第12話 暮らし
水底で、宵は静かに暮らしていた。煮炊きをし、洗濯をして、掃除をする。その合間に鈴と遊び、水鏡と話す。書物を読むこともあった。
水底には書庫があり、地上の著名な書物が収められているそうだ。水鏡の案内で出向いてみたものの、宵は水底の屋敷の構造がどうなっているのか、把握することができなかった。村の周囲の地形ならすべて頭に入っているので宵の能力には問題がないはずなのだが、行くたびに歩いた方向が違う気がするのだ。しかし迷うことはなく、行きたいと思って歩けばたどり着く。そういう仕組みなのだろうと合点した。
書庫には短い階を上って行く。広大で、棚には絵物語から歴史書、農業などの実用書など、あらゆるものが収められていた。宵は作物の管理の仕事も任されていたので、簡単な字なら読むことができる。宵は絵物語を好んで読んだ。単純な、おそらく都の子供たちが読むようなものだ。幼いころ、環が母や父に語ってもらっていたのを漏れ聞いたことがある。聞いているのを知られたら叱責されたので、こんな話だったのかと初めて知った。書庫に座り込み、いくつもの物語を読んだ。書庫は無音で、誰もおらず、書物は宵が求めればいくらでも物語を見せてくれた。宵は生まれて初めて何かに没頭するという経験をした。くつろぎ、姿勢が崩れても、誰も何も言いはしない。時折水鏡が見に来て、
「面白いか」
と尋ねてくれる。宵は自分が読んでいる物語の内容を語り聞かせる。水鏡には既知のものかもしれないと思い至るが、しかし水鏡は楽しそうに、宵のたどたどしい語りを聞く。静かな場所で二人で床に座り込んで、白い睫毛を瞬いて水の色の瞳を見開いて、
「それで?」
「そのあとは?」
と相槌を打つ水鏡に物語を語り聞かせていると、なんとも言えない気持ちになった。ほしくても与えられなかったもの、欲することさえ恥じていたものを、水鏡は衒いなく、しかしさりげなく与えてくれる。当たり前のように。
普段水鏡が何をしているのかというと、鏡を見ているのだと言う。水鏡の部屋にはいくつかの鏡がある。銀の丸い鏡が、立ててある。宵が覗き込むと、それらは水面を映している。澄んだ水の色。宵もよく知る湖に似た水面だ。時間によって、水面の色が変わる。みなそこは常に明るいが、宵はたまに見せてもらうその鏡で時を判断していた。もっとも、水鏡も、そして鈴も、地上の時間に自分を合わせる必要など感じていないようだが。
鏡は時をあらわすだけでなく、頼めば地上の姿を映してくれる。水鏡は都の姿を映してくれた。空から見下ろすように、遠い都が鏡に映る。都の広大さ、建造物の壮麗さや人の多さに、宵はぽかんと口を開いた。こんなにも人が生きているのか。こんなものを人が作るのか。その様を水鏡は笑う。
都の人々の舞を見せてくれることもある。色とりどりの衣装を身につけた女人が軽やかに舞う。それは人というより獣の敏捷さに似ているが、かたちのうつくしさは人でしかありえない。舞う人は少し神様に似ていると宵は思った。美しいものは少しおそろしい。水鏡は神なので、ただ洗練された舞を楽しんでいる。
楽や歌を見せてもらったこともあるが、鏡からは音は聞こえないので水鏡はあまり好まないと言う。それでもこの楽器は何で、この演奏は何を意味しているのかと、丁寧に説明してくれた。問えば叱責ではなく答えが返ってくるという生活に、宵は慣れつつある。
「私の妻なのだから、お前も好きなものを映せるよ」
と、水鏡は言う。好きなもの。宵は戸惑う。
「見たいものを思い浮かべて、鏡に頼めばいい」
水鏡に言われたが、宵は首を振った。見たいものがなかったのではなく、思い浮かべたものを振り払うためだった。環。両親。村。みな、幸福にやっているだろう。よいことのはずなのに、それを見たくない。
「そうか。まあ、好きにしろ」
「はい」
好きにすることにも、宵は慣れつつあった。水鏡の言葉はいつも素直で、裏がない。村でも好きにしろと言われることはあった。それは、つまり言葉にしてはっきり指示するのは憚られるので宵が自分で判断したということにして意に沿うよう行動せよ、ということだった。だが水鏡が好きにしろと言うのなら、本当に好きにしてもよいのだった。水鏡の傍で、水鏡が都のにぎわう市を見るのに付き合ってもいいし、家事をしに行ってもいいし、書庫にこもってもいい。好きにしてよいのだ。
日が経つにつれて、宵は水鏡の傍にいることが増えた。水鏡は常に優しく、そして、宵が傍にいることを喜ぶ。水鏡は神だからか、宵からすればかなりゆったりと日々を過ごしても苦痛を感じぬ性分らしいが、それでも宵がいると退屈が紛れるらしい。それは自身の価値や尊厳というものを感じ取れぬ生き方をしていた宵にも、納得ができた。宵はいまだに自分をつまらぬものだと思っていたが、つまらぬものでも、この方の暮らしにとってはいないよりはずっといいのだろう。宵は卑屈に生きてきたが、同時に忙しい立ち働きに慣れてもいたので、ここまでゆったりとすることがない日々というものが想像もできなかった。
「お前が話すのが好きだ」
と水鏡は言う。その膝には鈴がいる。水鏡の膝を小さな足で踏みしめ踏みしめしている鈴はたいそう可愛らしいが、話すことはできない。つまらぬことでも話せるだけで嬉しいのだろう、と、宵は考える。ためらいながらも、水鏡に話す。つまらぬことでもいい。鏡は都の貴族の宴を映していた。広い庭にはいくつもの灯がともり、水鏡に少し似た格好の男と、夜目にも鮮やかな着物の長い髪の女人が酒を飲み交わしていた。笛や琴を演奏するものがいて、舞も見られる。
「琴はどんな音がするものでしょう」
そんな他愛のない質問にも、水鏡は楽し気にする。
「うん? 聴いたことがないか」
「ありません」
「口で言うのは難しいな。あれは、なかなか良いものだよ。華やぎがある。聴いてみたいか?」
「ええ」
「覚えておこう。ああ、こやつら柿を食べているな。柿は好きか?」
鏡のなかで、よく見ると人々は柿を食していた。宵は頷いた。柿は宵の村でもよくできる。宵は他の土地のことを知らないが、村の柿はたいそう甘いそうだ。
「好きです」
「では用意しておこう」
「いいのですか?」
「私も柿は好きだ。お前はどうだ?」
膝の鈴に尋ねると、鈴はにに、と鳴く。水鏡は笑い、宵も笑う。夜はそんなふうに更けていく。宵は楽しく、なのでもちろん、自分の後ろの鏡で、水面がひどく波打ったことには、気付かなかった。自分を湖に投げ込んだ男の一人がどうなったのかも、もちろん知らない。
宵と向かい合って座る水鏡は波打つ水面を見た。小さく目を細めたが、ただそれだけだった。
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