第15話 果実
厨には柿が山になっていた。茜色に熟したつやつやとした身。それが、こんもりと積み重ねてある。村中に配れる量だと宵は思った。
「水鏡様は、私のこと熊だとでも思ってるのかしらね」
宵は足元の鈴に話しかける。実際、そう差はないのかもしれない。沈んだのが熊でも水鏡は妻として優しく遇したかもしれないと思い、宵はその想像に笑った。
「ここでは何も腐らないからいいけれど。お前は食べる?」
前足を舐めていた鈴がにゃあ、と鳴いたので、宵は喉元を撫でてやった。鈴は気持ちよさそうにしている。もともと懐っこい猫だが、この頃宵のことも好いている様子を見せる。実感するたび、宵は自分でも驚くほど嬉しい。
「剝いてあげるからちょっと待っててね」
よく熟した柿の実を手に取り、いくつか剥いた。ずっしりと重たく、包丁を入れると落ち着いた甘い香りが漂う。宵は果物を剥くのが昔から好きだった。果実は美しい色と香り、そして包丁を入れると独特の清々しい感触がある。切り口も鮮やかだ。料理するためではなくそれ一つで完結した自然の実り。それを手で感じるのが、村の宵の暮らしにある、ささやかな楽しみだった。皮を、少し厚めに剥いた。
柿は多かったので、ずいぶんたくさん剥いた。種を取り、実を小さく切って小皿に盛ると、足元にじゃれついていた鈴の前に置く。
「いい子で待ってたね。お食べ」
だが鈴は桃色の鼻を甘く濡れた果肉に近づけただけで、口をつけない。
「食べないの? 私が食べちゃうわよ」
「甘えているんだよ」
水鏡が来ていた。宵はぱっと顔を赤くした。水鏡が来たことに恥じらったわけではなく、意地汚いことを聞かれたのを恥じたのだった。水鏡はしゃがむと柿を手に取り、鈴の口元に近づけた。鈴は待っていたとばかりに小さな口を大きく開いて柿を食べる。
「そんなに柿が好きだったのか」
鈴はぺろぺろと水鏡の指を舐める。足りないとでも言いたげだ。それを見る水鏡は蕩けるように甘い。
「私も少しもらおうか。向こうで食べよう。鈴の分ももう少し切っておくれ」
「はい」
切っておいた分をこんもりと皿に盛ると、菓子楊枝を添えた。鈴の分も多めに盛る。水鏡が不審そうに首を傾げた。
「足りませんか?」
または、神に供するものとしては無作法だったろうかと不安になる。村でも宵はきちんとした作法や振舞いを教えられることがなかったので、常に不安とともに生きてきた。ただ、村での不安が相手を怒らせ害されることへの不安だったのに対し、今感じるものは呆れられることへの不安だった。水鏡に害されることはないとわかっていても、呆れられたくない。
水鏡は首を振った。
「お前の分がないだろう」
「私は……皮を、食べるので」
あと、水鏡様と鈴の食べ残しを、とは、口に出せなかった。村ではいつもそうしていた。どれだけ柿が多く取れても、それは宵の分にはならなかった。
「皮が好きなのか?」
そういうわけではない。水鏡はひょいと剥いてある皮をつまみ、口にいれた。白い眉を寄せる。
「実のほうがうまいと思うが」
それはそうだろう。
そこで、なぜ皮や、食べ残ししか食べられないと思っていたのか、宵は自分でもわからなくなった。村ではいつもそうだったから。でもここでは違う。柿の山は、水鏡が宵のためによこしたものなのに。しみついた習慣が、宵からそんな事実も見えなくさせる。当たり前のこともわからぬよう歪められたこの身。
「宵」
水鏡に呼ばれ、宵は恥じ入りながら顔を上げた。水鏡は困ったような顔をしていた。
「私はお前を奇特な娘だと思っていたんだ。わざわざこんな湖の底にやってくるのだから」
自分からすすんでやってきたわけではない。水鏡に出会えたこと、水底へやってきたことは望外の幸福としか言いようがないが、その経緯については思い出したくもない。
水鏡は静かに問う。
「お前は村で、虐げられていたのか?」
「違います!」
宵はとっさに言い、混乱した。
虐げられていたのか?
唇がつめたくなる。ずっと、村にいたころからずっと、靄のような疑問を持っていた。形にしたことはなかった。どれだけ感謝しろと村の人間から言われても、靄は消えなかった。環とも、他の娘たちとも、他の誰とも違いすぎる扱い。宵と一緒にされるのを、村の誰もが嫌がった。人を叩いてはいけないと子供たちに教える大人たちはその手で宵の頬を張った。なぜ、と、聞いてはいけなかった。なぜ、と、思うのが苦しかった。
「私は……私は……よくしてもらっていました。ただ……」
言葉が詰まる。何を言っていいのかわからない。水鏡は顔色を失った宵の頭を撫でた。
「いや、いい。向こうで一緒に柿を食おう」
水鏡は菓子楊枝をもう一つ添えて、柿を載せた盆を運ぶ。
宵は白い顔で、そのあとを追った。
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