第16話 戯れ
書物を読む気になれず、宵は洗濯をしていた。洗濯場では澄んだつめたすぎない水が流れており、それを桶に汲んで洗う。洗うものはそう多くはない。宵の普段着と、日常で使うこまごましたものだけだ。それらもそう汚れないので、ざっと洗えば済む。
ちらちらとするものが目に入るな、と思っていたら、鈴が蝶々を追いかけていた。水鏡や宵に甘える姿とはまるで違う俊敏さで蝶々に飛び掛かるが、白い小さな蝶々はひらひらと逃げてしまう。蝶々を捕まえたところで猫の腹は膨れまいから、あれは都の貴人の狩りと同じ遊びなのだろう。遊ぶ鈴の傍で、洗濯をする自分。
環は元気かしら。
妹を思うと、輝くような笑みと、泣き顔が同時に浮かんだ。近くにいたころは、どちらも見るのがつらいような気がしていた。離れてしばらく経った今、環のどちらの顔も愛おしかった。
虐げられていたのか。
遊ぶ鈴を横目に、宵は洗濯物を絞った。村にいたころもそうだった。絵札で遊んだり化粧をしたり、誰かと干した果物なんかの菓子をつまみながら話したり、好きに過ごす環の横で、家事をしていた。
それがつらかったかと聞かれると、その通りだ。環ばかり、と、本当は、思っていた。口に出すことを許されなくとも、今ならわかる。
環は長く生きられないのに。
その決まりを思い出すと、つらいことが、つらかった。結局のところ、自分だって死にたくはなかった。生きていても何も楽しくないのに、自分のほうが神の花嫁に選ばれていたら、とは思えなかった。どれだけ楽しそうにしても環が本当はいつもつらいことがわかっていたし、それをどうにかしたいとは思わなかった。年を経て二人で過ごすことは減っても環はいつも、仁よりさらに宵に優しかったのに、宵はこっそりと環を見捨てていた。決まったことは仕方がないと、環の死を受け入れていたのだった。
醜い。
冷たい手で痣に触れた。誰かに醜いと言われても、その通りだと思っていた。痣が醜いのではなく、宵という娘が醜く、痣はその目に見えるしるしである気がしていた。
洗濯物を干す。いそがなくてもいい。時間の余裕があり、空腹ではなくなり、誰かに殴られる恐れもない状況は、宵の考えを深めさせる。それまで常に急かされ混乱していた頭の中でとぎれとぎれに存在していた思考の断片が、結びついてくる。
蝶がひらひらとこちらに飛び、鈴もこちらにやってくる。眺めながら洗濯物を干す。いそいでもいないが、すぐに終わる。今日は他になんの仕事があるだろう。掃除か。やってきたころに掃除をしていて初めて気づいたのだが、屋敷の部屋の隅にはふわふわと白い、埃というには清潔すぎる細かな綿のようなものが落ちているのだった。宵はそれを掃き清め、拭き掃除をする。そうしている間にだいたい洗濯物は乾いている。みなそこは常に明るいが日が出ているわけでもないのに、乾くのが早いのだ。
鈴が助走をつけて蝶に飛び掛かる。ふわふわとした愛らしい姿から、不意に獣の本領を発揮するような鋭さが表れる。ああ、捕まるな、と宵が見ていると、蝶は鈴の口に咥えられていた。ぱたぱたと儚く喘ぐように羽ばたいている。
あれ。
宵は鈴の邪魔をしない程度に近寄って、引き裂かれた蝶を見た。
蝶ではなかった。
白いそれは、確かに蝶々のかたちをしているが、本物の虫ではない。白い、紙や布に似ている。つまるところ、出来のいい玩具だ。鈴を楽しませるために、水鏡が用意したのだろうか。
宵はふいに、あることに気づいた。
「水鏡様」
呼ぶ声が微かに震えた。
「どうした」
応えはすぐにあった。振り返ると、宵の夫が立っていた。優しく穏やかなこのみなそこの主。漣に似た白い髪。湖の深さの瞳。完璧に美しい神。宵は慣れつつあったその美しさに、改めて見惚れ、恐れた。
鈴は水鏡の姿に偽物の蝶を放り出した。途端、風にとけるように蝶の残骸は姿を消した。水鏡は鈴を大きな手のひらに抱き上げる。
「なんだ? 何か聞きたいことがあるのか」
問われると、言葉がうまく出てこなかった。宵は閃く洗濯物を見た。手を伸ばして触れる。
乾いていた。
水鏡は微笑んだ。その笑みで、宵は察した。
「必要が……ないのですね」
「まあ、そうだ」
水鏡が頷くと、ここに来た日に見た影たちがふいと寄ってきた。干したばかりの洗濯物が畳まれ、すいとどこかへ運ばれていく。
ここでは何が起こってもおかしくないと知っていてもなお、目にすると衝撃的だった。
考えてみれば、当然のことだった。水鏡は宵の傷さえたやすく治せたし、汚れも落とせた。宵が掃き清めていたつもりの埃のようなものも、水鏡が作り出したのだ。
自分は蝶の玩具を追いかける鈴と同じなのだ。無為な遊びとして、家事を与えられていた。
「悪いことをしたか?」
どこかしょげた様子で水鏡が尋ねる。
「いいえ……いいえ……違います」
何も悪くない。善意なのはわかっていた。村の人間に対して思う、どこかに疑念の残ったものではなく、水鏡が悪くないのは、湖が美しいのと同じぐらい、純粋な真実だった。水鏡はただ、宵の望みを叶えただけだ。何がしたいと水鏡は尋ね、宵は家事ができると答えた。
間違っていたのは、宵の答えのほうだ。
「私は……家の仕事ならできると思って……でも、必要ではないのなら……」
では一日中書物を読み、水鏡と鏡を覗き込み、鈴と戯れる。それでいいのだろうか。それをしたい、と言うのは、なんだか心もとなかった。
何かをしたい、と言うのが、不安なのだ。したことがなかったので。宵の心はまだそこまで育っていない。
「では、探してみるか」
水鏡が言い、宵は顔を上げた。にゃあ、と、鈴が鳴く。水の色の瞳がやさしく揺らぎ、宵を見つめていた。
「私と、何がしたいのか、試してみるか。お前は私が思っていたよりもずっと、自分のことも知らぬようだ」
その瞬間、宵は新しく自分を知った。自分のしたいことを。
水鏡様と、一緒にいたい。
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