第4話 村
自らの運命を知ったあとも環は明るい娘だったが、時折物思いに沈むことが増え、愛らしい笑顔に薄く影がかかることがあった。それが一層彼女を魅力的に、あわれに見せ、みな一層環を愛した。
遊んでいる子供たちが自分達の将来を話していると、ふっと環が黙りこむことがあった。そのさまに気づいたものも黙りこむと、環は気にするなというように笑い、それから寂しそうに呟くのだった。
ねえさんがうらやましい。
子供たちは、その瞬間、その場にいない環の姉、あの痣のある陰気な宵、奇妙だが縁遠い存在である宵を、憎んだ。
死の運命は環の魅力を増し、人々の環への愛が深いほど、宵への憎しみも深くなった。宵は誰からも憎まれながら成長した。誰からも微笑みかけられることはなく、子供たちには石を投げられることもあった。毎日家事や畑仕事に追われ、ほんの粗末な着古した着物を与えられ、布団もなく一人で納屋に座って眠り、残り物を人目を避けて食べて育った。
一度、環の口に合わないと残された菓子を食べているところを、母と客人に見られた。
汚ならしい。あんなふうでも生きたいんだから、大したもんだよ。
そう言う母の口許は嘲笑していたが、眼差しにあるのはただ憎悪だった。
姉さんはあれが食べたいんだから、放っておいてあげたらいいじゃない。
環が困った顔で言った。
元気でうらやましい。
そう呟くように付け加えると、あたりはすっかり神妙な雰囲気になった。口の端に菓子のかすをつける宵以外の全員の目元が涙に潤んだ。
なんて優しい子なんだろう。
泣き出してしまう大人たちに環は目に涙を留めたまま微笑んで、
母さん、泣かないで。
と健気に言うのだった。それがさらに涙を誘った。
宵は食べかけた菓子を持ったまま、凍りついていた。どうしたらいいのかわからなかった。環が可哀想で、同時に羨ましくてならなくて、また手にある菓子が、食べたかった。いつでも飢えていたのだ。滅多に口にすることのない甘い菓子。環には一口でもういいという菓子が、宵には食べたことがないほどうまかった。笑われても嘲られ、醜いと謗られても、諦めることができないほどに。
あんたはさっさとどこかに行きなさい。
母に言われて、宵は慌てて、菓子を手にしたまま家から走り去った。誰もいない木の陰に座り、手の中で潰れた菓子を食べた。
汚ならしい。
母の言葉と、周囲の人々の冷たい眼差しを思い出した。その後の、環を哀れんで泣いていた光景。
宵は、どこかが痛む気がしたが、どこかはわからなく、自分も泣いてみたい気がしたが、泣き方が、よくわからなかった。
珠のような赤ん坊から愛らしい幼子になった環は、やがて花開くように美しい娘になった。村の若い男はみな環に恋をした。環は年頃の娘らしい気のない男への残酷さを持ち合わせておらず、誰にたいしてもきやすく微笑んだ。男たちは自分の熱と同じものを環の笑みに見た。
私は神様のお嫁さんだから。
だが思いを告げられると、環は寂しげに笑ってそう言うのだった。はじめから誰にも嫁がないと決まっているのだから、環にとってはどの男も同じだった。そして、どれだけ環を思っても、神の花嫁に手を出せるものなどいなかった。村の人々は神に忠実だった。
一人だけ、例外がいた。
村長の息子の仁は環と同い年だった。物心がついた頃には環を思っていたし、自然なこととして彼女を妻に望むようになった。精悍で押しが強く体も丈夫な彼と環は似合いの一対だと思われていたが、結ばれることない二人の運命は村人の涙をそそった。
環の命の刻限が迫ると、仁は環に二人で逃げるように頼んだ。環はぱっちりと黒い大きな眸を見開いた。そんなことは考えたこともなかったのだ。
「逃げたりなんかできないわ」
お前だけがそんな目に遭うのは、おれには耐えられない。一緒に逃げて、二人でどこかで夫婦になって暮らそう。
必死に頼み込む仁に、環は悲しげに首を振った。
「できないわ。これは、私のお役目だもの」
仁は諦めなかった。環に会うたびに一緒に逃げるよう、哀願し、ときには泣き、ときには脅した。だが環は首を縦には振らなかった。
とうとう次の満月の日が嫁入りという頃になり、環は泣きながら仁に叫んだ。
「私だって死にたくないけど、でもしょうがないじゃない! もうやめて!」
仁は唇を噛み締めた。環は泣きながら立ち去ろうとした。そのとき、たまたまその辺りで薪を拾い集めていた宵とぶつかった。束ねていなかった薪が辺りに散らばる。環は驚く宵を涙の残る目で見つめると、そのまま走り去って行った。宵は黙って薪を拾い集める。
「宵」
名を呼ばれて、宵は肩を震わせた。見上げると、仁がいて、緊張を僅かにほどいた。村の人間は男女問わず宵を罵り、ときには暴力もふるったものだが、仁は違った。仁は優しい、と、宵は思っていた。罵られたり、暴力をふるわれたことはない。宵にとっての優しさとは、そういうものだった。親しく声をかけられたり、労られたりしたことは、一度もなかったので、自分の身に起こることだと考えたこともなかった。
「宵は、環が可哀想だとは思わないか」
仁の様子は静かだった。
「思います」
宵は細い声で答えた。環は可哀想だった。ここのところ、環は毎晩声をあげ、母にすがり付いて泣いていた。死ぬのがこわい、どうして私が、と。宵は暗い台所で一人で働きながらそれを聞いていた。可哀想に、と母と父が泣く。宵だけは泣いていなくて、あんたは可哀想だと思わないのか、と、環が寝入ると二人に長いことなじられ、足蹴にされた。
可哀想な環。
宵は自分に言い聞かせるようにそう思っていた。
可哀想な環。誰からも愛されて、大切にされて、いつも笑っているのに、私と違って綺麗な顔をしているから、死んでしまうなんて。
神妙に同意する宵に、仁は静かに頷いた。
「そうだな。環は、可哀想だよな」
うつむいて小さくなっている宵に、仁が告げた。
「宵、顔を上げろ」
宵は恐る恐る顔をあげた。顔を見せると不機嫌になる相手が多いのだ。
宵の痣のある、青白く、不幸が染み付いてしまった陰気な顔を、まじまじと仁は見つめた。
「お前、環に似ているんだな」
宵の目鼻立ちは確かに環といまだに瓜二つだったが、宵にはその自覚がなかったため、仁の言葉をひどく奇妙だと感じた。双子は似ているものらしいと聞くが、自分たちは違う。自分は醜く、環は綺麗。宵はただそう思っていた。
仁は戸惑う宵からふいと目をそらすと、何か思い付いたように頷いて、声もかけずに去っていった。宵は散らばった薪を拾い集めて家に帰った。
環の高い泣き声が家から漏れていた。
可哀想な環。泣いてばかりだ。
宵は泣いた記憶がなかった。それは自分が恵まれているからだと、思っていた。
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