第31話 もう一つの神

 何も起こらなかった。

 あたりはまた静まり返った。清々しい、日の始まりの静かな明るさが漂う。清涼な気配に、人々は、そして水鏡は目を開ける。

 対峙する神、水鏡と赫天の間に、もうひとつの神が立っていた。

 黒い長い髪。白い小さな顔に、夜の色の痣。夜の名前を持つ少女。

 神の伴侶にして、神の力を分け与えられたもの。


 宵。


 宵は赫天と水鏡の間に立ちはだかり、赫天の炎が水鏡を焼くのを防いだのだ。

「宵……」

「怪我はないですか、水鏡様」

「ああ……」

 水鏡は傷一つ負ってはいなかった。だが何かに、ひどく打ちのめされていた。目の前に立つ小さな娘。あの満月の夜、交わしたことさえ忘れた約束のために、自分に与えられた小さく弱い、憐れな命。変わった姿と変わった心を持つ奇妙な娘。挫けた心を持ちながらも、その奥底にいたわりと、水鏡にもわからぬ何かを隠し持っている娘。水鏡が拾い上げ、ただ守ってやるために妻にした。

 夫の自分が帰れと言ったのに、自分を虐げ殺した村のためにここに残ると言った。意味がわからない。子猫の鈴の心が本当にはわからぬように、言葉は通じてもこの娘のことがわからない。

 その娘に今、守られた。

 みなそこから地上への道を開いたように、水鏡の力を宵も使うことはできる。伴侶だからだ。だから赫天に相対することだって、出来ぬことはない。道理は通る。だが水鏡はそんなことを想像もしていなかった。水鏡にとって人は弱く、人の中でも宵は弱い。心正しい弱い娘だ。子猫の鈴と同じで、その細い腕では自分の身一つ守れない。守ってやらなくてはならない。

 何もわからない。

 宵は腕を抑えていた。力を持つとは言え、水鏡ほど使い方を熟知しているわけではもちろんない。赫天の炎を押しとどめはしたが、人の身から神へと変じたばかりの宵には荷が重かった。ぶつかり合った力の余波で細い身体は震え、恐怖で肌は青ざめている。赫天ほどの異様さも、水鏡ほどの澄み渡る美しさもない。ただの弱った人の娘のように、人々の目には映った。おそらくあの娘を攻撃すれば、水鏡も弱る。

「やれ!」

 隣国の兵のうちの誰かが叫んだ。赫天の炎の暴走を防いだのが目の前の娘であることはほとんど頭になかった。圧倒的な力に子供のように震え、ただ無力な存在に落ちぶれた記憶を振り払うために、弱いものに暴力を奮いたかった。自らの力を信じるため、何か一つでも収穫として持ち帰りたかった。

 赫天の民たちは弱った腕を動かして、矢を射る。それが合理的かどうかの判断を下すより前に、兵たちは憎悪に突き動かされていた。その行動は、水鏡をわけのわからぬ神から守るために必死だった宵の目には当然入っていない。

 自らの民の攻撃、あるいはその意思に、赫天は気づいた。一言吠えると、矢が燃えた。人と神の憎悪によって燃える矢が一斉に宵の小さな体へと迫る。

 力を奮ったばかりの宵がそれに気づいたときにはすでになすすべもなかった。自分の身の守り方など知らない。ただ身を強張らせていると、火が消えた。あたりの空気が湿っている。

 水鏡様の力だ。

 振り向かずとも宵にはわかった。水鏡が力を使うと、宵にもそれは伝わる。二人の力は同じものを分け合っているのだ。

 水鏡に守られたことで、宵は顔を上げた。鈴とともにみなそこに帰れと言う水鏡の指示に、宵は従わなかった。あれだけ恩のある相手の言葉を無視した。そのために、宵は水鏡から見放されると思っていた。水鏡が知る由もないが、宵にとっては他の誰かとのつながりはそのようなものなのだった。従わなければ簡単に切れてしまう。

 でも違う。水鏡様はそれでも自分を助けてくれる。

 生まれた時からしみ込んだ自分という存在への否定が、それで消えるわけではない。それでも、これまでとは違う何かが宵の心に触れた。あたたかいような、優しいような、それでいて痛いような。水鏡といるといつもそうだ。決して手に入らないはずのもの、望むことさえなかったものを、水鏡は簡単に与えてくれる。神だから、では、きっとない。水鏡だから。この世界にたった一つしかない存在。

 だから。

 絶対に水鏡様を守る。

 相対している存在が自分よりはるかに大きいことは、宵にだってわかる。自然の無慈悲な脅威に神の憎悪までもが加わって、威力を増している。ただの人間なら立っていることさえできない。水鏡を脅かすほどのものだ。でも、だからこそ、ここで水鏡に任せて身を引きたくはなかった。自分に力があるのなら、立ち向かって、守りたい。愛する小さな鈴を守りたい。同じ腹から同じ日に生まれたのに違う立場になり、心通う機会もなかった妹のことも、守りたい。自分を虐げ、殺した村人たちだって、守れる力があるのなら、守りたい。そして、水鏡のことは、仮に自分に力がなくとも、守りたい。

 諦めの中で生きていなくていいことを、水鏡に教えてもらったのだから。大切な相手だから、守りたいのだ。水鏡にとってはただの気まぐれでも、宵にとっては自分の命よりもずっとずっと重いものをもらった。

 自分の何を犠牲にしてもいい。神の争いに加わることが間違っていてもいい。一つの意思を持つ存在として、自分の信じることをする。

 与えられたばかりの力は宵の弱い心に見合っていない。宵は兵の殺意が恐ろしかった。全てが終わったあとに、自分を殺そうとしていた村人たちと向き合うのも恐ろしかった。何より赫天の姿と力、憎悪が恐ろしかった。水鏡に余計なことをしたと思われるのも恐ろしかった。身の内にある得体の知れぬ強い力も、恐ろしかった。本当は可愛い鈴を抱きしめて、目も耳もふさいでなにもかもが終わるまでみなそこで震えていたかった。水鏡が宵に望んだように、忘れ去られたものとして、そうしていたかった。死んでいるはずの宵がそうしても責められることなどない。

 でも、そんなことはできない。宵は強くなったわけではない。いまだに宵の心は弱く、怯えている。弱い心を持ったまま、ただ震えて、それでも立っている。

 恐ろしくとも、立ち向かう。

 誰に望まれたわけでもない。自分でそう決めたのだ。

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