第5話 満月
ひどく静かな夜だった。
秋の空は青く晴れ渡り、やがてすべてが燃えるような夕暮れを経て、夜になった。
環は白い花嫁衣装に身を包み、化粧をしていた。涙が滲み、目元の化粧は崩れて目尻が赤く染まっていたが、それさえ痛々しくも美しかった。仁がそれをじっと見ていた。
宵は嫁入りの、環の最後の別れの宴のために走り回っていた。村長の家からと用意された酒を急いで注いで回る。誰かの目に留まると、憎々しげににらまれ、ときには空の盃を投げられることもあった。
「泣いてもいねえ。悲しくないのかよ。見た目ばかりか心も醜いな」
酔った父からの言葉に、その通りだ、と、叩かれた頬をおさえて宵は思った。環が可哀想だったけれど、悲しくはなかった。悲しいというのがどういうことなのか、宵にはわからなかった。
みんな泣いている。みんなにはわかっているのだ。私だけわからない。きっと心まで醜いから。
姉さんはいいわね。
見たこともないほど真っ白な布で出来た美しい衣装を着る前の環に、そう言われた。
姉さんにはこの満月の後の世界があるのね。
真っ赤な目で言った環が可哀想だった。この満月の後、環にはもう何もないのだ。何もかもを持っていても、水底には持っては行けない。
普段は酒など飲まない環も、最後だからだろうか。酒を口に運んでいた。悲しみのためだろうか。酔うのがみな早い気がした。
「宵」
空の器を下げていると、仁に声をかけられた。
「湖のほうで、支度しなくてはいけないんだ。女手もほしいからお前も来てくれ」
嫁入りの作法は村長の家のものしか知らない上に、宵は働かされても全体の動きのことは教えられない。なのでなんの疑問も持たず、仁についていった。
湖は静かだった。風一つなく波一つなく、湖面は月のかたちをそのまま映して光っていた。ほとりには何の用意もなく、ただ男たちが無言で立っていた。
なにかがおかしい。
宵は仁を見た。月の光は仁の目には入らない。ただ黒々とした闇があるばかりだ。
仁が言った。
「やれ」
その言葉の意味を、宵だけがわからなかった。男たちが一斉に宵につかみかかり、宵の細いからだはあっという間に押さえつけられ、土の上に倒れた。痛い。
「なに……」
そうなっても、宵は何が起こっているのか理解できなかった。
「お前、環の代わりに花嫁になれ」
もう何年も着ているせいで丈がすっかり短くなり、あちこちが擦りきれ、ほつれ、元の色もわからない、今は土に汚れた着物を身につけた宵に、仁は告げた。
「な、なに……やめて!」
男たちの固い手に手足をきつく掴まれ、宵は痛みに顔を歪ませる。男たちはばたつく体を易々とおさえ、そのまま抱えあげた。
殺される。
宵はようやっと男たちと仁の意図に気付いた。このまま自分は湖に沈められるのだ。環の代わりに自分が死ぬ。殺される。
宵は混乱し、必死に体をよじって何とか抜け出そうとした。
「くそ! おとなしくしろこのアマ!」
男たちは口々に言い、宵の骨がきしむほど掴んだが、恐怖と混乱に陥る宵には効かなかった。罵倒にも苦痛にも慣れていた宵を押し留めることは出来なかった。男たちにはそれがわからず、宵の抵抗を恐れた。抵抗をされることで、自分たちがしている行為、若い娘を騙して殺そうとしていることと、向き合うことを恐れた。
仁だけは違った。
「宵」
と、静かに、だがよく響く声、村を治める一族として生まれついた者の声で、宵に呼び掛けた。ほとんど名前を呼ばれたことのない娘、命じられることはあっても頼まれたことのほとんどない娘、誰からも愛された記憶のない娘に。
「環が可哀想だと思わないか」
宵の体から、力が抜けた。男たちの手が、軽い体を乱暴に肩の上に抱えあげ、首ががくりと後ろに折れた。仁の目と、逆さまの宵の目が合う。
仁は宵の目をまっすぐに見つめて言った。
「お前が代わりになれば、みんな幸せなんだ。環が死ぬのは可哀想だろう。お前が代わりになってやれ」
仁はいつも、宵に優しかった。宵を蔑んだり、石を投げたり、傷つけようとすることはなかった。仁は強い男だ。自分の苛立ちを弱いものを傷つけることでごまかしたりはしない。彼は宵と話すとき、宵をまっすぐに見つめた。いつも。このときも。
「環と違って、お前は死んでも誰も悲しまない」
だから、これはただの事実だった。
環と違って、お前は死んでも誰も悲しまない。
その通りだ。
「やれ」
宵はもう抵抗しなかった。
誰一人悲しまない死を、ただ黙って受け入れた。
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