第14話 不穏
環はぎょっとした。仁の人相が、すっかり変わっていたからだ。
ほんの何日か前に顔を合わせたときにはまだどこかに残していた幼い青さが、完全に取り払われている。精悍で若々しかった顔には陰があり、もう老いさえ感じさせる様相だ。
環は一歩後ずさった。これまで、仁を恐ろしいと感じたことなどなかったのに。仁が変わったのと同様に、環もまた変わっていることを自覚した。環はもうすでに神の花嫁ではなかった。ただの娘だ。神の威光によって守られてはいない。
そのことが急に心もとなくなる。
「元気か、環」
だがそう問いかけた仁の声は変わらず優しく、環はほっと微笑んだ。
「ええ。家のことをしてみようと思ったけれど、なかなか難しくて。姉さんみたいにはいかないわね」
宵の話はしなかったが、仁にはしてもいい気がしていた。仁は同い年で、宵ともよく話すのを見かけた。無口な姉には珍しいことだ。
だが、仁は顔をこわばらせた。
「環、お前は……」
低い声で言いかけ、口を結んで首を振った。環は首を傾げた。
「何?」
「いや、いい……そうか。そうだな」
「姉さんはどこに行ったのかしら。そう言えば、男の人も何人かいなくなったみたいだし、ああいう区切りがあると、みんな村を出ていきたくなるものかしらね。誰かと姉さんが一緒にいるのかしら。そんなふうには見えなかったけど、そういうのって傍からはわからないものだものね」
仁はふっと笑った。環が今まで見たことのない笑みだった。
「環」
「何?」
「お前は……そのままでいてくれ」
その言葉には言葉以上の何かがこめられているように思えて、環はうろたえた。
「そのままって?」
「そのままは、そのままだ」
仁の言葉に含まれたものに、環はひるむ。首を振る。
「でも、そのままではいられないわよ。私だって、村の女として生きていかなくっちゃいけないんだから。姉さんがいつ帰ってきても大丈夫なようにしないと。甘やかしてもらったもんだから、代わりにずいぶん苦労もかけたろうし」
「宵か」
「ええ……私このところ、泣いてばっかりだったでしょう。家が暗くなって、姉さんには悪いことをしたわ」
環は笑いながら、なぜか泣きたくなった。姉の話をしたことで、その不在が急に真に迫ってくる。
「環」
環の感傷を遮るように、仁が呼んだ。環はもう一歩後ずさった。何を言われるのか、なんとなく察していた。その話をされたくなかった。
「結婚してくれ、環」
言われてしまった。仁はまっすぐに環を見つめていた。静かだが、奥底に何かが燃えている。熱く熱く、環にはわからない何かを熱源として、いつも燃えている。
神の花嫁である運命によって、その熱に直接向き合うことを避けていた。だが、もう違うのだ。環はただの一人の娘として、一人の若者の求婚に、答えを出さなくてはならない。
「そんな……まだそんなことは、考えられないわ」
「なら今、考えてくれ。お前は生きている。この先も生き続ける。俺と一緒になってくれ」
奥底にある熱に動かされるように、仁はかきくどく。環はもう一歩後ずさって、木に背をつけた。仁との距離は開いているが、ここまで彼の熱が届くようだった。それは環が知っている村の若者の諦め交じりの求愛とも、これまでの仁の情熱とはまた違うもののように感じた。もう後がないというような、切羽詰まったものがある。
「俺はお前を守る。必ず守る」
それは環が待ち望んでいた言葉だった。村から逃げるのではなく、ここにいたまま、守ってもらう。誰も言ってくれたことがなかった。だが言ってほしかった。誰もが環を憐れんだけれど、誰も環を守るとは言ってくれなかった。悲しみながら、村の生贄として環を差し出そうとしていた。それが役目だ。恨んではいないが、結局自分はこの愛する人たちに湖へと差し出されるのだと言う鬱屈を持っていた。
あの満月の前にそう言ってくれていたら、環は仁に頷いたかもしれない。役目から逃げるのではなく、ここで向き合ってくれると言うのなら。
だがもう終わった話のようにも思うのだ。今、仁は何から環を守るというのだろう。満月の日が終わって、神への義務がなくなって、環は自分を一人の娘だと感じ始めていた。まだその手段はわからないが、自分の仕事をし、自分の考えで生きていく。それを模索しているところで、仁に守ってやると言われても、釈然としない。
生を諦めて生きてきた環は、まだ恋は遠いものでしかなかった。わからぬまま頷きたくはない。
「まだ、待ってほしいの」
これまでなら、仁は環の言葉を聞いてくれた。
「俺は待った」
このとき仁は待たなかった。瞳に何かの熱を滾らせて、一歩、環に迫った。
「俺はもう待たない。お前と夫婦になる」
これは交渉ではない。仁にとって、これはもう決まったことなのだ。環は悟る。
「ここでは返事できないわ。お願い。待って」
なんとかそう言うと、仁は湯気のような熱いため息を吐いた。
「……それほどは待てない」
「ごめんなさい」
環はそう言うと、家へと向かって駆けだした。髪が乱れる。村に出る。日が傾き始めている。誰かの畑の脇で、酒を飲んでいる男がいる。大きな宴があったからか、そこから酒量が増えた男たちがいる。そのうち何人かが村からいなくなったという話も聞いた。しばらくは落ち着かないのだろう。村が落ち着くまでは待ってくれたらいいのに。
待ってくれたところで、自分は仁に頷くだろうか。
環は足を止めると、はあ、と似つかわしくないため息をついた。乱れた髪を直そうともせず、俯いたまま歩く。
「ひぃっ!」
酒を飲んでいた男が、通りすがろうとした環を見て、声を上げた。
「あ、あ、あ……」
その尋常じゃない様子に、環は顔を上げた。男は濁った眼で環を見ると、肩を下した。
「ああ……環ちゃんのほうか。あいつじゃなく」
「あいつって……姉さんのこと?」
その乱暴な言い方が気に障ったが、自分が特別村の人間に厚遇されているだけで、普通はそんなものなのかもしれないと思い、咎めるのはやめた。宵と間違われたことなどなかったので意外だが、今の環はこれまで与えられていたものより汚れてもいいよう粗末なものを着ていた。しかし、それにしても尋常じゃない驚きようだった。
「姉さんがどこにいるのか、知っているの?」
「知らねえ!」
男は泣き出しそうな声で叫んだ。
「あいつのことなんか知らねえ……俺は、俺は何も知らねえ!」
「おい」
後ろから声がした。環がはじかれたように振り向くと、仁がいた。環を見ることなく、真っ直ぐに男を見ていた。男はぶるぶると震えだした。
「何も知らないな」
仁の声は暗く、重い。顔が、影になっていてよく見えない。
怖い。
環ははっきりと思った。仁が怖い。
「飲み過ぎだ。気をつけろ。何も悪いことなどないんだから」
仁の咎めに、男はうなだれるように頷いた。
何も悪いことなどないんだから。
仁の声は力強く、つい従いたくなる。この男についていけば大丈夫だ、と感じさせるものがある。まだ若いのに、村のどの男より、仁の父である村長より人としての大きさと、深い覚悟がある。その仁が言う。
何も悪いことなどないんだから。
信じたくなる。だが、環にはわかった。
嘘だ。
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