第29話 神と人

 水鏡は水より冷たい一瞥を環によこした。小さな娘。環は震えたが、身の内に燃えるものを奮い立たせて見返した。その自分の妻とよく似た面差しに、水鏡はわずかに怯んだ。

「姉さんは……私の姉さんはどうしたのですか?」

「私は私の妻を虐げたりはせぬ」

「元気にしているのですか?」

「お前たちに知らせるのも業腹だが、息災だ。こんな村など捨て置けばいいものを」

 環は安堵に泣き崩れた。姉さん、姉さん、と、繰り返して震えている。水鏡は目を逸らし、村人たちを見据えた。

「ここに居を構えてから私はお前たちに穏やかに暮らすようにと言ったが、幼い娘を虐げたり、あまつさえ湖に投げ込むように言った覚えはないぞ」

 村人たちは震えだしたが、そのうち、村長だけがなんとか声を出した。

「しかし……しかし……三百年ごとに、神の花嫁をよこすようにと……」

「花嫁を? 私が?」

 水鏡は考え込むように眉を寄せ、得心したのか頷いた。

「ああ、そうだな。ちょうど三百年前に私は小さな猫を得た。湖に落ちたのをたまたま拾ってな。その頃は村人たちはまだ素朴で、神と自然の区別も曖昧で、私の導きを必要としていた。自然の声を聴くように私の声が聴こえたものだ。私は村人たちに美しい家族を得たと言った。村人たちはまた別のものをよこそうかと告げたが、もう三百年はいいと私は答えた。深い考えなどなく、ただその頃には子猫と二人で暮らすにも少し飽いているかもしれぬと思っただけだ」

 村人たちはその言葉の意味するところを悟り、呆然とした。

「生きる術を失った子猫ならともかく、健康な若い娘を投げ込むなど、何を考えている? 人とはそこまで愚かなものだったか? 追い詰められているさなかでもあるまいに、何故そこまで残酷なことができる」

 これまで超然としていた水鏡の声が揺らいだ。

「あの娘はお前たちの同胞だろう。私にはわからない。本当に」

「水鏡様!」

 重い断罪の空気を破るように声が響いた。水鏡がそちらを見やると、森から出てきた自分の妻がいた。

「鈴」

 にに、と、宵に抱かれた鈴が弱い声で答える。水鏡の頬が緩んだ。

「ああ、鈴。ちゃんといたか。宵、お前は鈴を連れて帰りなさい。あとのことは私がよいようにしよう」

 水鏡の顔に憤りが見えないことに、宵は安堵し、同時に悲しくなった。その場でみなそこへの小さな道を作り、鈴をそこに遣る。子猫は急な大冒険に萎れたように、にに、と鳴くと、大人しく道を通ってみなそこへと帰った。

「宵……?」

 地上には神の夫婦が残った。水鏡は優しく、見る者によっては父のような優しさを持って宵を見た。

「帰りなさい」

 父の優しさなど知らぬ宵にとっては、それはただ、水鏡の優しさだった。水鏡だけの優しさだ。

 宵は悲しくその優しい夫を見返して、首を振った。

「まだ帰りません」

「ここは危ない。お前は帰りなさい。後のことは私がやっておく」

 宵は首を振った。

「ここは私の故郷です」

「お前を殺した故郷だ」

 水鏡の淡々とした言葉に宵は涙ぐんだが、頷いた。

「……それでも、見捨てることはできません」

「助けると言うのか? この者たち……」

 水鏡は言いよどみ、視界の端に環を一瞬だけとらえた。

「のほとんどは、お前を殺しても平気だったようだが」

 宵の表情が小さく揺らいだ。村人たちから痣を隠すように、顔をそむけた。村人たちの中には、父と母の姿もあった。向こうも宵を恐れるように、人の影に隠れている。

 宵の言葉と感情は胸の中で滞る。水鏡に納得してもらうようなうまい説明などできそうもない。ただ、宵はできない、と思った。村人たちを救い、彼らに幸福で安穏とした生活を提供したいのか。そうではない。村人たちを、まったく恨んでいないとは言えない。ならば、ただ大きな力に蹂躙されるままに捨て置き、終わったあとにどうしようもなかったとため息を吐くのか? 自分にはどうしようもないこと、仕様のないことだと考えて。

 環が死ぬのを、見て見ぬふりをしたように。

 妹が未来を求めて泣くのを捨て置いた。決まったことで、自分は無力で何もできないからと。本当は、そうではなかったのだ。どうしようもないことではなかった。道は選べた。宵が望み行動した結果ではないが、今ここにあるものは、あの頃思い描いた未来とはまるで違う。ただ偶然突き落とされた先に救いがあった。そして、宵は力を手に入れた。神の花嫁として、神と同じ力を宿した。みなそこにいながらあらゆる人々の営みを垣間見て、宵は自分がいた村が、そしてそこで育った自分の心が、ひどく小さかったことを知った。無力であっても、すべてが決まったことのように思っても、本当はそうではないのだ。水鏡と心を通わせ鈴を愛したように、力がなくとも、できると思わなくとも、できることが、あるのだ。あの頃も、ただ環を泣くに任せるではなく、湖に突き落とされるのを受け入れるだけでもなく、他にできることが、きっとあったのだ。

 今力を手に入れて、それでもなお、苦しむ近しい人々を見捨てる。そうしたところで、誰にも責められることはない。愛にも優しさにも恵まれぬ身の上だった。生きながら見捨てられ、人の鬱屈のごみ箱とされていた。それが当然だと信じていたが、そんなわけがない。非道だった。あんなことは許されてはならない。許すつもりもない。

 それでも、許すのも、許さないのも、自分で決めたいのだ。その力が自分にあるのなら、ただ目を逸らすだけでいたくない。

 そんなの前と同じだ。同じなのは嫌だ。村にも戻りたくない。村にいたころの自分にも戻りたくない。

 許していないからと言って、村が蹂躙されているのを見過ごしたくない。弱いものが虐げられるのを見過ごしていいと思ううちに、自分もまた昔の自分を見捨てることになる。弱く、そして卑怯でもあった自分を。思わぬ幸福に恵まれたのだから、かつての自分に誇れる自分になりたいのだ。

「帰りません」

 恨みを捨てきれない村のことで、誰より大切な水鏡に逆らいたくなどない。それでも帰ることはできない。ただ大きな力を持つ優しい自分の味方に全てを任せて安穏としていることはできない。

「宵……」

 自分を見返す水鏡の瞳が、困惑に揺らいでいる。その中に失望を見た気がして、宵は苦しかった。それでも、帰るとは言えない。力を得たからこその信念というより、力を得てもなお変えることのできない苦難のようでもあった。だが宵にとって苦難は親しいものだった。顔にある痣のように。望んで手に入れたものではなくとも、これをなくしては自分は自分ではないのだ。

 水鏡は理解できないと言うようにため息を吐き、白い髪を波立たせて首を振った。

「お前のことがわからない」

 その一言はこれまで誰に与えられたどの言葉よりも鋭く宵の心を切りつけた。

 水鏡は宵から目を逸らし、隣国の兵たちに目を向けた。水のようにのしかかる水鏡の力に沈黙を強いられていた兵たちは森の中で震えた。

「私はこの村がどうなろうともう知ったことではないが、しかし私には私の役目がある」

 水鏡の足元で、湖面が淡く光る。巨大な湖全体が光っている。みなそこに天にあるものとは違う太陽があるかのように。みなそこの光は青白い。水鏡の力。敵味方の別なく、人ならざる力の大きさにみな震えた。

 ごう、と、どこかで音がした。何かが焦げる匂い。森の湛える水が枯れる匂い。

 森が燃え上がる。

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