回想・錆と万能機
不良品
すっかり錆び付いたはずの男の体温は、それでもやっぱり私よりもずっと冷たかった。
長々と続けられる説教にテキトーに返事をして、それで火に油を注いで、怒鳴られて引っ叩かれて、それでも反省の色を一切見せずにいたらもういいと言われて、そのまま。
さらに怒ってどうするつもりだ、とは言ったものの、この際だから溜め込んでいた怒りを全部叩きつけてやるとか言われた。
それが建前なのか本心なのかはわからないし、知ったこっちゃない。
一時期は触ることすら恐れていたくせに、今では普通に触ってくる。
それがいい事なのか悪い事なのかそんな判断は私にはつけられないし、割とどうでもいい。
ただ、手が触れ合うだけでもビクビクされていたあの頃に比べると随分と付き合いやすくなったので、マシになったのだろうと思っている。
少し、疲れた。
叩かれた顔は痛いし、怒鳴られた耳も痛い、ついでに言うと現在進行形でぐっすり眠り込んでやがる馬鹿にキツく抱きしめられてるせいで、全体的に身体が痛い。
こいつの体温がもっと暖かければ眠れたかもしれないけど、肌寒いような季節にこの温度のものにまとわりつかれていると寝たくても寝られない。
ここまできつく抱きしめられていると脱出も不可能だった。
だから、真っ暗な中、眠れもせずにただ寝息を聞くだけの非生産的な時間が、夜が明けるまでずっと続くのだろう。
そういう夜を何度か経験したことがあるから、思わず深々と溜息をついた。
とても退屈だった、私は眠れないのにすぐ近くに呑気に眠りこけてる馬鹿野郎がいるのも苛つく。
それでもこうなってしまうともうどうにもできないので、ぼんやりと時が過ぎるのを待つことにした。
退屈しのぎに、なにかを思い返してみようか?
それじゃあ、まずは自分を抱えて離さないこの男との出会いを。
思い返したところで何一つ現実は変わらないけど、それでもあの頃のことを思い出すと何度だってこう思う。
私一人が死んでいれば、それが一番よかったのに、なんて。
私こと刃振錫が網川
クラスメイトだったので入学時から顔は知っていたけど、基本的には赤の他人だった。
だけど入学から一ヶ月半ほど経ったあたりで、赤の他人で済ませられなくなってしまうきっかけとなる出来事が起こった。
端的にいうと、上級生の男子生徒達に性的な暴力目的で絡まれていたのを助けられたのだ。
確かに私は『部位』がない
あと小学四年生の頃に私は自分のクラスを学級崩壊させたことがあるので、中学の頃までは誰からも避けられまくっていた。
だから平和ボケしていたのだ。
それで大勢に手足を押さえつけられてパンツを脱がされそうになった時に、網川が割って入ってきて私を助けた、というわけだ。
上級生達はあいつに一方的にボッコボコにされた。
だけどそれだけじゃ私の気がおさまらなかったので最後のとどめとして私の血を垂らしてやった。
錆びた事で戻ってきた罪悪感やら恐怖心、倫理観なんかのせいでガッタガタに震える上級生達に『錆びたかったからこんなの襲ったんだろう? これでお望み通りだろう、よかったなあ?』と言いながら一人ずつ股間を蹴り上げてやった。
中学の頃は誰も絡んでくれなかったからそういうのは久々で、だからこそとても爽快な気分になった。
それで爽快な気分のまま私を助けてくれたあいつに礼を言った。
といっても、あんな腰抜けだったら血どころか唾液、ひょっとしたらちょっと触っただけで錆びて物怖じしただろうし、その隙になんとかしようと思えばできたのだろうけど。
それでも助けてくれたのだからお礼は言わなければならない、私は外道の類だけど、そういうケジメきっちりしろと割と厳しめに育ててもらえた子だったので。
それでお礼を言いつつなんで助けてくれたのかと網川に聞いたら、『君のお兄さんに君のことを頼まれていたから』という返答が返ってきた。
話をよく聞いてみると、網川はうちの兄と同じ職場で働いている狩人だった。
そこそこ会話する間柄であるらしく、網川が私のクラスメイトであると知った兄貴が余計な気を回してそんなことを頼んでいたらしい。
本当に余計なことをしてくれたと今でも思う。
その日、家に帰ったら兄貴はまだ帰ってきていなかったので、両親の仏壇に手を合わせた後に夕食の準備を始めた。
それでその日の夕食のおかずである肉じゃがが完成した頃に兄貴が帰ってきた。
手洗いうがいを済ませて『ただいま』といってきた兄貴の両手をいつものように握って、ブンブン振った。
少しだけ冷たかったが、わざわざ錆び付かせる必要はなさそうだったのでそのまま手を離した。
夕食を食べている最中に網川のことをそれとなく聞いてみたら『何があった?』と。
仕方なく上級生に絡まれて助太刀してもらったと言ったら、兄貴は『どこのどいつだ?』と。
殺しはしないだろうけど血祭りにあげるくらいのことはしでかしそうだったので報復はもうとっくに終わっている、ついでに潰したと一部事実を誇張して伝えたところ小さく溜息を吐いて『ならいい』と。
話を聞いてみると、網川は随分前から狩人として兄貴と同じ危険区域で生体金属やら砥が人を狩っているらしい。
随分前っていつぐらいからなのかって聞いたら、兄貴が狩人を始めた頃にはもういた、って。
兄貴が狩人を始めたのが十五の頃だったはずなので約五年前、それで網川は私と同い年のはずなので十一歳くらいの頃にはすでに、ということになる。
なんだってそんなガキの頃から、ってボソッと言ったら『天涯孤独の身らしいから』と。
大変なんだな、と他人事のように思った。
というわけで結構前から兄貴と網川は知り合いというか仕事場での先輩後輩の関係で、結構話していたらしい。
それで網川が私と同じ高校に進学した、と聞いた時に『それならなんかあったらうちの無鉄砲な愚妹を頼む』って頭を下げたそうだ。
余計なことを、って言ったら『それで助かってんだから余計じゃねえだろ』と返された、ぐうの音も出なかった。
それで『あいつもあいつで大変みたいだし、助けてもらったんだからお前もあいつが困ってたらちゃんと手を貸してやれよ』とか言ってきやがった、ふざけんじゃねーよって思ったけど、確かに借りを返すのは大事なことなので文句は飲み込んだ。
網川との関係を借りを返してはい終わり、としたかったのは山々だったのだが、そううまく事を進めることはできなかった。
理由は主に二つ、網川は普通にいろんな分野で優秀だったので私が借りを返せるような隙がなかったこと、もう一つは私が何度も網川に助けられるような状況に陥って、借りを一つ返すどころか借りがどんどんと積み上がってしまったこと。
中学の頃は一度も絡まれることがなかったのに、高校に上がった途端私はよく絡まれるようになった。
単純に私の所業や兄貴のことを知らない奴らが多かったのが主な理由だと当時の私は思っていたけど、今思い返してみると多分違う。
私は不良品だ、『部位』を切り離せない身体は普通の人間よりもずっとずっと暖かく、他者を錆び付かせる。
『部位』を切り離せない私には一切わからないのだけど、『部位』を切り離せる人間は錆びる時に快感を感じるらしい。
砥がれていたせいで削られていた人間性が元に戻るからなのか、単純に体温が上昇するからなのか、あるいはその両方なのか。
二次性徴期を終えた人間は特にそれが顕著になるそうで。
高校に上がってからの私の知名度は中学の頃ほど高くなかった、というかあの事件そのものが風化しかけていたのだろう。
あの事件のせいで最終的に死者が多数出たというのに、人間というものは忘れっぽい生物だ。
だからしょっちゅう襲われた。
不良品だからと幼少期の頃から虐待レベルの特訓をさせられていたので、助けられなくても多分ほとんどなんとかなったと思う。
基本的にナイフ一本でなんとかなっただろうし、そうでなくても血に触れさせさえすればなんとかなる。
ああいった手合いは基本的に砥がれているせいで気が大きくなっているだけなのだ、錆び付けば大体自分がやったことにビビり散らして怖気付く。
恐怖、罪悪感、倫理観は一番削られやすい感情なので、それさえ戻してしまえばそこに残るのはその感情を失っていた時に犯した自分の罪に恐れ慄くだけの弱者だ。
そして私はそう言った手合いを蹴散らすことがとても好きなので、実は襲われるたびに『今度こそ綺麗に叩きのめしてやる』とちょっとだけワクワクしていたりもした。
だけど、大抵私が反撃する前に網川がなんとかしてしまった、どこに連れ込まれようが基本的にほぼ全部。
それでもせめて最後にとどめを、と思ってナイフを取り出して自分の手を切ろうとするとやんわりと止められる。
せっかく合法的にぶちのめしてもいい相手が向こうの方からホイホイやってきてくれるというのに、目の前でその獲物をかっさらわれる。
ついでに助けてもらったという負債も増える。
それと毎回助けてもらっているせいで小学生の頃のように私本人がやばい奴だという悪名が一切轟かない、だから私に手を出そうとする奴は一向に減らなかった。
それと網川の隙をつこうとして巧妙な手を使ってくる面倒な奴もどんどん増えていった。
いいことなんて一つもなかった、それどころか事態がより面倒になっていくだけだった。
一回でいい、私に絡んできた輩をできればいっぱい、それも出来るだけ強い奴を私一人で徹底的にぶちのめしたい、あの女は滅茶苦茶にやばい奴だという悪名を轟かせたい。
そうすれば静かに暮らせる。
そうすれば余計な奴らと関わらずに済む。
そう思って網川に『私一人でも案外なんとかなるからもう助けなくていいよ、というか余計なお世話だから』と何度か言ってみた。
だけど網川は毎回首を横に振った、あっちだって面倒だろうに。
兄貴になんか弱みでも握られているのだろうかと思ってそれとなく聞いてみたけど、そういうのもなさそうだった。
そんなやりとりを繰り返しているうちにも襲撃者の数は一行に減らず、登下校の際に送り迎えまでされるようになってしまった。
それで兄貴の方に網川が過保護でうざいって言ってみたら、拳骨を喰らわされた、理不尽。
それでもどうすれば網川を私から引き離せるんだろうと考えているうちに思考が迷走し、私はふと網川が錆びるとどうなるのだろうかと思い始めた。
狩人として日々戦い続けているのであれば日常的に砥がれ続けている状態のはずだ、それにしては砥がれている奴らによく見られる倫理観の欠如や凶暴性は見られなかったけど、なんらかの人間性が欠如し続けている状態であることは確かなのである。
だから、錆びたらどうなるのだろうかと思った。
そして錆びたその時に私に対する嫌悪感やら忌避感を植え付けることができれば、もう網川は私を助けようとは思わなくなるだろう。
私のせいで網川と兄貴の間に修復不能な溝ができる可能性はあったけど、構うものか、と。
兄貴に滅茶苦茶怒られるだろうなとは思ったけど、どうせも怒るだけ怒ればそれで終わるのはわかりきっていたし。
……今思うと、私は随分と甘やかされて育ったんだなと思う。
なんだかんだ言って、兄貴、というか家族だけは私を絶対に裏切らないし見捨てないと、それが当然だと私は信じて疑わなかった。
性悪でいいところなんて一つもない子供の癖に、少しでもそういう心配をしなくて済んだのは私の性格が手遅れなほど悪かったのではなく、あの人達が私の事を大事にしてくれたからだ。
断言はできないけど、そうだったのだと信じたい。
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