第27話 死

 白馬が嘶いた。男たちは焦り環をすぐにでも投げ込もうとするが、環の抵抗は思いのほか長く続いた。宵のときよりもよほど長かった。あのときよりも男たちの決意が固まっていなかったのもあるが、なにより抵抗する人間の意識がまるで違っていた。あのとき、宵はただ反射で抗っていただけだ。

 絶対に負けない。

 環は歯を食いしばって、なんとしてでもこの凶行から逃れようとしていた。生贄ということもあり、環に大きな傷をつけることは避けたい村人たちにはためらいがあったが、環は意思を固めていた。絶対に負けない。もう自分の意思を大きな力や惰性で曲げられることは我慢ができない。環は神の花嫁という運命も、それに唯々諾々としたがって死を受け入れてきた自分と、村の因習に、もう我慢がならなかった。

 それが姉を殺したのだ。

 だがどういうわけだか、宵は生きていた。宵は自分を恨んでいるのかもしれない。だから自分を助けてはくれない。

 当たり前だ。自分だって宵のためには何もしなかったのだから。自分の悲しみに浸っているときに人のことは見えない。見ようとしない。

 でも今それを変えたい。そのために、今死にたくない。自分も死にたくないし、否応なく人を死に追いやったと村人たちにも思わせたくない。この人たちだって優しさはある。環を殺せば後悔するだろう。おそらく宵に手をくだしたらしい男の後悔が環の頭に残っていた。罪の意識は人の心を濁らせ、真実を見る目を曇らせる。そんな中に暮らさせるわけにはいかない。死の運命を自分が背負ってきたのは、それが決められたことだからだけではない。村を愛していたからだ。この人たちに幸福でいてほしかった。好意が裏返り今殺されそうになっていてもなお、受けた優しさが消えるわけではない。

 火が見えた。

 火矢が、環と男たちに放たれた。男たちがざわめき、環を取り落とした。環は地面に転がった。男たちが散り散りになる。地面に打ち付けられた環はとっさに立ち上がることができない。それまでに掴まれていた場所も鈍く痛む。低く呻く。

 森から、環に火矢が飛んできた。

 地面に転がったまま環はなんとか避けた。体の一部が湖に浸りそうになる。一度火矢は止んだ。だが、森から自分を狙っているのがわかった。馬がいななく。逃げてほしいとも思うが、そこにいてくれることをありがたく思う。なんとかの方へと這いよると、また火矢が飛んできた。

 もう、おしまいだ。

 相手の姿がろくに見えない。なんのために殺されるのかもわからないまま、ここで死ぬ。諦めたくはないが、どうやってここを乗り越えるべきなのか何もわからない。火矢が畔の草を燃やし、火花が足首に飛んで肌を焦がした。

 このまま死ぬ。

 環は目を閉じて、祈った。

 死ぬんだったら、姉に会いたい。

 短い間に聞きなれた、矢の放たれる音。

「環!」

 瞼の裏の闇を切り裂くように、聞きなれた声が響いた。

 仁だった。

 倒れる環に覆いかぶさっている。なんのためらいもなく、火矢と環の間に入る。

 火矢もまた躊躇いなく放たれた。そして、仁の背に突き刺さった。服と肉の焦げる臭い。

 そこにさらに、矢が放たれ、穿たれる。咳き込む音がして、環の髪が血に濡れた。仁が吐いた血。

「無事……か……」

 環は頷いた。仁の体は大きく、環をすっかり覆っている。仁は大きく育った自分を、血を吐きながら誇っていた。環を今、守ることができる。今、このときだけ。

「仁……」

 環の声は震えていた。自分のために死ぬ男を目の前にして、呆然としている。仁は笑った。

「よかっ……た……」

「仁……仁は……」

「たまき」

 仁は霞んだ目で、環をじっと見据えた。顔の造作がよく見えなくて、環はただ光の塊だった。その光に、これまでに見た環の姿が重なる。幼い環。泣く環。笑う環。すべての美しい記憶が一つの光になる。美しい娘。輝く娘。死の運命を背負った、仁が一途に恋した娘だった。ただ愛おしかった。環は仁の光だった。いずれ消えてしまう光を、少しでもとどめておきたかった。この娘のためなら、仁はなんでもした。神を裏切り宵を殺し、そして今、自ら死のうとしている。

 死という闇が自らを呑みこもうとしているのを仁は悟った。これでいい。これまでの自分の逡巡と決断、その苦悩の全てが闇に溶けていく。ただ環だけがそこにいた。これでいい。

「けっこん、してくれ、たまき」

 仁は呟いた。光に霞む視界に、きらきらと一層輝くものがある。環の涙だ。拭ってやりたい。お前に泣いてほしくない。何故泣く。泣くようなことなんて何もない。お前はいつも笑っていろ。ただ幸せでいろ。

 環は震える声で言った。

「できないわ」

 仁は笑った。環はこんなときでさえ、嘘をついたりはしない。自分の心を、他人のために折ったりはしない。優しく健気で、それでいて強い。追いかけ続けても、手に入らない。届かぬ先で光っている。今、仁はその光に包まれていた。自分が守った光。

「それで、いい」

 それが仁の恋した娘だった。何もかもが、これでよかった。環は幸福になるだろう。生きてさえいれば、この娘は自分の手ですべてを掴むだろう。その確信があった。それを得て、仁はすべてに満足していた。生まれて初めてのことだった。

 笑いながら、仁は環の上に崩れ落ちる。

 だめだ。環がつぶれてしまう。

 仁が最期に思ったのは、それだけだった。

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