第10話 願い

「何がしたい」

 と水鏡は宵に尋ねて、宵は家の仕事なら少しは出来ると答えた。煮炊きや洗濯や掃除、繕い物。水鏡は軽く顎に手を当てて、考え込むようにしたあと、頷いた。

「ついてこい」

 そして、小さな流れのある洗濯場や、裁縫のできる小部屋、そして厨に案内してくれた。薪や鍋などの道具は見慣れたものに近い。宵は少し心和んだ。厨の棚には肉や魚、山菜や木の実、宵の知るものも知らないものもぎっしりと詰まっていた。どれも新鮮でうまそうだ。

「何か作ります」

 義務だけではなく、楽しみになってそう口にした。初めてのことだった。

「うん。では待っている」

 水鏡がそう言って立ち去ったので、宵はさっそく料理を始めた。いつの間にか襷が置いてあったので、襷掛けをする。火は簡単に起き、水ももう汲んであった。まるまるとした粒の揃った米を炊き、山菜で汁を作り、魚を焼いた。待つ間に肉や魚を味噌で漬けたり、野菜を糠漬けにしたりもした。とても静かだった。米が炊ける音や、ものを切る音だけが響く。作業中に他ごとを言いつけられたり、別の仕事をしていなかったからと怒鳴られたり、入り込んできた子供にわけもなく背を押されたりしない。道具もよく手入れされていて、とても使いやすい。宵は調理に没頭した。自分の手で、食材が料理に整えられていくことを、ただ楽しいと思った。

 にゃあ。

「あら、来たの」

 普段と様子が違うのに気づいたのか、鈴が来ていた。宵の脚に体を擦り付ける。そのふわふわとした感触に、宵の口元はそれまで知らないかたちに緩んだ。慌てて顔を引き締めようとして、咎めるもののいないことに気づいて、緩むに任せた。それまでにはなかった、口元の自由。

「お腹が空いたの?」

 少し迷い、いくつか焼いたうち、焦げのついた魚を選んで、皮をとって身をほぐしてやった。骨も取る。

「食べる?」

 小皿によそうと、にに、と愛くるしい声を上げて、鈴はちらりと舌で舐め、満足のいく味だったのか大きな口で食べだした。それを宵は眺めていた。与えたものを小さな生き物が享受するのは、単純に気分がいい。初めて知ることだった。

 鈴は空の皿をぺろぺろと舐め、大きく伸びをした。宵はそうっと手を伸ばし、白い毛を撫でてみる。あたたかく、小さく、ふわふわとした毛と皮膚の下にある骨の感触。小さいけれど力強いかたちをしている。宵はすっかりこの小さな猫に夢中になった。

「可愛いねえ」

 その言い方が誰かに似ている、と思った。

「おや、すっかり仲良くなって」

 いつの間にか水鏡も顔を出していた。

「水鏡様」

 鈴はするりと宵の手をすり抜けて、水鏡に体を摺り寄せた。

「我儘なやつだ」

 その言い方に気軽な愛情が滲んでいて、宵は心が温かくなった。

「可愛いです」

「お前も可愛いよ」

 面食らう宵に水鏡は微笑む。その笑い方が鈴に向けるものと同じで、ああ、と、宵は納得する。この美しい神にとって、宵と鈴は同じ小さな頼りない命なのだろう。手の内にあるので、可愛がっている。

 それは仁が環に望んだような、人間の夫婦の在り方とは違うのだろう、と、なんとなく宵は思う。人間の情熱も神の愛玩も宵にとっては遠いものだったが、後者のほうが好ましかった。この方は、猫を許すように、私を許してくださるだろう。どんな猫も宵の目には愛らしく見えるように、どんな人間だろうと水鏡には愛らしく見えるのだろう。そう考えることにした。

 それでも可愛い、と言われて甘く微笑まれると、なんとも言えないくすぐったさがあった。宵はあいまいに笑う。

「そろそろできます」

「ああ。いい匂いがする」

「あちらでお待ちください」

「ああ。頼もう。鈴、行くよ」

 ひょいと鈴を持ち上げて、水鏡が行くと、宵は膳を用意した。食器は宵の知るものよりもはるかに上質だが、やはり見慣れたものに近い。しっとりとした見事な艶の漆器に彩のよいよう盛りつける。経験は重ねているが高度な技術を教わったわけではない宵の素朴な料理もうまそうに見える。宵は満足して隣の部屋に膳を運んだ。膝を崩して座る水鏡が、鈴をじゃれつかせている。

「お待たせしました」

「ああ。ありがとう」

 礼を言われて、思いがけないほどの嬉しさを覚えた。

「とてもうまそうだ。いただこう」

 膝に鈴を乗せたまま水鏡は箸をとった。宵は横の床に座り、背筋を伸ばして水鏡の口元を注視した。うまくできたと思ったが、水鏡の口を満足させる自信が薄れてきた。

「うん。うまい」

 一通り箸をつけて、水鏡は言った。宵はそのまま崩れ落ちそうなほどほっとした。水鏡は無造作に、しかし美しい所作で食事をする。宵はうっとりと見惚れた。

「宵」

 ふと、手を止めて水鏡が言う。

「はい」

「いつまでただ見ているんだ」

「あ、はい」

 宵は立ち上がった。

「洗濯をしてきます」

「違う」

 水鏡は首を振った。不安になる宵に、水鏡は困ったように笑う。

「お前も自分の膳を用意して食べなさい」

「え……」

 宵は硬直した。そんなことはできない、と思った。

「腹が減らないか?」

 首を振った。そう言えばずいぶん長い時間食事をしていないはずなのに空腹は感じないが、宵は食べられるときには食べる習慣がついていたので、それは関係ない。ただ、できないのだった。できない理由を思いつくより前に、ただ、できない、と思ったのだった。

 自分の膳、というものを、宵は経験したことがなかった。膳は環や両親に用意するが、宵には自分の分、というものが、なかった。つまみ食いや、食べ残しで生きてきた。宵の細い体を養ったものは、いつだって宵のために用意されたものではなかった。誰かのおこぼれか、こっそり奪い取ったもの。宵はそうして生きることに慣れ切っていたが、それでもいつも、恥じていた。

「少し待っていろ」

 何も言えずに黙っている宵に言うと、水鏡はすっと立ち上がり、裾に鈴をくっつけて去って行った。宵は不安で、不安なときはいつもそうするように、硬直していた。下手に動くと殴られるのだ。

 しばらくすると、にに、と鈴の声とともに、水鏡が帰ってきた。宵は水鏡が帰ってきたことへの安堵と、何を言われるのかという恐怖を同時に覚えた。

「ほら、食べなさい」

 水鏡は持っていた膳を、鈴の前に置いた。水鏡に用意したのと同じものが、しかし不格好に盛りつけられている。量だけはたっぷりとある。

「これ……」

「盛りつけるだけならたやすいかと思ったが、なかなか難しいな」

「水鏡様が……?」

「うん。恥ずかしいが。たんと食え。ほら」

「私が食べて……いいんですか?」

「お前のものだ」

 宵はそう無造作に言ってまた腰かける水鏡と、自分の前の膳を見た。四角い膳の上に並んだ食器。ぴかぴかとした米、ふっくらと焼かれた魚。具の多い汁。つやつやとした赤い箸。全部、自分のものだ。自分に用意されたものだ。

「いただきます」

 言ったことがない挨拶だったので、声が震えた。震える手で箸を握った。飯椀を持つのも初めてだった。透き通るように白い米を箸でつまみ、口に入れた。

 自分のものだ。

 美しい着物も、髪飾りも、もらいはしてもどこか自分のものではない気がしていた。ほしいとさえ思ったことがないものをもらっても、現実味がない。

 でもこれは、ずっと、ずっとほしかったものだった。自分の分の膳があって、誰かと食事ができたら、どんなにいいだろう。両親と環が楽し気に何がうまいだの今日何があっただのと話すのを聞きながら、しゃもじで掬った米を慌てて口に放りこんで、ばれないように呑みこんでいた。あのなかに入りたいと願いながら、願うことを恥じていた。知られてはいけなかった。

 でも、かなえてもらえた。

「うまいな」

 水鏡が自分の分の魚をひとかけら鈴にやって、言う。宵と、鈴、二人ともに言っている。

「はい」

 宵は震える声で言った。

「とても、美味しいです」

 にに、と鈴も応えるように鳴いた。

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