第26話 再会

 村人たちは混乱していた。一つ所に集まればたちまち火矢がやってくる。環の連れてきた都の兵たちも信用できるとは限らない。みな散り散りに逃げ、そのうちのいくらかは湖へと向かっていた。神の村なのだ。困難そのものに慣れておらず、困難に抗うよりもまず、神に頼る者たちだった。

 湖の畔には環がいた。湖面を覗き込み、何事かを訴えている。

 湖は美しく、環もまた、美しかった。村にいた頃よりも、人目と洗練された文化に触れたためか、村人の目にはまばゆかった。村で誰よりも大切にはぐくんできたのに、手が届かなくなった。

 それが、人々の反発を煽った。

「環!」

 誰かが叫ぶと、薄い反発ははっきりと敵意の形をとった。

 竦む環を、あっという間に村人たちが取り囲む。環は水面まであと一歩のところまで追いやられた。何一つ守るものがいないなか、環は身一つで人々の視線にさらされた。幼い頃からよく知っている、自分をいつくしんできた人々が追い詰められ、自分に敵意、いや、殺意を向けている。

 環は姉を思って流した涙でまだ濡れた顔を、傲然と掲げた。

 負けたくない。

 何にだろうか。どのみち、自分が神のもとへ行くことは覚悟している。それでも、敗北の結果として追いやられるのではなく、自分の決断としてそうするのだ。

 村人たちは無力で、追いやられている。その苦しみを環にぶつけている。環は彼らを憎むことができなかった。神のもとに、その庇護を受けて生きる人々は、ずっと自分たちの無力を思い知らされながら生きることになる。それは、簡単に人の心を歪ませる。両親も、仁も、自分自身も。人は自分自身の愚かさにあらがい続けられるほど強くはない。犠牲を誰かに押し付ける。それが正しいものと言い訳して。

 強かったのは、姉だけだ。自分のために湖に沈んだ姉。たった一人。そして自分は、たった一人の姉の妹なのだ。

 自分の弱さに負けたくない。 

「私は姉さんを取り戻すために神のもとに行く」

 環は叫んだ。

「だから、あなたたちが私を湖に投げる必要はない。私は自分がやるべきことをわかっている。私は私の責任として神の花嫁になる。あなたたちに手を汚させるつもりはない!」

 その声に応えるように、湖面が淡く光った。陽を照り返すのではなく、下から光っている。

 みなそこから。

 光は強くまばゆくなり、人々は目を閉じた。

 強い光がおさまると、湖面に誰かが立っていた。

 白い着物を着た、黒い髪を長く伸ばした女。佇まいは品があり、面差しは美しく穏やかだ。

 見たことのない女。神の姿。

 村人たちはそう思った。だが、その白い顔に、見覚えのある模様が浮かんでいた。青い痣。

 女は湖畔を見つめた。黒い静かな眼差しで。その静けさに、村人たちの心が映る。

 村人は凍り付いた。村にいた娘のことを思い出していた。みなで虐げていた娘。挙句に湖に投げ込んだことを誰もが知りつつ、それでよかったのだと納得した娘だ。

「姉さん!」

 環が叫んだ。宵はそちらに目を向ける。

「悪かった!」

 村人の誰かが叫んだ。環の細い腕をつかむ。とっさに環は暴れるが、細腕でとても抵抗できない。その様子を見て、他の男たちも環を戒めた。

「宵! 悪かった! 生贄は決まってたんだから、お前を代わりにするなんて間違ってたんだ!」

「許してくれ!」

「ちゃんと正しい相手を捧げるから!」

 村人たちは口々に言う。その間に、環の口を手でふさぎ、その体を担ぎ上げた。

 環は抵抗する。宵がかつてそうしたように。

「動くな!」

「もとからこうなるはずだっただろう!」

 村人たちは叱責する。だが、環は抗うことをやめなかった。細い四肢で、弱い力で、それでもあきらめなかった。

 湖面に立ち、宵は呆然とそれを見ていた。起こっていることが理解できなかった。本当に起きていることとも思えない。宵は村人の環への愛のために殺されたのだ。それが今、村人たちが宵に謝り、環を湖に投じようと、殺そうとしている。

 その足元に、何かが現れた。白い小さな体が湖面に浮かび上がる。

「鈴!」

 宵は叫んだ。

 鈴はその声と揺れる湖面に驚いた。でたらめに湖面を駆け出していく。宵から離れていく。あの小さな体では、見逃してしまったらもう会うことはできないかもしれない。おまけに、村には火がかけられている。

 どうしよう。

 湖畔では男たちと環が揉み合っている。鈴の小さな体は宵から離れようとしている。宵は二つを見比べた。

 何も考えることができない。ただ、反射として、宵は鈴に手を伸ばした。

 もっとも弱い、今の自分の、守るべき存在へと。

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