第30話 神と神
その火は赤く、強い。目の奥を灼け焦がすような強烈な光。水鏡のひえびえとした静かに澄んだ力とは違う。向こうから襲い掛かりなすすべもなく焼き尽くしてくる。森から上がった火に、凍り付いていた人間たちはまともに考えることもできず、ただ逃げた。逃げることしかできない。火はただ燃えている。小さな人間たちにはそもそも関心などない。ただ火は燃える。森の木の葉を焦がすことも、人を焼くことも変わらない。だが無目的に燃えているわけではない。
神の火には意思がある。人間にさえ、それは感じ取れる。
怒りと憎しみ。燃え上がり、焦げ付いている感情。人間の持つものと変わらない、だが強烈で、膨大な感情。
水鏡に向かって、森を焼いて進んでいく。水鏡は白い髪を熱風に煽られ、その美しい白い顔の全てを露にした。炎に照らされて赤く染まったその顔は優美で、小さい。その口元には、宵も見たことのない表情が浮かんでいた。
宵の知る限り、水鏡はいつも宵と鈴の様子を伺っていた。優しく、みなそこの主として、そこにやってきた子猫と小娘の庇護者として振舞っていた。強く超然とした神。
それが今はどうだ。頼りなく、弱く、まるで、そう。
人みたいだ。
迫る炎は一つところに集まり、形を作る。水鏡は目を細める。
自らの熱に焼かれ、痛みにのた打ち回るかのように炎は次々に形を変える。そのうちに、形が定まってくる。人のかたち、いや、神のかたちだった。赤く逆立ち燃える髪を持ち、皮膚は黒い、ようで、違う。よく見ると焦げ付いているのだった。その中に穴のような目が二つあり、そこではまた赤く何かが燃えている。人ではありえないが、これが神であるとすればあまりにも禍々しい。姿だけでもおぞましいが、どこか人の心をとらえる醜さだった。美しさの欠如ではなく、醜さとして完成されている。
「赫天。久しいな」
水面が揺れるような声で水鏡が呼ぶ。涼やかというよりも、冷たい声。
「しかし何故来た? 私はすでにこの村への関心を失っているが、だからと言ってお前が領分を侵すのであれば力で応じるぞ」
赫天と呼ばれた神は、ただ唸り声で答えた。唸りの摩擦が空を焦がすような、不愉快な呻き。憎しみ、妬み。それらを示すためには言葉はいらない。
「私たちは母君からそれぞれの国を、その民を守るために地に遣わされた。お前のしていることはなんだ」
水鏡は首を振り、続ける。
「お前の国の人心がどれほど荒れていることか。母君も嘆かれるぞ」
そこまで言って、嘆息する。
「と言っても、わかるまいな。なんということだ」
水鏡の言葉は、赫天を鎮めるどころかさらに怒りを煽った。炎に息を吹き込むように、水鏡の言葉で赫天の髪が燃え広がる。空気が焼けこげ、その場にいる人間たちの皮膚をちりちりと痛めつける。水鏡は熱さを感じた様子はないが、その感情に圧されたように眉を顰めた。
ゆるりと白い手を挙げる。
「早くお前の民ごと立ち去れ。さすれば私も手を出さぬ」
その言葉は話者の意図を伝えるという点では何の役にも立たなかった。ただ水鏡のその平静な、赫天を煩わしがっているような態度、言葉一つで相手を制することができると信じているかのような態度だけが伝わった。赫天の怒りは燃え上がった。
その怒りと熱の強さには、人間の意思は及ぶべくもない。隣国の兵たちさえ自分の身を守ろうと縮こまるだけだった。逃げていた村人たちも熱さのあまり動くことができない。森の乾いた葉がいつ燃え始めるのかもわからない。
ここで自らの意思を示すことができるのはただ神だけだった。
「聞いていないぞ……こんな……」
隣国の兵の内の誰かが小さく呟いた。それまでどこかに漂っていた不遜な、蹂躙の余裕が消え失せていた。今赫天にとって人は森と同じ背景に過ぎない。自分の民という意識もなく、ただ憎い水鏡とともに燃やし尽くしてしまいたい。
対する水鏡はふと兵の様子に目を留め、何事かを了解したように頷いた。
「まあ、よい。とにかく一度はお前を止めないとならないということだな」
水鏡はすっと水面が静まるように姿勢を正した。その途端、燃え上がっていた空気の熱も下がり、風のない夜のような涼しさになった。人々はみなほっと息をつく。敵も味方もない生理的な安堵。空気を支配下に置いた水鏡は、目を細めた。
「ほら、来い」
沈黙を深める密やかな呼びかけ。赫天は燻るように静かにそれを聞いていた。燻る火は燃え上がる火よりも熱い。
水鏡は動かぬ神に微笑んだ。
「臆したか?」
燻る火が炎になる。赫天の髪が燃え上がる。水鏡は揺れることのない眸で見据えている。神と神の対峙。
赫天から炎が吹き上がる。轟々と空気自体が燃え上がる。都の兵の内の誰かの服に、運悪く火がついた。上がる悲鳴に水鏡はちいさく眉を動かした。まず火を鎮めるか、赫天を制するか。
ほんのひとときの迷い。しかし赫天は迷わなかった。一心に水鏡を斃そうとしていた。
火が奔る。人には見えないほどの速さ。水鏡でさえ無傷ではいられない神の火。水鏡を屠るためだけの自然の凶器。力が迸る。永い時間憎しみと屈託の中に閉じ込められていた熱が、快哉を叫んで自らを誇る。
水鏡は体の半分ほどは持っていかれることを覚悟した。この熱では住まう湖もただでは済むまい。いたしかたない。村はもう終わりだ。また初めから作り直すことになる。他の神もここまで被害が大きければ介入してくるだろう。それまでなんとか赫天を抑え、国だけは守らねば。
守らねばならぬのに、そのために力在るものとして生まれたのに。いつも何かを取りこぼし、諦めている。
鈴。そして、宵。よく知る二つの家族の顔を思い出し、来る衝撃に備えた。
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