という立場なのだから致し方ない。言葉にせずともそれは二人とも重々承知している。頭では理解しているけれど。
「……ミア!」
帰路へ足を向けようとした彼女の腕をつかんで、シオンは半ば強引に抱き寄せた。
「……ミア、僕が愛してるのはキミだけだ」
「ありがとう。……私もよ」
最後の時を惜しみながらも、残された時間はあとわずか。触れるだけのキスをして、二人はつかの間の逢瀬に別れを告げた。
それから数日後。いつものようにミアが薬を届けようと村へ向かうその途中、ステラおばさんが血相を変えて駆け寄ってきた。
「ミア!今すぐ逃げなさい!」
言葉の意味が分からず、ミアはどうすることもできなくてその場に立ち尽くす。
「村中をゴロツキや警邏隊があんたを探し回ってる。見つかったら殺されてしまうよ」
「どういうこと?私は何もしてないわ!」
「……だろうね。赤ん坊の頃からあんたのことを知っているから。信じてやりたいけど……今はこれが精いっぱいなんだ」
詳しく説明している時間はどうやら無いらしい。とにかく今は逃げるしかない。家の中に戻るか、そのまま村を出るか逡巡していると、目の前にはいかにもゴロツキだとわかる風体の男たちが三人、すでに立ちはだかっていた
「村はずれの魔女ってのはアンタか」
「いいえ、人違いだわ」
「まあ、誰でもいい。たとえ別人だとしても、本物だと言って差し出せばいいだけだからな」
中央に立つ男がリーダー格らしい。左右のふたりにやっちまいなと顎で合図をすると、二人は慣れた手つきであっという間にミアを後ろ手に縛りあげた。それに気を取られていた彼女は、正面からの男に反応できず、見事に鳩尾へ一発くらってしまい、そのまま意識を失ってしまった。
再びミアが目覚めると、暗くて狭い、石で出来た一室に閉じ込められていた。眼前には叩いてもびくともしなさそうな鉄格子。要するにここは牢屋だ。
―どうしてこんなことに……
考えたところで答えが出るはずもない。正真正銘、ミアは潔白なのだ。なんとかしてそれを証明しなければと腹を決めたその瞬間、鉄格子の向こうに一人の少女が現れた。
「村はずれの魔女さん、はじめまして」
いかにも自尊心の高そうなこの少女、直接の面識こそないものの、誰であるかは知っている。領主の娘のアンだ。勝ち誇ったような表情でミアを見下している。
「お前のような、わたくしの大切なものに手を出したドブネズミにはお似合いの場所ね」
「……え?」
「しらばっくれるつもりですの?妖しげな魔術を使って誑かしたのはお前の方でしょう?」
そういうことか。ようやく合点がいった。アンにとってシオンはただの使用人ではなく恋人で、それなのにミアが横恋慕してきたと思い込んでいるのだ。だからこそ、これ見よがしにシオンを呼びつけ、その腕に絡みついて猫なで声を出している。
「ねぇシオン、貴方が愛しているのはだぁれ?」
「……もちろん、アンお嬢様です」
本心ゆえにミアに負い目があるからなのか、それとも何か弱みでも握られて言わされているのか、本当のところはわからないが、彼は死んだ魚のような虚ろな目でミアを見つめている。理由はどうであれ、シオンは諦めてしまったのだ。心を捨て、権力に抗うことを。
「明日にはお父様が直々に裁きをくださるそうよ。せいぜい自分の罪を悔いるといいわ」
高笑いでもするように、スカートをくるりと翻してアンはシオンの手を引いたままその場を後にした。裁きが下る。それはつまり、間違いなく命の保証はないのだろう。一人残されたミアは天を仰ぎ、大きく息をつく。そして、神に祈りを捧げた。
―神様、どうか彼の人生が幸せでありますように
翌日の早朝、群衆の中心には木製の太い柱と、その周囲には藁が撒かれていた。
「我が愛娘の心身を深く傷つけた罪により、魔女ミアを火刑とする!」
溺愛した娘の言葉以外は耳に入らないのだろう。真偽も確かめぬまま、領主は声高らかに宣言した。縄で両手を縛られたミアが刑吏に連れられてやってくる。群衆がしんと静まり返った。皆、彼女が冤罪だということはわかっている。だが、それを声に出すことはできない。生活を、家族を、そして自分を守るために。領主に逆らうことなどできない。明日は我が身だからだ。
柱に縛られている間も、ミアはそれらを眺めてじっと黙っていた。決して騒ぐこともせず、命乞いもせず。だた、凛とその場に臨んでいた。
「最期に言い残すことはないか」
刑吏は問う。わずかばかりの温情だったのだろうか。ミアはもう一度辺りを見回して、固唾をのむ群衆の中に彼の姿を見つけた。そしてそっと微笑んで告げた。
「搾った貴方のオレンジは、どんな味がするのかしら」
間もなくして放たれた火は、あっという間にミアを飲み込んでいった。
その後、人々は魔女に魅入られた人の魂をこう呼んだ。搾ったオレンジ、と。
完
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