第33話 信じる

「人は恐ろしいな」

 水鏡は赫天の様子を見て呟いた。赫天は母の元にいた頃から激しいきょうだいだった。持っている力も性質も激しく、いつでも注目を集めているのに、誰かが他に関心を移すだけで憤った。安定と退屈の区別がつかない。水鏡を嫌っているのに、水鏡からの関心がないと嫌がった。水鏡が他のきょうだいと親しむのも許さず、水鏡の何もかもを否定し、何もかもを奪いたがった。嫌がられることより無視されることをさらに嫌った。

 それでも水鏡は決して赫天が嫌いではなかった。すべてが自分の理解の外だったが、それを面白いとも思っていた。だがいつまでも何一つうまくかみ合わないままだった。水鏡はすべてを愛していた。母も、きょうだいも、人も、獣も、湖も、風も、土も、緑も。水は存在自体が愛に似ている。

 赫天とも慈しみあいたかった。赫天の望むものがいつもわからなかった。与えられた地を治め、それぞれの神々で労わりあうことを母には期待されていた。それが自分の役目なのに、果たせなかった。母の元を離れ、きょうだいたちと別れ、本当には誰とも愛し合えることはなく、赫天とは近くにいても心は遠いまま。距離の縮め方などわかりはしない。何もせずとも愛し愛されていたから、愛されない相手の愛し方も、愛され方もわからない。

 それがずっと続くのだと思っていた。何もかもを愛してはいるが、遠い。赫天の国が荒れ、自らの国が安定している。心痛むが、ただ今このときのことに過ぎない。火山は噴火することもあれば、川が溢れることもある。多くの民の命は失われるだろうが、国は続く。赫天の地が栄え、水鏡の民が飢えることもあるだろう。どちらも大したことではない。続いていくのであればそれでいい。あまりにも災害が大きければ力を使って均衡を取り戻すこともある。その際にはずみで人命が失われることも仕方がない。すべては些細なことだった。大きく心を揺らされることもない。水鏡は小さな愛しい猫に心の慰めを見出し、永遠に近い停滞を生きていた。

 そのはずだった。だがどうだ。水鏡の寵を失うのを恐れて村人は自分たちの小さな娘をためらいなく差し出した。水鏡が本当に望んでいるのかを確認することもなく。水鏡はその娘を拾い上げ、救うために伴侶とした。なんとなく。気まぐれ。暇つぶし。ただ、憐れに思っただけだ。きっと自分はもう誰かを伴侶に望むことなどないのだ。特別に愛し愛される相手など見つかりはしない。こんなに小さな娘が、同胞に裏切られ殺されるのは、一体どれほどつらいことだろう。この神である身でも、きょうだいとの不和に心を痛めるのに。

 水鏡は宵がどんな娘でもかまわなかった。だが宵は、面白い娘だった。面白い姿。面白い心。痣があることでつらい身の上にあったのに、痣を消すことを嫌がる。自らを省みることがないのに、誰に何を言われようと決して揺るがないものを持っている。外との交流を避けた村で、虐げられて、どうしてこのような心が生まれたのだろう。種からは想像もできない花が咲いている。宵がいれば、水鏡は退屈を知らないだろう。宵と鈴が楽し気に戯れていると、水鏡は幸福だった。ただの手慰みの楽しみとは違う、本当の幸福だ。ほんの幼い頃にしか覚えのない、母から離れた自分にはもう決して手にすることがないと信じていた幸福が、宵と鈴、愛らしい二つの命によって戻ってきた。この力弱い命たちから水鏡は失ったはずのものを取り戻した。時を巻き戻しでもしなければ手に入らぬはずのものを。

 そして赫天。赫天は自分を憎んでも、神としての領分を犯しはしない。水鏡も当然それを知っていた。赫天の憎しみは理の中に囚われた憎しみに過ぎなかった。それを理から解放し、別の理に従わせたものたちがいる。神の理を知らぬではないのに、踏み越えたのだ。弱く脆い者たちだが、神の禁忌を恐れない。

 永く生きてきた。あらゆるものを見てきた。何もかもを知った気でいた。

 人は弱い。すぐに死んでしまう。

 だが、水鏡の理解を超えるのだ。これまで存在しないものを、人は作る。想像もできないおぞましいこともすれば、おそらく、その逆のこともしてみせる。

 永い過去があり、過去に似た今があり、過去と同じ永さの未来がある。

 水鏡にとっての生はそういうもののはずだった。だが、今は違うと知っている。思い知らされていた。

 過去と同じ未来が来るとは限らない。想像もできないほどおぞましいものを見ることになるかもしれない。人が神をとらえ、別の神を弑そうと試みることなど、神々の誰が考えた。

 そして今、水鏡は自分の前に立つ娘を見る。弱い生き物の集まりである村の中で、一番弱かった娘。一番憐れだったから救った娘。伴侶としたのは、誰が伴侶になっても同じだろうと考えたからだ。小さな鈴と、この憐れな痣のある娘は水鏡にとってほとんど同じだった。なんの期待もしていなかった。宵は無聊を慰めてくれた。今後も面白いことをたくさんしてくれるだろう。それだけで十分だったのに。

 自分を殺した村を見捨てられないとみなそこを出て、自分より強い水鏡を守るためにおぞましい火の神に立ち向かう。

 水鏡が一人であれば、赫天に敗れるのも仕方がないと受け入れただろう。母に託されたとは言え、想像もできない事態が起こればただ受け入れるほかはない。おぞましさにも他の神に支配される苦痛にも、水鏡は慣れてしまうだろう。母や他の神からの救いがどこかから来るまでただ何もしなかっただろう。地が汚れようと民が虐げられようと、心は痛めても抗うことはなく。できないことはできない。仕方がない。

 だが、今はたとえ何があっても、負けるわけにはいかない。ずっと均衡を保ってきた水鏡の心の奥底が波打ち、渦巻く。知らない自分。知らない感情。それが、小さな娘に向かっている。とるに足りない弱い存在だったはずだ。自分に属している娘。だがすべてが自分の意図を超える娘。水鏡を守ろうと、矢を向けられても、赫天の怒りに晒されても、痣のある小さな顔を青褪めさせ、細い肩を震わせて、それでも立っている。

 宵。私の妻。お前のことがわからない。お前を思う私のこともわからない。お前は世界を複雑にする。知っているものすべてを覆す。私は混乱している。快適ではない。そんなのは私ではない。でも、これが私なのだとも強く感じている。どうしてこんなことになる。わからない。戸惑っている。

 わからないから、もっと見ていたい。いや、違う。ただ、この娘を失えない。お前が生きていれば、それだけでいい。お前が何をしていても構わないのに、お前が損なわれることだけは許せない。何があろうと、絶対に、私はこの娘を守る。感情に支配される。身体の隅々にまで力が漲る。攻撃のために力を使うことなどなかった。だが、今は何でもできるのがわかる。力と身体と心。永い時を過ごす中、それらはただ漠然と存在していたにすぎない。今はそのすべてがくっきりと鮮やかになっている。自分の色が濃くなっている。

「悪く思うな」

 赫天に言う。考えてみればこれも憐れなきょうだいだ。何を持っても満たされない。民に恐れられても愛されることはない。

 でも、もういい。水鏡にとって、もう重要ではなかった。濃淡はあってもみな同じ色の愛に塗られていた世界が、宵に塗り替えられた。水鏡の世界の光は宵だった。宵を害するのであれば、躊躇うことはない。今、宵を守るためなら、赫天を斃すために全力を尽くす。

 冴えた目で、赫天を見る。勢いはあるが、その実すでに弱っている。人に操られていること、自らの地から離れていることで、神の力の源泉である母の力を失っている。人には赫天の力を操ることは出来ても、神の力そのものを供給することはできない。あと何度か赫天が炎を出せば、力が尽きてしまうだろう。

 そこまで持ちこたえられるか。

 水鏡の力はどちらかというと守りだ。赫天の全力の炎に対して水に出来ることは多くない。一対一であれば負けないが、水鏡は今、決して損なわれてはならない宵と、なるべくなら守りたい兵があった。弱い人を炎から守るのはたやすいことではない。

 では、人でなければどうだ。

「宵」

 水鏡は微笑んだ。奇妙な結論にたどり着いた。

「はい」

 宵は水鏡に背を向けたまま答えた。震える細い声。弱い娘。お前をなんとしてでも守りたい。

「赫天の炎を抑えてくれ」

「……それは、」

「お前にしかできぬ。私と、民を守ってくれ」

 宵が息を呑むのが聞こえた。

「はい」

 力のこもった声だった。この娘は私を守ろうとしている。

 お前を守るために、お前に私を守らせる。弱いお前の強い心を信じる。やはり、わけがわからない。でも、こうするしかないのだ。

 そして、なんとしてでも生き残る。

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