第34話 決着
赫天が吠える。
すべてを燃やし尽くそうとしている。そうはさせない。
水鏡の視線の先で、宵が水の力を使う。水鏡の与えた髪飾りを差した黒い長い髪が、青い光沢を帯びる。小さな体の隅々にまで力が満ちているのがわかる。これはもう一つの神として完成している。力の使い方を、この短い間に身につけた。大きな力を使うためには心を大きく持たなくてはならない。永い時を、あらゆるものを見てきた水鏡と、村で虐げられ育った宵が並んでいる。水鏡の意図を超えた美しい不思議だ。もっとも弱い憐れなものが、もっとも強く美しい。何故なのかはやはりわからない。
だが宵、私はお前を信じる。お前を守るために、お前に私を守らせる。
決して負けるわけにはいかない。自分も、宵も。一人で戦うよりもよほど不確かなものが多い、危うい戦いなのに、なぜだろう。負ける気がしない。
赫天の炎を、宵が受ける。燃え上がり炸裂する空気を、湖の水を巻き上げて冷やす。炎が冷えても赫天の怒りはますます燃え上がる。なんとしてでもこの娘を焼き尽くそうとする。宵はもう何も恐れる様子もなく、ただ懸命に力を奮っていた。その姿は水鏡の不安を振り払う。誇らしい。すべてを任せることができる。宵は負けない。その強さを今は信じている。
水鏡は心を澄ませた。赫天のことは一度すべて宵に任せ、心から追いやる。風のない満月の湖のごとく、水鏡の心は澄み渡り、全てを見通す。透き通った水。水鏡の領域。すべてを見ることができる。その中に、淀みが一つ。
見つけた。
森の中で震えている男。我が国の中に入り込んだ異分子。今逃げ延びようとしている。逃げてどうなると言うのだ? また小さな火の粉を憎しみとして持ち帰り、誰かに移すのか? もうこの森は散々に荒らされ、人が死んだ。水鏡の心に怯える弱い存在への慈悲はもうない。
「終わりだ」
小さく呟き、手を握る。男の体から、水の流れを滞らせた。何が起きているのかも知らずに、自らが率いた熱にやられて男は死んだ。あっけないことだった。そして、男の命に結びつけられていた赫天への呪いも潰えた。多くの人間の関与によって作り上げられた強固で複雑な呪いは、一つの要因が滞ることでたやすく解けてしまう。
炎が揺らぐ。炎が消える。赫天は叫ぼうとしたが、その力がもうなかった。何が起きているのかも理解できないまま、自分の中の怒りと憎しみが小さくなっていく。自らの所業に怯えながら、炎が消えていく。力の消失を、何か安らかにさえ感じた。これでお終いだ。
途端に辺りは瑞々しい清涼な空気に満ちた。しん、と柔らかな沈黙のなか、白馬が高く高く嘶いた。生きていること、そのものに対する喜びの声。
勝利だった。敵味方に関わらず、誰もがその瞬間、自分が生きていることを喜んだ。生きること、胸に波打つ心臓を持つことはそのものが喜びである。
静かな喜びのなかで、水鏡はぱん、と手を打ち鳴らした。その瞬間、水鏡の兵たちの傷は癒え、力が満ちた。兵たちは頭が冴え、清々しい気持で起き上がる。
「あとはお前たちがやることだ。あまり血を流すなよ」
湿った火矢と萎えた体を持つ敵に、兵は勢いよく飛び掛かり、捕縛していった。それを横目に見て、水鏡は歩み寄る。
「宵」
肩で息をして、ぼんやりと立ち竦んでいた宵が振り返る。さらさらと揺れる黒い髪。はじめからそこにあったように馴染んでいる水の色の髪飾り。痣のある白い顔。いつも怯えたような、戸惑った色の浮かぶ瞳。すっかり見慣れた、水鏡の小さな家族。小さな妻。
「よくやってくれた」
告げると、ぱちぱち、と瞬きをした。幼げな仕草。黒い眸に自分が映ると、わけもなく水鏡は逃げ出したいような心地になった。見ていられなくて、でもずっと見ていたい。これはなんだ?
「……ご無事、ですか?」
起こったこと、そして、自らなしたことが信じられない様子で、宵は問う。水鏡は深く頷いた。
「ああ」
微笑む。
「お前のおかげだ。すべて」
宵は戸惑ったように、照れたように、目を泳がせた。その様はまるでその身の内にある力に似つかわしくない、ただの娘だ。ただの、小さく幼い、ありふれた、だがたった一人しかいない娘。どんな人間も、たった一人しかいないのだ。水鏡は当たり前のことを、初めて知ったように思う。鈴のほかに鈴がいないように、宵のほかに宵もいない。当たり前のことだ。だが、なんだ、これは。
「……よかったです」
宵はその言葉をゆっくりと味わうように告げた。微笑んでいる。水鏡は目を瞠った。
宵の姿は何も変わっていないはずだ。白い顔には大きな青い痣。初めて見た時から水鏡の気に入った、他の人間と宵を分ける特徴だ。そのほかは眉も睫毛も下がり気味で、何もしていなくても悲し気な陰のある顔立ちだ。鼻も口も小さい。どこにも変わったところのない顔。
だが、この娘の眸はこんなに美しかっただろうか。黒い眸はその上の涙にたっぷりと光を湛え、揺らめいて輝いている。美しいものはいくらでも見てきた。そもそも、美しいものを見たければ鏡を覗き込めば足りる。それでも、こんなものは見たことがない。瞬きさえ惜しい、水面の煌めきに似た儚く、それでいて永遠に消えることのない美しさ。ほんの些細な光が、水鏡の全てを照らす。
なんだこれは。それに、そんなことをしている場合ではない。
水鏡は目を逸らした。
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