第32話 憎しみと炎
赫天の怒りは目の前の娘に向かっていた。
水鏡のことが憎かった。遠い昔から、一つの神として力と名前と守るべき地を与えられたときから、憎かった。時に強く燃え上がり、時に静かに燻っていても、永い永い時で、一度も憎しみの火が消えることはなかった。赫天という存在は常に憎しみとともにあった。もっとも、それが常なのだから、憎しみが赫天に何かの行動をとらせたりはしなかった。ただ火の山の中でまどろみながら、雨が降るたびに水鏡のことを思っていた。
憎しみに特別な理由などなかった。ただ初めから赫天の中では水鏡についての何かが燃えていた。水鏡の怜悧な面差し、自分に好意的な存在や自分より優れたもの以外への圧倒的な無関心、それでいて誰に対しても優しさは振りまくところ。それらすべてが憎かった。
水鏡は母のもとで多くの神々が子としてまどろんでいる頃から、赫天を憎んではいなかった。そして、愛してもいなかった。反抗的な赫天をただ不可解な存在として、困惑していた。おそらく赫天と同じ母から分かたれた存在でなければ、水鏡は赫天のことなど名前も憶えなかっただろう。他の神々には優しく細まるあの水の色の瞳が、自分に対してはそっと伏せられ逸らされる。赫天は水鏡の目を見たかった。そこに何が映っているのかを知りたかった。だが望んだことは言葉にはならず、ただ水鏡に目を逸らされたことへの怒りだけを唇は紡ぐのだった。
赫天のこの異様な激しさは神には珍しい。だがそう生まれたのだから、そう生きるしかない。憎しみと怒りと激しさ。それが赫天という存在だった。そして、その民もその性質を受け継いだ。赫天の民は激しく愛し、激しく欲し、激しく憎んだ。赫天は民を愛した。熱く燃え、考えられないようなことをして、飛び上がり、そしてすぐに消える。人の命は火花に似ている。赫天はその儚さも含めて人を愛した。火花はすぐに消えるが、誰かの熱がまた別の誰かに火をつける。
民は一つ一つの命ではなく集団として熱を持ち続けた。自らの地から得られるものを奪い、民同士で奪うために争い、さらに多くを欲した。水の神に治められる静かで豊かな地に焦がれた。だが、他の国から奪うことは禁忌だ。神々の母は寛容だが、子供たちが争うことを深く嫌った。赫天もまた神であるために、水鏡への憎しみを持ちながらも侵攻する気はなかった。もとより侵攻などという発想がなかった。それは神にとって決してありえない選択、そもそも存在することのない選択なのだ。そして最初の、赫天の火を直接受けた民にとってもそうだった。だが赫天の火は民の命を使って受け継がれ、初めとは似てはいても違う火になっていた。自らを焼くのではなく、別の国を焼き尽くしたいと願う火。
神に与えられた火は人々の中で神の火を、ある意味では超えた。小さくとも燃え続け、あらゆる種類の憎しみ、あらゆる種類の企みを引き継いだ。そのうちに、赫天の持つ禁忌さえ焼き尽くす方法を見つけた。多くの無垢な幼いものの命を炎に捧げ、赫天の炎を穢し、赫天の神としての理を重んじる心を焦げ付かせた。
治める神にも似て豊かで穏やかだが、悪意というものを知らないが如くの隣国に、時間をかけて民を送り込んだ。火の国のことも研究している学者の一族として火の民は国の中枢にも入り込めるようになった。火の国にいるときよりよほど手厚く遇された。水鏡の国は居心地がよいが、その民の穏やかな、半ば眠っているかのような表情がもぐりこんだ火の民の憎しみを燻らせた。水の民の国は警戒というものを知らず呑気だが、それでもその基盤は強固で、なかなかつけ入る隙を見せなかった。それでも燻った、もはや最初の理由もわからない憎しみが、火の民を諦めから遠ざけた。埋もれた火は燃え上がる火よりも熱い。
水の神が生贄を得ていない。都にたどり着いた娘が齎した知らせに、燻った火が燃え上がった。すぐに鳥を飛ばし馬を潰し、兵を動かした。今、このときだ。燃やすものを見つけた火はもう止まらない。慎重に行くべきだと言う発想はなかった。もう火は燃えている。ここで行かなければまたいつまでも燻り続けるのか? もうこんな機会はないかもしれないのに。それに、もうすでに限界が来ていた。赫天が人の手に落ちたことで、国の均衡がすでに保たれなくなっていた。ここで水の地を手に入れるか、憎悪とともに全てが燃え尽きてしまうか。
やるしかないのだ。やめることはできない。恐れても仕方がない。ただ前に進むだけだ。
正気を失った赫天を連れ、兵たちを湖に進めた。水鏡を棲家であるみなそこから、村を襲うことで引き出し、襲う。民と同じように、いや、民が水鏡の性質を反映しているのだが、水鏡は争いを嫌う。ここなら勝てるはずだった。すべてを奪う。そして、水に愛されている豊かな地を、炎で支配する。
計画を立てたというより、燃え盛る憎しみにあとから理屈と道筋を与えただけだ。だから計画と違った時に、修正するという発想はない。
情報の通りに村は存在した。火をかけた。村は燃えた。だが、水鏡は力を失ってはいなかった。それどころか、水鏡の力を分け与えられた伴侶が現れた。
神が心から望んだとき、たった一つの魂だけに与えることができる伴侶という立場。ほとんどの神に伴侶はいない。神はほとんど恋などしない。老いることもなく病みもしない存在であり、ほとんど永遠に生きる神にとって死と同じぐらい恋は遠い。水鏡が花嫁に恋をして伴侶にしたわけではないと赫天は知る由もない。ただ、神にとって半ばありえないと思われていた恋を、水鏡が手にしていたという事実が、もう憎悪しか生み出さない赫天の焦げ付いた心に、さらなる憎悪を吹き込んだ。
そして、伴侶である小さな娘は、水鏡を守ろうとしている。
そのことが何より許せない。
この娘を燃やす。水鏡を燃やす。この国も、自分の国も、この世界も、何かもを燃やし、炎に返す。初めからうまく行かなかったこの生を、そうしてもう一度やり直す。そうして今度こそ、今度こそ、きっと、きっと、なんだ? わからない。自分は何を望んでいる? 母から与えられた炎。初めはただ楽しみだった。喜びとともに炎は燃え上がった。きょうだいたちが騒ぐのも楽しかった。きょうだいたちの中でももっとも強い火を与えられ、もっとも苛烈に生まれついた。きょうだいたちも自分を恐れた。いい気分だ。だが、もっと愛されたかった。どうすればいい。愛はどう奪える。水鏡、こっちを見ろ。お前を焼き尽くしたい。初めから気に入らなかった。お前は私より美しい。何も求めないのに、すべてに満たされたように微笑んでいる。私はお前の持っているものが欲しい。お前は私を愛さない。私を愛さないなら、誰も愛すな。その娘はなんだ。何故お前だけ愛される。許せない。燃やしてやりたい。すべてを。
赫天は天に吠えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます