第9話 夜
「密会な訳ないだろ」
「深夜に裸の少女を連れている独身男が言っても説得力はないな」
エリンキルの言葉に少女はうんざりした様子で服を纏う。彼女なりに気遣いをしてくれたのだろう、やはり服が苦手なのか少女は(露出の多い服とは言えど)窮屈そうにしている。
だがフェルディナンドからすれば、エリンキルは少女が裸であったことに苦言を呈した訳ではないことは分かっている。あの時は単純に他の兵士からの視線があった為に服を着るよう言っただけであり、周囲に彼らがいなければエリンキルは夜空の下で少女が裸であろうがなかろうが知ったことではない。
「……こんな夜更けに薄着で天体観測とは戦場で随分と余裕だな」
今のエリンキルの装いは滑らかな絹の寝間着に丈の長い薄手の上着。普段は着こんでいるために見えないすらりと伸びた脚を惜しげもなく露出している。しかし、だらしのない寝間着姿で堂々と外に出る肝の座りようは大したものかもしれない。或いは警戒中の兵士たちに最大限の信頼を置いているのか――だとすれば、今宵警備にあたっている兵士は幸運だろう。大国四大家の娘のあられもない姿を目に出来たのだ、これほどの幸運はそうそうない。
「皆優秀な兵だからな、私も安心して星を見ることができる」
エリンキルは天体望遠鏡を慣れた手つきで組み立ていく。その顔つきは誕生日を迎える子供のように、期待と興奮に満ち溢れていた。
彼女が天体観測を趣味にしていることを知ったのは、フェルディナンドが大国での仕事を請け負始めてから数日経った時だ。
思いのほか難航した仕事を終えたのは夜更け過ぎ。報告は明け方にしようと考えたものの、任務が終わり次第即座に報告を行うことをエリンキルから言われたことを思い出し、珍しく疲労を覚えた体を引きずり彼女の家へ。入口近くの守衛に伝言し、案内されたのは彼女の自室。
扉をたたき入室の許可を得たフェルディナンドを待ってたのは、大きな窓の近くで星を見ているエリンキル。広めの部屋は煌びやかな宝石と世界各地で収集した珍妙な品が並ぶ。隅に置かれた一人用の天蓋付き寝台が無ければ、凡そ自室と言うよりは古物商や骨董屋の店内のようであった。
その時のエリンキルの服はこの場で着ているモノと同じ。いや正確には上着を着ていなかったか。
乙女の寝室に現れた野蛮な男を前にしながらも。
彼女は恥じらう素振りの一つも見せず。
天体望遠鏡から目を離し。
さも当たり前のように、こちらに向かって報告を述べるよう促したのであった。
「戦場に来てまで星を見るとは物好きだな」
「星に関しては私は物好きだ。それにこの地は夜が暗いから星が見やすい、大国は夜でも明るすぎる」
大国の中心部は夜でも昼のように明るいことで有名だ。権力の象徴たる王城の下に広がる城下街は大規模な歓楽街と化しており、たった一夜で莫大な金と底のない欲望が渦を巻き、不夜城と称されるその場所を求め各国から人々が集まる。
絢爛にして騒乱。何処かで騒ぎが起きれば、瞬く間に野次馬と衛兵が集まり更に大きな騒ぎを周囲に波及させる。フェルディナンドも噂では聞いていたが、初めてその光景を目にした時には流石に驚きが隠せなかった。非日常的な体験は人の心を躍らせるが――それも慣れれば日常になる。取り分け仕事のせいで、フェルディナンドは大国城下街の空気に染まるどころか、その辺の大国民よりも街並みに詳しくなっていた。
「それは良かったな。しかし明日は朝から出発なんだから、夜更かしは厳禁だぞお嬢さん」フェルディナンドはからかい混じりに言う。
「それはお前の方だ。明日からとことん働いてもらうのだから、今のうちに体を休ませることだな」
「俺は少し寝ればそれだけで元気なんだよ。それに夜更かしは女の敵だろ」
「お前にしては珍しい物言いだな。私を追い払って、そこの少女の裸鑑賞会でもしたいのか」
「ああ、そうしたいところだな」
「そうか断固拒否する。しかし、お前にそんな趣味があったとはな、次からは出歯亀の真似事でも頼もうか」
フェルディナンドの言葉に少女が意味深な微笑みで振り向いた。器用にも上半身だけを開けさせており、それに対してエリンキルが反応しないことが分かると、長年の束縛から解放されたような顔で再び裸体になる。
なお、フェルディナンドが少女の裸を見ていたい――無論そうなのだが――訳ではなく、単にエリンキルと何も考えずに反射的に会話をすることは少し楽しいからこそ先のような事を言っただけだ。普段は大国四大家の次女としてある程度の威厳を崩さないエリンキルだが、今の彼女はその鎧を脱いだ状態。故にフェルディナンドのからかいや軽口に対して、彼女もそれ相応の気分で言葉を返してくれる。
まあ、出歯亀の件は本気で頼んできそうな気ではあるが。
「出歯亀……確か極東の方の言葉だったか? よく知っているな」
「オーウベンが使っていたのを耳にしてな」エリンキルは望遠鏡を調整しながら言う。
「あの男、極東出身なのか」
「四年前の大国東方遠征の際に行った雲空計画があるだろ」
雲空計画とは東方遠征に際して大国が行った、東方地域一帯の有力な人間や派閥勢力の引き抜き作戦。他の弱小魔術国家に当時一大勢力を築いていた東方魔術師派閥が援助をしていたために、彼らを崩壊せさて力を削ぐべく本作戦の前に複数実行された作戦の一つ。
東方遠征自体は痛み分けでは終わったが優秀な人材を得たことで大国はより強大化し、一方魔術師派閥は力の減少に伴い分裂し今尚東方は勢力争いが続いている。最も雀蜂の巣を突くような行いで、東方の地を混乱させたことは自国内でも批判が高まったことは記憶に新しい。
「その計画で薬草に対する知識の高さから引き抜かれた一人がオーウベンだ。変な名前なのも、大国に亘った時に変えた為だ」
「極東人らしい律儀な性格だな。しかし、よくもまあ、今や第二室長だなんて役職の人間を今回の作戦に引っ張ったな」
「奴が率先して手を上げていたぞ。陛下の御前で常世がどうだのと、熱弁をした時は頭が痛かったが、今の状況を見れば奴以外の適任はいないな」
現大国王の前で熱弁とは中々肝のある男だ。フェルディナンドも一度だけ国王の前に立った時があるが、あの風格はただならぬものであった。かつて王子であった頃、隣国の戦いでは自ら兵を率いて先陣を切った逸話も頷ける。今こそ少し老いてはいるが――全盛期であればフェルディナンドも歯が立たないだろう。
「こんだけ優秀な人間がいれば大国は安泰だな」
「いずれはお前も正式に大国に引き込む予定だからな」
「魔術師が作った武器を使用している俺を快く迎えてくれるとは思わないけどな」フェルディナンドは技巧銃と刺剣を見せびらかす。
「不服だが魔術の力は素晴らしいものだ。技巧銃や魔術武器もそうだが、あの力を用いればより大国は強大になる。かつては私も蛇蝎の如く嫌悪していたが――この先、魔術師たちと争うならばそれに頼ることもあるだろうな」
驚いた。魔術師嫌いの急先鋒たる大国、その四大家の一つ、鍛冶職人を祖先に持つ家系、そこの次女サマがそのようなことを言うとは。
確かに大国でも一部の知識人は限定的な使用のみに魔術を導入することを模索しているとは聞いていたが、よもやエリンキルもそのような考えを持っているとは思ってもみなかった。
「間違っても俺の前以外では口にするなよ。お前のお陰で大国で禄を食んでいられるんだ、反主義者扱いされて首を斬られちゃあ、俺も追われる身になる」
「下手なことはしないさ。だが私は必ずや魔術の導入を行う、労働階級の仕事は無論確保してだ。それでいて我々大国に歯向かう魔術師共を一掃する。その時、汚い仕事はお前に任せるぞフェル」
「今でさえ大仕事をやってるのに、この先もそんな大変な仕事を任すのか。少しは休ませてくれよな」
「無論、全てが終わった時にはお前の生活を最大限保障しよう」
エリンキルはそこで望遠鏡から目を離す。視線の先には月明かりを気持ちよさそうに浴びている少女。漆黒の四枚の翅は、何もかもを吸い込みそうな程に真っ黒だが――月の光を受けると透き通るような翅の薄さと幾何学模様が僅かに浮かんでいる。
不思議な光景だ。
目を奪うような姿だ。
星を見ていたエリンキルも思わず彼女の姿に視線を向けてしまったのか――いや、違う。エリンキルの瞳に映るのは何かを企むような色が見える。
エリンキルが少女に対して何を思っているのか、それは分からない。尋ねたところで簡単には聞かせてくれないだろう。
ただ、もし――その企みが少女の姿を少しでも穢すようなものであるなら――。
エリンキル――お前を殺さないといけない。
無論、そのような結末は迎えたくない。
少女にしろ――
エリンキルにしろ――
フェルディナンドにとっては――
帽子の下で誰にも悟られない様に笑みを浮かべ、フェルディナンドは強く煙草を吸う。
少女は月明かりの下で輝き、エリンキルは星を見て目を輝かせる。
僅かに訪れた束の間の静謐。
明日から始まる忙しさを前にフェルディナンドは軽い睡眠の前に獲得した宝石を取り出す。不健康な生活を続ける自分が突然死んでも大丈夫なように――就寝前に宝石を見る癖が彼にはあった。最もあの少女を手にする機会があるのなら、不健康なこの肉体にも出来る限り耐えて欲しいものだ。
そんなことを考えながら、宝石の輝きをしっかりと目に焼き付けるとフェルディナンドは帽子を深く被り直すとゆっくりと目を瞑る。
エリンキルたちの野営地から遠く離れた場所。小高い丘の上、豪華な飾りを着用した立派な馬と銀色の鎧を纏った騎士がいた。煌びやかな銀の鎧には戦場でつけられた傷がそれも一つの装飾かのように施されており、鎧の持ち主が幾多の戦場を生き延びた猛者の象徴。狼を模した兜はまるで生きているかのような眼光の強さを備え、対峙したものに畏怖を与える。腰にある一振りの刀は特徴的な飾り気がなく、戦うためだけに鍛えられた無骨さに光る。
騎士は手にした望遠鏡で野営地の状況を細かく監視している。流れる様に望遠鏡を動かしていた手がふと停止する。
黒い装いをした男、即ちフェルディナンドを目にした時騎士は心の内から湧き上がる黒い衝動を抑えるべく、体を震えさせる。
「いかがしましたか、アコニティナ様」
アコニティナの異変に気付いた騎士ガブリエルが近づく。古くから彼女のことを知る彼は、震えたまま言葉を発さない彼女を焦らすことなく待つ。アコニティナ必死に耐えている。激しい憤怒と殺戮衝動を抑えなければ、彼女はすぐにでも馬を駆って野営地に攻め込んでしまう。
それは許されない。今の我々に課されているのはあくまでも、自分たちの本拠地に姿を現さない他国からの来訪者の偵察だ。
「……あいつだ、あいつが、フェルディナンドがいる。それに、あいつが持っているのはヘディナの力が宿った宝石だ」
絞り出すような声。仇を前にした険しい声、しかし僅かにだが気品ある女の声。
「今は抑えてください。まずは報告をしましょう、何よりヘディナ様を倒したとなれば我々とて容易く勝てる相手ではありません」
沸々と煮えたぎる熱湯のようなアコニティナに対して、ガブリエルは冷静さを欠かずに告げる。まるで喚き散らす子供を静かに宥める親のような声に似て、アコニティナは幾度となく彼のそれに助けられてきた。
怒りを抑えるために数分かけ、アコニティナとガブリエルは馬に乗り帰還する。
二人が向かう先はこの国の中心部に建てられた城。夜空に浮かぶ月に輝くその姿は、息をのむように美しいまるで野に咲いた一輪の花のようである。
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