第11話 罪
環が生きている、とわかったあと、村は何日か、奇妙な興奮状態にあった。誰もが笑い、歌い、酒を飲んだ。楽しくてたまらないと誰かが言い、その通りだと誰かが答えて笑い合った。まともな話はしなかった。できなかったのだ。
環は生きていた。神に捧げられるはずだったのに。村の人々は神に忠実だ。約束したものを与えないなんてことは許されない。それなのに、環は生きていた。
そして、異変はもうひとつあった。誰も口にしなかったが、誰もが気づいていた。宵がいなくなっていた。痣のある、陰気な娘。環を神に捧げなくてはいけないのは、宵があんな顔だからだ。村ではそう扱われていた。本当はそうではないことは誰もが知っていたが、どれだけそう責めても宵は反論しないので、そうだと思い込むことができた。
環が生きていて、宵がいない。仁はそれでいいと言う。
何が起こったのか、口にすることを誰もが恐れた。環を、若い娘を、自分たちの村の繁栄のために、犠牲にする。環が愛らしくなればなるほど、その運命の悲しみと、それを受け入れた村の罪は濃くなった。宵はその罪を一身に引き受ける、別の生贄だった。双子はそれぞれ違うものに捧げられた生贄だった。環は神へ、宵は村人へ。そうすることで平穏が保たれていた。
だがもう宵はいないのだ。
そして、帰ってこないだろうとみな思っていた。それまで誰もそんなことを想像したことはなかった。宵はいつまでも村にいて、村の生贄であるはずだと。
不吉な予感を消化できないまま、村は少しずつ日常に戻っていった。宴の始末をしながら、おい、と誰かが呼び掛けた。なんでこんなに散らかったままにするのだと続けようとした。答えるものはなく、みながそこにいない宵のことを思いだし、黙りこんだ。宵がいれば誰に何を言われる前に片付けていただろう。
数日手入れが疎かになった畑はやや荒れていた。村人たちは怒りを覚えた。するべき仕事を怠けたやつがいる。いらだちをぶつけて早く仕事をやらせようとして、その相手がもういないことに気づいた。ちょっとした突発的な仕事は、いつでも宵が、何も言わずに引き受けていたのだ。そのことになんとも言えない居心地の悪さを覚えながら、仕事をした。
村は重苦しい沈黙に包まれていった。心に抱えているものがあるのに、表に出すことができない。仕事は前よりも増え、そのことが余計に苛立ちを加速させる。
何人かの若い男たちは、特にひどかった。
あの日、宵を湖に放り込んだ男たちだった。始めこそ善行をしたのだと自分に言い聞かせていたが、宵の不在とその不便に苛立つ村を見ると、どうしようもない気分になった。酒でしかごまかせない。あの日の男たちで集まって語りたかったが、そうすることで自分たちがしてしまったことと向き合うことも恐ろしかった。ただ酒におぼれていった。
一人の男が、夜、湖に向かった。月のない夜だった。湖は変わらず静かで、湖面は星を映して白く揺らめいていた。
ここに宵を沈めた。乱暴につかんだ宵の細い細い腕がもがき、それから力を抜いた感触が、まだ手に残っていた。それまで、彼女はいつも逆らわなかった。きつい仕事を押し付けられても、罵倒されても、殴られても、誰に対しても悲し気な顔をするだけだった。その宵が、あのときだけ取り乱して暴れていた。娘らしくないごつごつした、だが細い指が男の頬をえぐったが、過酷な労働ですり切れた指は何一つ傷つけることができなかった。
それから、抵抗をやめた体の頼りない感触。諦めきった黒い瞳。そして、水音。そのすべてが、こびりついて離れない。酒を飲んでも無意味だった。口に運ぶ一瞬だけ忘れても、飲んでしまったことで忘れたいことが鮮明になる。いいことをした。そう思いたい。できるわけがない。宵が、憐れだった。どれだけ頭で理屈を組み立てても、宵の記憶が、まだ残る感触が、それを裏切った。小さく弱い娘を虐げて、殺した。
湖は変わらず静かだ。宵を吸い込んだ闇が、足元に黒々と広がっている。男はそこを覗き込む。
「宵……」
呼びかける。宵が生きている間は、一度も呼んだことのない名前だった。男は宵が、嫌いではなかった。黙ってこまごまと俯いて働く宵。村で祝い事のあるときにつまむ宵の作る飯はうまかったし、宵の仕事はいつも丁寧だった。痣も顔にあるから目立ちはするが、珍しいものでもないのだ。見慣れているし、醜いとも思わなかった。顔立ちだって環の双子の姉なのだから悪くはない。環が神の花嫁になったら、宵はどうするのだろう、と思ったことがあった。環のいないあの家で、両親は余計に宵にあたるだろう。仕方のないことだ。環は愛らしいから。宵にもし行くあてがなければ、自分がもらってやってもいいと、口にはしないが考えていた。宵は愛らしくはないが、いい嫁になるだろう。働き者で、逆らわず、無欲だ。
「宵、帰ってこい」
湖に呼びかける。風ひとつない。湖面は揺れもしない。宵はどこにいる。痣のある娘なのだから、神は怒らないか。帰されないか。そうしてやったら、家に連れ帰ってやる。
「帰ってこい。帰ってきたら、お前がみんなに謝れ。家は追い出されるだろうから、そうしたら俺のところに来たらいい。俺がお前をもらってやる。うんと働くんだぞ。もう他のやつの言うことは聞かなくていいから、代わりにうんと俺のために働け。そうしたら、米なら好きなだけ食べてもいい。着物も一枚ぐらいは買ってやる」
湖は静かだ。男の言葉は、黒々とした闇を映した水に、波紋もたてずに吸い込まれた。それを見ていると、頭の芯が、ぐらぐらと揺れてきた。宵の瞳。水音。
宵は死んだ。殺した。俺たちが、俺が、殺した。
男はふらふらと立ち上がった。踵を返し、村に逃げ帰ろうとした。
風が吹いた。くらりと酔った頭は眩暈を起こした。足がもつれる。
それは瞬く間のことだった。
「宵、すまなかっ、」
謝罪の言葉を終えることなく、男は湖に落ちた。水音。
そして、再び、湖は静まり、男が浮かんでくることはなかった。
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