距離
僕は走っている。
ほとんど駆けていると言っていい。急げ、走れ、追いつかれるぞと声がするみたいだ。ぜいぜいと息が上がる。呼吸は乱れて、足はもつれそうになりながらなんとか走り続けている。でも、前に進んでいないんだ。
僕は頭ではわかっている。これは夢だ。これだけ身体を動かしているのに前に進まないだなんてこと、考えられないんだから。
夢。
そうだ。
夢。
夢って、なんだ?
寝て、目覚める時に"観る"あの…
僕は後ろを見る。僕は"何か"から逃げているのか? それもわからない。何者かが追いかけてきている様子は微塵も無い。じゃあ僕が感じているこの恐怖は、何なんだ?
いよいよ僕は走れなくなってしまった。もう脚が動かない。あぁ、これまでかと僕は観念する。
何に?
僕は何を諦めようとしているんだ?
その場にへたり込み、僕はあれだけ嫌だった太陽の姿を探す。陽の光は降りてこない。天国の階段なんて、都合良くやってこないものなんだな、やっぱり。
夢なんだろう?
早く、醒めてくれないかな。
きっと、明日も鼎くんがやってくるだろうし。
そう思った途端、アラームの音が聴こえた。美しくもない目を醒させることだけが目的の電子音が鳴り響く。ジャスト6:00のアラームは僕を現実へと引きずり戻そうと必死だ。今日ばかりは助かった、そんな気がする。
僕はなんとかベッドから身体を起こすだけ起こして、軽く伸びをしてみる。大丈夫、きちんと動く。指も、腕も、脚も。身体はキチンと僕のものだ。僕が動かしたいから、動く。
そのままベッドからすぐには降りず、僕は考える。鼎くんが夢に出てくるなんて。いや、正確には出てきたわけじゃないか。思い出しただけなんだあの状況は。僕は鼎くんの顔を思い出す。苦々しい表情しか思い浮かばないのは、僕が鼎くんにした対応の不味さを表しているのかもしれない。
「今度はもうすこし丁寧に、かな…」
寝ぼけているからだろう、僕は何だかよくわからない鼎くんに対しての今後の対応を内に秘めることをぼんやり決めて、カーテンの木漏れ日を部屋に招き入れることにした。
今日の陽射しは少し弱い。気分屋の雲が僕たちに少しの平穏を分けてくれたみたいだ。
喉が渇いていることに僕は気がつく。すこしの汗もかいていたみたいだ。その理由は一つ、さっきまでの夢だろう。
明晰夢、というらしい。僕が観ていたああいう夢は。そしてその明晰夢というのは時にコントロール可能だ、と何かのWEB記事で読んだことがある。僕の場合、コントロールなんてできた試しは一度も無かった。ましてそういう夢を観るときはいつだって追われる身だったから余裕なんてあるわけがない。
これは夢だ、という願望が現実と合致しているから僕は夢を夢だと認識しているだけなんだろうか? これは夢であってほしい、と僕がただ夢の中で祈り続けているから?
全然わからない。喉が渇いていることの方が間違いなく今の僕には優先しなくちゃいけないことだったから、僕はそれを優先する。
僕はベッドから起き上がる。妙に暑いのもエアコンのタイマーが切れているから当然だ。眠い頭を起こしながらリビングに向かう。途中でトイレも済ませる。それから、いつものルーチン。ポットのお湯を沸かして、パンにバターを。簡単なオーブンで焼きはじめる。その間に、フライパンで目玉焼きを作る。ソーセージを入れようかどうか少しだけ迷って、今日は入れないことにした。その代わり、卵を二つに増やそう。ポットのお湯はすぐに沸いて。僕はインスタントのコーヒーを淹れる。例え暑くても、僕はずっと温かいコーヒーを飲んでいる。それが僕の好みだから。
高い音がして、オーブンがパンを焼き終わったみたいだ。僕はオーブンからパンを取り出してその上に目玉焼きを乗せる。これで僕のルーチンは終わり。登校時間までまだ時間はある。僕はリビングの広いソファに腰掛けて、膝よりすこし高いテーブルにルーチンの成果並べる。それをありがたく頂こう。いつもと変わらない味がして、一日のはじまりを感じる。
僕の家にはテレビは無いし、常に静かだ。それに、住んでいるのも僕だけだから尚更だ。誰もいない部屋、僕だけの生活。もう三年も続けているとそれが当たり前になってしまった。逆に、誰かと暮らしていた時のことの方が貴重に思えてくる。そんな時もあったな、そんな風に。
と、デスクに置いてあるタブレットから着信音がする。通話アプリのヘンテコな音がかわいらしいな、と毎回思う。この時間に僕に連絡をする人なんて一人しかいない。タブレットを操作して、僕は言った。
「おはよう父さん」
「司、まだ眠そうだな」父さんの声はすこし笑っているようだった。
「当たり前だよ、こっちはいま早朝」
「時差はすごい、地球が丸くて自転してるって、よくわかる」
「小学生でも知ってることだよ」僕は呆れて言葉にもすこしの棘ができる。
「俺は子供の時にそれ知ってビックリしたけどなあ。司もそうじゃなかったか?」
「ちゃんと教科書に書いてあったからそんなに驚がなかったよ。言われて納得っていうか」
「俺は司みたいに素直じゃないからビックリしたんだよ」父さんは屈託もなく笑っている。
「今の歳になっても俺はわからんことだらけで困ったものでな。もっとちゃんと勉強しておけば良かったよ」
「勉強…そうだね」僕はまだ数年はそれができることを知っていつつも、乗り気にはなれない。
「司」父さんは語気を強める。そして、そのことにたぶん気づいていない。
「三年の夏だろう? 進路はもう決めたのか?」
父さんはいま自分の部屋にはいないだろう。周囲の会話を拾って、父さん以外の声がする。だから、母国語以外の。
「そう…だね。夏休みには、たぶん」
僕は明らかに自分の言葉のトーンが落ちていることに気がつく。聞かれたくもないことを聞かれたからだ。
「司はずっと成績は上位、いまもそうだろ?」
「うん…、父さんに似てよかったよ」
「俺はその歳の時は司ほどの出来は良くなかった。おかげで今でも勉強しっぱなしだ。謙遜しなくていい」
「……やっぱり、そっちに行く方がいいかな?」
いつもこうだ。振り出しに戻る。父さんとは必ずこういう話になるし、それだけ父さんが気にかけてくれていることはわかってる。でも僕にはその期待に応えるだけの"何か"は持っていない。
持っていないんだ。
僕は。
「息子のお前がもしこっちに来てくれたら嬉しいよ。それは本当の事だ。親心っていうのはそういうものだから」
父さんは歯切れの悪い言葉でそう言った。そして僕はその言葉が本心だということもわかる。
「もうすこし…、時間が欲しいんだ。夏休みが終わる頃には。父さんの帰国はありそう?」
「すまないがすぐには厳しい、来年の頭にはなんとかなるように段取りしてる最中だ」
「そっか…うん、来年会えるのがたのしみだね」
「制服姿の司を全然見られてないのは親失格だよな、本当にすまない」
歓楽街の喧騒に掻き消されてしまうような父さんの声は寂しげに聞こえた。
「ううん。良いんだ。僕がこっちに残るって言ったんだから。父さん、僕そろそろ支度しなきゃ。また改めていい?」
「あぁ、そうだよな。今から登校だもんな。悪いな忙しい時に。じゃあまたな、生活費は振り込んであるからすこしは遊べよ」
「うん、そうする。じゃ、またね」
「またな司 」
父さんとの通話を終えて僕はソファに寝そべった。目を瞑って、目を開く。深呼吸をひとつ。二度寝するかも、僕はソファに腰をかけ直す。それから、まだ冷めきっていないコーヒーのカップに僕は口を付ける。うん、まだ暖かい。
「大丈夫」僕はそう言った。
リビングにも今日のお手柔らかな陽射しをすこし招き入れて。ぺたぺたと歩く僕の足音はなんとも間が抜けていたけど。朝の気分は悪くない。
僕はリビングの一番端に置かれた音叉のマークが誇らしい電子ピアノをぼんやりと眺めて。また、鼎くんのことを思い出した。
「夢にまで出てくるなんて。失礼な人だ」
僕はすこし笑った。
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